地球最後の笑声を
「三日後、地球は、ほろんでしまいます」
がいこくの偉い学者さんが、そう言いました。
わたしは、泣きじゃくるお母さんをなぐさめて、お父さんに電話をかけながら考えます。
どうしよう?
そりゃ、わたしももう5歳ですから、地球がほろんでしまう、という言葉の意味くらい分かります。
わたしや、家族、友達のゆうちゃん、けんくん、ミキ先生。
みんな一緒にどこか別の暗いところへ行ってしまう未来が、三日後にせまっているということも理解していました。
どうにかして、三日後、地球がほろばないようにしなくてはなりません。
わたしは、受話器を通してお父さんに「家へ帰ってくるように」というお母さんの伝言を終えると、受話器を置きます。
テレビでは、まだ中継が行われているようで、学者さんはかなしそうな表情のまま、こう言いました。
「――ですから、誰か。誰でもいいのです。誰か一人の人間が、この世界を救うのです。誰でもいい。誰でもいいから、この世界の救世主になってください。こちらの電話番号にかけてくだされば――――」
わたしは迷うことなく、今さっき置いたばかりの白い受話器をもう一度手に取りました。
リビングにある大きなテレビ、その画面にでかでかと映る番号を、一つ一つ丁寧に押していきました。
ぷるるるる、ぷるるるる……。四回目のコール音の真ん中くらいで、女の人が電話に出てくれました。
わたしは、もしもしという言葉を言い忘れたまま、いきなり女の人に話しかけます。
「あの、こんにちは」
「……え、あ。はい。こんにちは……」
「あの、テレビ、見ていたんですけど」
「あー、はい。その件でしたら、本当に悪ふざけや番組のプロジェクトなどではなくて……」
「わたし、応募したいんですけど」
「いえ、ですから………………へ? あ、あの。いま、なんて?」
「だからね、わたし、応募したいの。地球を救いたいの。5歳じゃだめ?」
「5歳? え、っと。ごめんなさいね。いま、近くにお母さんかお父さん、いるかな?」
わたしは知っています。こういうときに電話を代わると、大人は「オトナの話」を始めてしまうのです。それは、わたしの家だけではなく、ゆうちゃんやけんくんの家でもよくあることなのだそうです。
きまって「オトナの話」を始めるお母さんは、普段よりも声を数段高くしてしまうのが、なんだか怖くて嫌いでした。だから、私は嘘をついてしまったのです。
「ううん、いないの」
ちくり、胸に小さな痛みが走ります。
けれど、次の瞬間、そんな痛みは吹き飛んでしまいました。
「そっかあ、それじゃあね、まだ5歳の女の子には、早すぎるお話だからね。もう少し大きくなってから……」
「うっふふふ! お姉さん、面白い!」
「え、なにが?」
「だって、あと3日でわたしはそんなに大きくなれっこないもの! うっふふふふ!」
わたしはお姉さんのとびきりの冗談が面白くて、大きな声で笑ってしまいます。
お姉さんもそれを聞いて、ピンと張っていた糸を緩めたように、とてもきれいな声で笑い始めました。
きっと、この綺麗な声がお姉さんの本当の声なんだ。
ずっとお姉さんもそういう声で話していればよかったのに。
心地よく響く声で、お姉さんは笑いながら優しくお礼を言います。
「あっははははは! まったく、本当だ! あなたのお陰で笑顔になれたわ。ありがとう」
「いいえ、わたしは何もしていないのよ。お姉さんが面白いことを言ってくれたの。本当、おかしいわ」
「…………でも、これが冗談じゃなければ、よかったのにね。あたしはまだ信じられない。その、地球がほろんでしまうとか、そういうの。実感がわかなくて」
お姉さんは、自分のことを「わたし」ではなく「あたし」と言いました。ドラマで、太陽のように明るい髪の毛を生やした女の子がそう言っているのをわたしは見たことがあります。
その子のように、お姉さんも太陽のような髪の毛をしているのでしょうか。
その子のように、楽しいことや嬉しいことを我慢せずに喜べるのでしょうか。
そうだったらいいな、とわたしは思いました。
なんだかお姉さんはいい人だという気がしてきて、わたしはもっとお話をしたくなりました。
「けれど、みんな信じているわ。今だって、テレビで学者さんが悲しそうな顔をしているもの」
