1話忘却の旅人
初めまして胡椒姜といいます。初投稿ですので文章力不足や読みにくい部分もアルかもしれませんが、よろしくお願いします。
辺りは血の匂いで充満していた。死体がいたる所で転がり、それに野犬や魔物が喰らいついていた。
ぐちゃぐちゃになった死骸は食い荒らされ飛び散り、さらに血の匂いを濃厚にしていた。
「なにがあったっていうんだよ畜生」
あまりの光景と匂いにマグニは馬を一度下りて嘔吐する。あちらこちらで死体は転がっていた。
これが自分たちを襲いに来るはずだったガルム旅団の姿だったとしたら、一体なにが起きたと言うのだろうか。
マグニは何かないかとむかつく胸をさすりながら辺りを探索する。
そんな時だった。死体が二つ、もつれ合うようにして転がっているのを見つける。今までそんな死体はなかった。皆力任せに両断されたか、圧倒的な力で頭部や胸部を刺し貫かれたような死体ばかりだった。
用心しながらマグニはそれに近づく。近づくと、片方の男が剣でもう片方の男を刺し殺した後、そのまま力尽きただろうことが見て取れた。
「この服、北の人間か?」
男は厚い狼の毛皮のマントに、つばのない皮の帽子を身に纏っていた。それは北方の民族が好んで着るものだった。さらに平民では高くてなかなか手の出ないチェーンメイルも身に着けている。
そして、そこでようやくマグニはよく見ると男の胸が上下しまだ息をしていることに気付いた。
「お、おいあんた生きてるのか!?」
声をかけるが、返答はない。既に男は意識を失っている様子だった。マグニは連れて帰るか見捨てるか一瞬迷う。マグニが見る限り男は傷だらけだった。辺りには血の臭いを嗅ぎつけた魔物や狼、野犬が姿を現している。見捨てたら男は確実に死ぬだろう。そう思ったマグニは自分より長身のその男を馬に乗せる。男の剣も万が一のためにマグニが預かる。この地獄で唯一人の生き残り。何があったのか語ってくれるだろう、唯一の証人なのだ。
「プーニル、急いでくれ」
マグニは馬プーニルを走らせる。男の怪我がどの程度かわからなかったが、全身に裂傷がある。骨などが折れているかもよくわからない。
とりあえず急いで医者の下に運び治療をせねばならないとマグニは思ったのだった。
男が目を覚ますと、天井が映った。何時の間に眠ったのだろう。そう思って身を起こそうとした刹那、体に痛みが走り驚く。
そして、同時に手足が拘束されていて、思うように身動きが取れないということに気づいたのだ。
「誰かいないのかっ、俺は何で縛られてるんだっ」
男は混乱し、大声で叫ぶ。すると一人の女性が入ってくる。茶色く長い髪が特徴的な綺麗な女性だった。
緑を基調としたデザインの服も、白いカーチフも、茶色く長い髪に良く似合っていた。
「目を覚ましたみたいね」
どこか安心感を抱かせる髪と同じ色の瞳は大きく、鼻は少し高く掘りが深かった。女性は安心させるためなのか、軽く微笑みかけてくれている。
「名前は?」
女性に問われ、男は答えを窮した。自分の名前というものを考える。
--だが、思い出せないのだ。
「え、あ」
まるで、思い出すことができない。男は、名前を告げようとする。
だが、告げるべき名前が、思い浮かばない。男は懸命に思い出そうとする。
混乱しているにしても、寝ぼけていたとしても、自分の名前を思い出せないというのは酷すぎた。男は大きく深呼吸をして心を落ち着かせようとする。
「俺の名前は、名前は……」
男はようやく落ち着いた。先程は心臓も激しく鼓動していたが、すっかり元通りに戻っていた。
もう、落ち着いているはずだった。だというのに、男は未だに名前を思い出すことができずにいる。
ならば何かを、何かを思い出そうと男は必死で頭をめぐらせる。
両親や兄弟といった家族のこと。自分の生まれ育った家や村のこと。それすらも思い出せず、それならせめて最近食べた食事でも良いと必死で記憶というものを漁ってみる。
「わからない。信じて欲しい。本当に、わからないんだ。俺は、誰なんだ。俺は、俺は……」
なのに、何ひとつでてくることはなかった。男は絶望する。両親の名も顔も、生まれ育った地も、それどころか己の名前や顔すらも出てこないのだ。自分の名前を聞いてきた女に、自身が誰かを問う。滑稽でしかなかったが、もしかしたら何かを知っているかもしれない。一縷の望みをかけた。
だが、男の答えを聞いて、女性は悲しそうに顔を伏せていた。
「そう……」
僅かな沈黙の後、女性が顔をあげる。
「私の名前はスクルディア。この村、エギルの医者のたまごよ」
スクルディア、と口で一度呟く。よく似合った名前だと男は思った。「よろしくね」とスクルディアは笑顔を浮かべる。
男は一瞬戸惑うが、なんとかよろしく。と笑顔を返せた。
「すまない、鏡はないだろうか。あるのなら、俺の顔を映してくれないだろうか」
己の名はわからずとも、鏡で映してもらえれば顔くらいはわかる。覚えてないなら、見ればわかるものがあることに若干安堵する。
スクルディアはわかったと銅鏡を出してきて、男の顔を映してくれる。
赤い髪に同色の濃い眉毛が特徴の男の顔が映った。頬には深い傷痕があり、目立っていた。それが自分の顔かと確認するために、口を開いたり閉じたりすると、鏡の中の人間は当たり前のことだがまったく同じ動きをした。
鏡を見て、自分の顔を見ることで何かを思い出せるかと期待していた。だが、男は鏡を見てなお自分の顔だと認知できなかったことに軽くショックを受ける。
「どう、かしら」
スクルディアの問いに男は黙って首を振る。
「あら、そんなに自分の顔が嫌なのかしら。そんなに悪い顔じゃないと思うわよ」
なんとか、少しでも男を元気付けたかったのだろう。冗談めかしてそう言ってくれる。
「顔の造詣に不満はないですよ。ちょっと眉毛が濃い気がしますけど」
男もなんとか笑う。スクルディアは意思が強そうでいいじゃない。と笑い返してくれる。ひとしきり笑った後、スクルディアが話題を変えてくれる。
「喉は、渇いていないかしら」
言われてみれば喉が渇いていた。唾液は口の中で粘りをもっていて不快だったが、あまりにもショックなことが続いていて、そんなことを忘れていた。
「あぁ、言われてみれば」
スクルディアが用意していた水差しから、男に近寄ってきて水を飲ませてくれる。あまりにも近いその距離に、男は若干落ち着かなくなる。気恥ずかしかったのだ。スクルディアの甘い、女性特有の匂いが男の鼻をくすぐる。
「動かないでね。こぼれるから」
水がゆっくりと喉を通っていく。乾いた喉が潤っていくのがわかった。男に負担がかからないようにゆっくり、ゆっくりとスクルディアは水を飲ませてくれる。
「ありがとう。もう、大丈夫です」
コップに三杯も飲み、ようやく喉の渇きは癒えた。男がスクルディアに何から聞けば良いかと考えていると、静かにドアが開いた。
「スクルディア、目を覚ましたのか」
中年の男が入ってくる。歳の差からして、スクルディアの父親か何かだろうと男は当たりをつける。禿頭で、立派な髭が目立つ、小太りの男だった。
「ええ。でも、名前すらわからないと言ってるわ」
「そうか、まぁあれだけ傷を負っていたのだし、考えられないことではないね」
そう言いながらゆっくりと父親らしき男は歩み寄ってくる。
「こんにちは。私はこの娘、スクルディアの父親のエイルだ。この村で医者をしている。君は名前がわからないと言っているようだが、何と呼べばいいかな。なにか、希望やもしかしたらというものがあればいいんだが」