「そう、きっと本当のことなの。隕石が落ちてくるとかなんとか。けれど、なんだか自分のことのような気がしなくて。誰かが何かをして、結局どうにかなるんじゃないかって、思ってしまう」
「どうして? どうにかするために、人を集めているんでしょう? そしてそれが、お姉さんの役目だったんじゃないの?」
「そのとおり。お嬢ちゃんは本当にかしこいね」
「いいえ、かしこくないわ。まだ漢字があまり読めないの」
「5歳だっていうのが嘘に感じられるくらいに、君はかしこいよ。そして純粋だ」
「じゅんすい? それはどんな字を書くの?」
「少し難しいから、あとでお母さんに聞いてみるといいよ。帰ってきたら、聞いてごらん」
「……あのね、お姉さん」
「ん? どうしたの?」
「ごめんなさい、わたし嘘をついていたの。5歳なのは本当。お姉さんに電話した理由も嘘じゃない。けど、お母さんがいないというのは嘘。いまリビングでテレビを見ているわ。嘘をついて、ごめんなさい」
わたしは怒られる前の子犬みたいに身体を縮こませながらそう言いました。
お姉さんは少しの間を開けて、次の瞬間――――。
「あっははははは! あー、お嬢ちゃんは本当に純粋で、かしこいなあ。あっはははははは! いいよいいよ、許してあげる。お姉さんは君が気に入ったからね、特別に許してあげるよ」
わたしはぽかんとしてしまいました。
だって、嘘をついて、謝ったのに、褒められてしまったのです。
混乱した頭を整理して浮かんできた言葉は、ありがとうでした。
わたしはその気持ちをそのまま伝えます。
「ありがとう、お姉さん! わたし、もっとお姉さんとお話したいわ」
「そうだね、あたしもそうしたいんだけど…………ごめんね、これでも一応仕事中なんだ」
「もうすぐ地球がほろんでしまうのに、お仕事をしているの?」
「あはっ、そのとおり。今すぐにでも辞めてしまいたいけれどね。そうもいかないんだ」
「どうして? お姉さんには、やり残したこととか、会いたい人とかはいないの? わたしは、お母さんやお父さんとご飯が食べたいし、ゆうちゃん、けんくんとまた泥遊びがしたいわ。ミキ先生と歌も歌いたい」
また、間があります。
けれど、今回はお姉さんの笑い声は聞こえてきません。代わりに、いくらか落ち込んだ声が耳に届いてきました。
「…………そう、だよなあ。死ぬ前って、そうであるべきなんだよなあ。そしたらあたしは、生きてていい人間じゃないのかも知れないなあ。お嬢ちゃんみたいな人のほうが、よっぽど――――」
「…………お姉さん?」
「あ、ううん、ごめん。なんでもないよ。――――そういえばお嬢ちゃん、名前はなんていうんだい? もしよかったら聞かせてくれないかな?」
「かなえ、って言うの。漢字はね、口に十。とっても簡単なの」
「かなえちゃん、か。とってもいい名前。お嬢ちゃんにぴったりだ、本当に」
「わたしもそう思うの。嬉しいわ、お姉さんがわたしと同じことを考えてくれて。お姉さんは、なんてお名前なの?」
「………………言えないよ」
うまく聞き取れません。
電波が悪いのでしょうか? けれど家の電話に電波が関係しているのか、わたしにはわかりません。
なんだかまずいことを聞いてしまったような気がして、お姉さんに呼びかけます。
「あの、お姉さん?」
「あ、ご、ごめん。仕事に戻らなくちゃいけないみたいだ。かなえちゃん、最後にお母さんと、替わってくれないかな?」
「え……もうお話は終わりなの?」
「――――うん、ごめんね」
「わたし、またいつかこの番号にかけるわ! そうしたらまた、話せるよね?」
「うーん、どうだろう。わたし以外にもこの電話に出る人はたくさんいるんだ。いまも電話が鳴り止まない。かけてくる人は、みんな苦情しか言わないし、悪ふざけをやめろーって怒っているだけなんだけどね。誰かのせいにしたくてしょうがないんだと思う」
「お姉さんは悪くないのにね。悪いのは隕石よ」
「あはははっ、でも隕石には電話が届かないからね。誰かが宇宙船に乗って、ギリギリまで近づいて爆破させるしかない、っていうのが結論らしいんだ。その運転手を、いま世界中で探しているんだよ」
「じゃあ、わたしがその運転手になるわ。もともとそのつもりで電話をかけたんだもの」
「それは、だめだよ」
「どうして? わたしがまだ小さいから? ジェットコースターのように、危険だから制限があるの?」
「危険、と言うか……まあ、死んじゃうからね」
「え……」
「だから、お嬢ちゃんみたいな純粋でかしこい子は、運転手にはなれないんだよ。他にもっと、適した人が居るはずだからね」
「……そんな人が、いるの? 死ぬべき人がいるの?」
「いいかい、かなえちゃん。死ぬのがふさわしい人はいない。この世の誰も、死ぬべき人なんていないんだ。けれどね、生きるのがふさわしい人。笑顔がふさわしい人。幸せがふさわしい人は、きっといるんだ。あたしは、もうその人を見つけたよ。同時に、自分がそうでないことにも気づいたんだ。だから、死ぬのがふさわしい人はいないけれど、幸せを受け取るのにふさわしくない人は、いるんだよ」
「それは、同じ意味じゃないの?」
「え?」
「だって、ミキ先生も言っていたわ。わたしたちは幸せを感じるために生きているの。なのに、幸せを受け取っちゃいけない人がいるのだとしたら、その人は生きている意味なんて、ないのかもしれないわ。それにきっと、そんな人生は楽しくないもの」
「…………かなえちゃんは、本当にかしこい。かしこい君は、どうかそのままで、生きていってくれ。ずっと」
「うっふふふふ! お姉さん、その冗談本当に好きなのね! うっふふふ!」
「…………冗談じゃ、ないよ。本当に。冗談じゃない」
お姉さんは、もう笑わない代わりに、とびきりの怒りをぶつけていました。
それはきっと、わたしを通り抜けてテレビに映る学者さんや、隕石、お姉さん自身に向かっているようなきがして、わたしには分からない気持ちが沢山こもっていて。何も言えずに口を閉じてしまいます。
「…………かなえちゃん、ごめん、サヨナラだ。最後にお母さんに、替わってくれ」
「う、うん」
「……ありがとう。あなたは命の恩人だよ」
お姉さんの有無を言わせない会話の打ち切りに、わたしは素直に従いました。
だから、受話器を耳から離してお母さんを呼んでいたわたしに、お姉さんの最後の言葉は聞き取れませんでした。
それから、お母さんは動揺しながらも電話に出てくれました。はじめは「オトナの話」をしているようにも見えましたが、何度かこちらをふりむきながらお姉さんと話すお母さんは、次第にいつも通りのお母さんに戻っていきました。
そうして、何度か涙を流してから、静かに、ゆっくりと受話器を置きました。
お母さんは何も言いませんでした。お父さんがすぐに帰ってきてしまったので、わたしはお母さんに、お姉さんと何を話したのか聞くこともできないまま、その日は眠りました。
夢で、わたしはまたお姉さんとたくさんお話をしていました。幸せな、幸せな眠りだったことを覚えています。
翌朝、目を覚ましたわたしがリビングへ降りると、悲しそうな表情をするお母さんとお父さんがいました。
最初、お父さんがまだ家にいることに驚きました。
けどすぐに、お父さんはもう地球がほろびるから仕事に行っていないのだと気づいて、私もリビングの椅子に腰掛けて、何気なくテレビを眺めました。
書き取りができるようになるほどに見た「地球滅亡」の四文字は、不思議な事にもう画面からは消えていました。代わりに、見慣れない文字がでかでかと表示されています。
わたしはお父さんに読み方を教えてもらいました。
「きゅうせいしゅ、あらわる?」
「ああ、そうだ。世界のために、自分を犠牲にすると決めた人が、現れたんだ」
「そうなの! よかった。わたし、昨日応募したのにお姉さんに止められてしまったから、昨日はお願いできなかったの。もし今日になっても応募している人がいないようなら、わたしもう一度電話をかけようと思っていたのよ」
お母さんは、はっとしたような顔でこちらを見て、また目をそらしました。いつもとは違う態度に、わたしはなんだか嫌な気持ちになります。
お母さんにむかって、わたしはミキ先生の言葉をぶつけました。
「お母さん。自分がされて嫌なことは、人にしちゃいけないんだよ。お母さんは、ちらちらと顔を見てそらされると嬉しいの? わたしは嬉しくないわ。用があるならはっきり言ってちょうだい」
「…………ごめんね、かなえ。わたしもそれは嫌だわ、許してくれるかしら」
「うん、いいよ。それで、何か話したいことがあるんじゃないの?」
お母さんは、ちらりとお父さんを見ます。お父さんもその視線に気づいて軽く頷いてから、またテレビを見ます。何やら会見が始まるようで、たくさんのカメラを構えた人たちが集まっています。
レポーターが「あと五分ほどで到着するようです」と興奮気味に伝えました。
「あのね、かなえ。昨日のことなんだけど」
「うん」
「かなえ、電話していたでしょう。お姉さんと」
「ええ、していたわ。それで、わたしも一つお母さんに謝らなきゃいけないことがあるの」
「うん、なあに?」
「本当は、お姉さん、もっと早くにお母さんに替われって、わたしにお願いしていたの。でもわたし、嘘ついちゃった。お母さんはいませんって。だって、オトナの話が始まったら、わたしの話はなかったことにされてしまうもの」
「それはもうお姉さんから聞いたわ」
「うん、だからね、ごめんなさい」
「いいのよ。お姉さんにもちゃんと謝ったんでしょう?」
「ええ。嘘をついて、それを謝ったら褒められたの。生まれて初めての経験だったわ」
お父さんは小さく吹き出しました。やっぱりお姉さんは人を笑顔にする才能があるみたいです。
お姉さんの話をしているだけで、わたしは幸せな気持ちになりました。
「かなえ、それでね、お姉さんのことなんだけど」
「うん。昨日替わってから、何を話したの?」
「お姉さん、救世主になりますって、言ってきたわ」
「…………え?」
「あなたと……かなえと話して、決めたって。他人事じゃないんだって、気づいたそうよ」
「そんな、いや。いや。いやよ。だって、それって、昨日言っていたもの。運転手になったら、死んでしまうかもしれないって」
「その覚悟が、決まったらしいの」
「なんで! なんでお姉さんが! あんなに楽しくお話してくれるお姉さんが、どうして? 他の人がいけばいいじゃない! なんならわたしが……!」
「おい、会見、始まるぞ」
半狂乱で泣き叫ぶわたしを止めるように、お父さんが低い声を発しました。
その声につられて、わたしとお母さんはテレビに向き直ります。
まばゆいフラッシュが煙のように空間を白く染めています。
そのなかから、一人の女性が顔を出しました。
金色に近い髪の毛を胸まで伸ばして、にっかりと笑う、美しい人。
フラッシュを眩しそうにしながらも晴れやかな表情をしています。
台の上に置いてあるマイクを手にとると、なぜかいすに座らないまま立っています。
と、思ったら、今度はいきなり大きな声で自己紹介をしました。
「みなさん! はじめまして! カネコハルカって言います! あの、名字はダサくて嫌いなんですが、名前は気に入っています。ですので名前だけでも覚えて帰ってくださいね。あ、世界中のカネコさん、すみません」
聞き覚えのある声に、わたしは声がだせません。
本当に、お姉さんが?
お父さんは、テロップに出たお姉さんの名前を見つめています。
わたしには、その漢字が読めないけれど、お父さんには漢字の意味もわかっているのだと思いました。
「えーっと、学生時代も、あまり人前にでるタイプではなかったんですが。今こうして世界中の人に向けて何かを話せる機会を頂いて、なんだかおかしな気分です。あ、おかしな気分って言っても、変な意味じゃないので。お茶の間の空気を悪くしたいわけじゃないんですよ。あっはははは!」
よくわからなかったけれど、お母さんとお父さんがぎこちなく笑って、私もなんだかわらってしまいました。
わたしが笑ったら、ふたりともすごくびっくりしていて、
「意味がわかっているのか?」「なんで今のをおもしろいと思ったの?」と聞かれました。
別に面白くなくても笑うの、と言ったら、二人は納得したような、していないような表情でテレビに向き直りました。
わたしはお姉さんのきれいな声に耳を澄ませます。
いつの間にか、わたしは座っていた椅子を降りて、テレビの前に正座していました。
「まあ、大勢の前に立ったとして、あたしが言いたいことはそんなに多くなくて。見ての通り、こんな学のない下品な女なんですけど。こうして救世主なんてまつりあげられる前は、って言うか昨日までは、派遣のバイトで食いつなぐような存在でした。たまたま、あたしの派遣先がテレアポみたいなとこで。運転手志望の人を探すために、あらゆるテレアポ会社に協力が依頼されて、あたしも昨日は電話の前に座っている人間でした」
そこまで言ってから、お姉さんは何かを思い出したような表情で声を荒げます。
「あー、そうだ、みなさん、あんまり苦情ばっかり言わないでくださいね? 気が滅入るったらありゃしないんですよ? 自分がされて嫌なことはしない、習いましたよね」
記者のひとたちも、笑います。
はじめはこわい雰囲気で始まった会見も、お姉さんがマイクを握っただけでもう和やかな雰囲気に替わってしまいました。わたしはそれがうれしくて、テレビの前でにんまりします。
「そんなわけで、昨日、あたしは世界が終わるなんて他人事だと考えながら、受話器を取る機械と化していました。何件も何件も苦情を受け付け続けて、一息つこうとしたところで、また一本の電話がかかってくるんです。もうあたしは受付ロボットですから、あー。はいはいまた苦情ですねー。って感じで、軽く受話器を取ったんです。そうして、その相手と話して、気がついたら、ここに立っていました」
一体その電話の相手とは誰なんだ? という声が聞こえてきます。
記者のひとたちは、もう取材という目的を忘れて興味をもっているようでした。
わたしは、答えを知っているのにドキドキする胸を抑えられません。小さな指で身体を抱きます。
お姉さんはきれいな、けれどしっかりと芯のある声で言い切りました。
「5歳の少女です。いや、少女と呼ぶのがはばかられる程に聡明で、純粋で、それでいて優しさに溢れている子でした。彼女は言うんです。わたしが救世主になるの、って。笑っちゃいません?」
記者の人たちに同意を求めるような声。
それにつられて記者の人たちが少しずつ笑いだします。
さっきまでの雰囲気もあって、完全にみんなリラックスしていました。
けれど、急にお姉さんは真顔に戻って、言います。
「あたしは、あたしは笑えませんでした。その声があまりに真っ直ぐで、真実味を帯びていたから。彼女は、本気で地球を救うつもりだったんですよ。笑うなんて、とんでもないって思いました。だけどあたしは、こう見えても一応常識をわきまえていましたら。5歳の女の子を見殺しにするわけにはいかないって思って、お母さんに替わってねーってな具合で電話を替わってもらおうとしました。その子の言葉を借りれば、オトナの話をして、切り抜けようと思ったんです」
「お姉さん…………」
わたしは一言も聞き漏らさないように、更にテレビの近くへ寄っていきます。
近づきすぎて、静電気が頬にびりりと触れます。
「けどその子、言うんですよ。お母さんいないの。って。困っちゃいますよね。純粋にお母さんがいない家庭なのか、出かけているのかも分からないから、あたしはとりあえずその子と話をしようと思いました。苦情の波に飲まれるくらいなら、ちびっこの相手してたほうがマシだなって打算もありました。まあ結局何故かこうしてここにいるわけなんですけど……。打算がどう外れたらこのステージ上で会見するハメになってんのかって話ですよね、あっははは」
一呼吸おいて、お姉さんはさらに続けます。
もう記者のひとたちは、笑っていません。
「……けど、その打算が外れてくれたことを、今、あたしは嬉しく思います。打算がはずれなければ、きっと今日もすべての物事を他人事にして、受話器を取るロボットに終止する日を送っていました。少女に正々堂々向き合っていなければ、ここにはいませんでした。その少女は、短い電話の中で、わたしにたくさんのことを教えてくれました。本当に、5歳かよって、思う、くらい……」
お姉さんの声は次第に湿り気を帯びていって、ついには下を向いてしまいます。
けれど、袖口で目元をぐしぐしとこすると、真っ赤な目をこちらに向けて、満点の笑顔を咲かせました。
「ずっと、何事も他人事にして生きてきました。あたしだって、例えるならコールセンターに苦情を言うだけの人生だったと思います。やりたくないことをやって、満足できない理由を他人になすりつけて自分をなぐさめて。それで、いざ今回みたいな圧倒的でどうしようもない死を目前にして、ハッとしてしたんです。自分には、もうやり残したことすら残っていないんだと。両親もすでに他界しました。親友もみんな結婚して、フラフラしてるあたしとは疎遠になって。彼氏も深い付き合いになる前に離れていくから、最後に一緒にご飯を食べたい人も、もういないんですよ。何もかもが手遅れ。その子と話して、痛感しました。ああ、生き方を間違えてたんだなって。けど、時間は不可逆じゃないですか。今回みたいに、強制終了が起こらないわけじゃないし、もっと小さな視点で言えば、病気や事故や戦争でたくさんの強制終了が、この瞬間だって起こっていますよね。あたしはそれを自分から迎えに行ってただけなんだって、気づいたんです」
気がつくと、わたしが涙を流していました。
お姉さんの言葉の意味はわからないけれど、それでも、私はこのスピーチを一生忘れないのだろうと、そう思いました。
「正しい終わりを迎えられないあたしは、生き方を間違えている。生き方を間違えてしまったあたしみたいな人間が助かって、例えば電話口の女の子が死んでしまうような世界って、嫌じゃないですか。おかしいじゃないですか。なのにその女の子は自分が救世主になるわ、って聞かないんです。だから、救世主になったら死んでしまうんだよって教えてあげました。その子、びっくりしていましたけど、多分あの子は……かなえちゃんは、自分のために、誰かを助けて生きられる人間だから。きっと自分が死ぬということをしっかり考えた上で、また救世主に名乗りを上げるんじゃないかって思いました。だから、あたしは言ったんです。この世界に死ぬべき人間なんていないけど、生きるのにふさわしくない人はいる、って。それがあたしなんだ、って」
「違うわ! お姉さんは……お姉さんは生きるのにふさわしくない人なんかじゃ……」
わたしは昨日の自分の言葉を思い返します。
『わたしたちは幸せを感じるために生きているの。なのに、幸せを受け取っちゃいけない人がいるのだとしたら、その人は生きている意味なんて、ないのかもしれないわ。それにきっと、そんな人生は楽しくないもの』
ああ。なんて、浅はかだったのでしょう。
お姉さんは、きっと何か辛く苦しい経験を経て『自分は幸せを受け取っちゃいけない存在なんだ』と罰してしまったのでしょう。
それを何も知らないわたしが、たった5年しか生きていないわたしが、なんと偉そうなことを言ってしまったのでしょう。
わたしは初めて自分を嫌いになりました。
かしこいだけの、バカものだったのです。
けれど、お姉さんは思ってもいない言葉で、わたしを許してくれました。
「あたしは、その子の言葉に救われたんです」
……え?
顔をあげると、お姉さんの真っ赤な目がこちらを優しく見つめています。
とてもきれいな黒い目。
わたしなんかよりもっとたくさんの経験を積んで、見たくないものをたくさん見てきた目。
その目はまっすぐ、わたしの心を、一直線に射抜いています。
目が、離せません。
「あたしは、幸せになりたかったんだって、ようやく気づけたんです。他人に不幸な理由をなすりつけて、妥協して、諦めて終わっていく一日を、変えたいって思えたんです。多分、かなえちゃんがこの話を聴いてくれていたら、自分のせいであたしが……とか思っているんじゃないかな。ふふ、あっははは!」
「お、お姉…………さん」
「かなえ。君のおかげだ。君のおかげであたしは、多分正しく終わりを迎えられる。君の言葉は、人を変えられる、そんな純粋さを秘めている。あたしは、その純粋さに触れたよ。生きて、幸せを感じることは、ときに難しい。難しいから、人は時々幸せから逃げてしまう。けどそれじゃ、生きている意味が無いって、かなえは言ってくれたね。そのおかげで、あたしは死んだように生きたままで死なずに済む。生きて、生きたいと思って、死ねる」
「いや……いやよ。死なないで、死なないでよ…………お願い……」
テレビの画面にほほをこすりつけると、せいでんきで髪の毛やうぶげがさかだちました。
もう、多分届かない。
だけどわたしは繰り返しました。死なないで、死なないで。
「かなえ。あたしは今幸せなんだよ」
お姉さんは、本当に嬉しそうにわらって、そういいました。
「なんていうのかな、救われた気分なんだ。自分が生きていたいのか、死にたいのかも分からない狭間で、つまらない仕事に追われて時間を食いつぶす人生だった。その無駄な時間をやっと意味のあることに使える。かなえのような女の子を未来へ送るための橋になれる。あたしは、それが嬉しい。だからね、かなえ。笑って送り出してくれると、お姉さんはもっと嬉しい。嬉しくて、宇宙船の中できっと笑ってしまう。そうしたらあたしは、笑って死ねるんだよ?」
だから、あたしのためにも、笑ってくれ。
お姉さんは多分、わたしだけじゃない、全ての人にむかってそう言いました。
涙がぽろぽろこぼれる目をゆっくりお姉さんに向けると、お姉さんは何やら紙に黒いマジックで文字を書いていました。
書き終わってカメラへ紙を広げます。そこにはなにやら大きな文字が書かれていました。
角がしっかり尖っていて、ハネるところはこれでもかとハネている文字。お世辞にも綺麗とはいえないけれど、その文字は生きていました。
お姉さんは紙をこちらに向けたまま、にへらっと笑い、
「陽華、っていうのがあたしの名前。電話で聞かれたときに答えられなくて、ごめんね。かなえちゃんの漢字にくらべたら難しい文字だけど、あたしは自分のこの名前が大好きなの。だから、かなえちゃんくらいの歳のころ、他の漢字は書けないくせにこの2つだけはすぐに書けるようになった。意味も、何度も辞書を引いてたくさん調べた。あたしなんかが言うことじゃないけど、かなえちゃんも、自分の名前を大事にして欲しい。とても、君にぴったりな意味を持っていると思うから」
わたしは振り返ってお父さんを見ます。
お父さんは、わたしに漢字の意味を教えてくれました。
陽は暖かい日の光、華は美しく咲く花を表しているそうです。
わたしは、本当にお姉さんにぴったりだと思いました。
電話の時だって、たくさんの笑顔をくれました。
会見場だって、すぐに笑顔でいっぱいにしてしまいます。
ああ、そうだわ。
わたしはひとつ、確信を持ちました。
きっとお姉さんが笑うから、お姉さんの笑顔という陽がもれて、関わった人には華が咲くのです。
「それじゃあ、かなえちゃん。あたしは君と話せたこと、忘れない。っていっても、あたしはあと2日で死んじゃうから、記憶力の悪いあたしでも覚えてられるね。あっはははは!」
「……うふ、うっふふふふふ! あっははははは! お姉さん、ありがとう! ありがとう!」
最後までお姉さんの笑顔を映して、そこで中継は終わりました。
もうそのあとは、映像をさいせいしながらスタジオのひとたちがなにやら意見を出し合っていました。
わたしはもうテレビなんてどうでも良くなってしまって、お母さんに駆け寄って抱きつきました。
生きていられるという嬉しさ。
それともちろん、きっともうお姉さんに会えないという悲しさもありました。
けれど何より、お姉さんが最後に笑顔になれたことが、わたしにとっては泣いてしまうほどに嬉しかったのです。
その日は久しぶりに家族でいろいろなところに出かけました。
本当はお姉さんの元へ行きたかったけれど、もうすでに日本にいないと知って諦めました。本当に残念です。最後に、あいたかった。
お父さんの提案で、近所の小高い丘になっている公園へ行き、さんにんでお弁当を広げました。
お姉さんが守ってくれた世界を、もっとたくさん見たい。
お姉さんが幸せをあきらめてしまったほどの悲しみや、痛みも、わたしは目をそらさずに見ていこうと、この日に誓ったのです。
二日後、全世界に生中継されながらお姉さんは飛び立っていきました。
特殊なくんれんを受けていないお姉さんがロケットに乗って地球から出るのは、とてもとても大変なことだといいます。
とてもとても大変で、とてもとても怖いはずなのに、お姉さんはロケットに乗り込む最後のときまで笑っていました。
ロケットが打ち上がるまで、研究員のひとたちも、集まったひとたちも、テレビをみつめるわたしたちも。
本当に、誰も彼もが笑っていました。泣きながら、笑っていました。
おとといの中継は、がいこくの言葉に直されて放送されたから、全世界の人がお姉さんの言ったことを理解していると、お父さんに聞きました。
その説明を聞いても、いまいち意味はわからなかったけれど、発射のちょくぜん、わたしはしっかりと理解しました。
お姉さんの気持ちをわかっているので、見送りに行ったひとたちが皆笑っていたのです。涙を流しながら、手を振りながら。
大勢の笑い声とエンジンの音がテレビから響いてきます。
わたしは、テレビに向かって、お姉さんがわたしたちにしてくれたのとおなじように笑いながらさけびました。
「お姉さん、ありがとう! ありがとう!」
ロケットは地球の笑い声を背にしながら、幸せにつつまれるように地球をとびたっていきます。
地球に住むすべての人は、お姉さんの笑い声を、きっと忘れないと思うのです。
最後にお姉さんの発した笑い声が、いつまでも、いつまでも、鼓膜の奥に残っていました。