エイルも、なるべくこちらを不安にさせたりしないように笑顔で訊ねてくる。男は何か、何かないかと考える。すると、スクルディアが助け舟を出してくれた。
「この人のものだという剣に、ルーン文字以外に我が息子、シグルトって彫ってあったわ。もしかしたら、シグルトというのが名前なのかもしれない」
その剣が見たくて身をよじろうとした瞬間、体に痛みが走る。それでも首だけでも向けようとするが、まったく見えない。
エイルがその剣を見えるように掲げてくれる。
「私の友人が、剣自体はちゃんと手入れしてくれたから綺麗だろう」
一メートルを少し超えるくらいの両手剣だった。柄の拵えも良く、綺麗な剣だ。刀身にはルーン文字の他に、確かに「我が息子シグルト」と彫られていた。
男はシグルト。と小さく声に出す。それが自分の名前かどうかはわからなかったが、しっくりくる気がした。
「そうですね。シグルト、と呼んでください。シグルトというのが僕の名前かどうかわかりませんが、他に思いつきませんし、しっくりくる気がします」
男はシグルトと名乗ることにした。父が自分に残してくれたんだと信じて。
「そうか、じゃあシグルト。君は、何も覚えていないのかな?」
「少なくとも、僕自身に関することは、何ひとつ覚えていません」
名前も、顔も、家族のことも。何ひとつ、シグルトの記憶には残っていなかった。いくら思い出そうとしても、がらんどうのようになにもないのだ。
「ふむ、そうか。それじゃあシグルト、今の季節はわかるかな」
季節。窓から外を見ると、いかにも涼しげ、というより寒そうだった。草木は枯れていて、どう見ても春や夏とは思えなかった。
「秋の終わりか、冬じゃないでしょうか」
エイルはこちらをじっと見ていた。
「外を見ないとわからなかったかい?」
エイルに問われて、シグルトは頷く。昨日がどんな一日だったのか、目覚める前までどんなことをしていたのか、さっぱりわからないのだ。
「ここがどこかわかるかい?」
シグルトは辺りを動ける範囲で見渡す。自分が寝かされ拘束されているベッド。スクルディアが座る椅子。そして机。どれだけ見ようと、見覚えのまったくない部屋だった。
「――わかりません」
「そうだろうね。じゃあ、今君の居る大陸はわかるかな」
自分が居る大陸、といわれてもピンとこなかった。しかし、大陸の名前自体は何個も思い浮かぶ。
「大陸、トラスカナにラングーン。ここは、トラスカナ?」
「どうして、そう思ったんだい」
具体的な回答をしたシグルトに、もしかしたらと思ったのだろう。エイルは期待をもって訊ねてくる。
「今、大陸の名前はトラスカナやラングーンの名前が出てきました。そして、その大陸の国の名前などを思い起こして、よりわかるほうが自分が居た場所じゃないかと思ったんです」
エイルはなるほど。と頷く。
「じゃあ、ここは何所の国だと君は考える?」
トラスカナにある国はダニューブとプロシア、そしてロレッタの三国だった。その何所か。まず、ロレッタは候補から外れる。ほとんど良くわからないからだ。ダニューブとプロシアのことは多少わかった。シグルトはどちらだろうかと悩む。
「ロレッタではないことはわかります。ですが、ダニューブかプロシアかがわかりません」
エイルがわかった。と頷く。
「シグルト、君の言うことは大体合っている。ここはトラスカナのプロシア王国。ダニューブとの国境に程近い村、エギルだ。どうだろうか、何か一緒に思い出したりはしなかっただろうか」
思い出す、というよりそのあたりのことは知っていたようだ。だが、そこから何かを思い出そうとしても、やはり何も思い出せなかった。
「そう落ち込むことはないよ。どうやらシグルトは一般常識を覚えているようだ。まぁ、そうじゃなかったら言葉すら忘れてしまっているということになるからね」
「あの、少しお聞きしたいんですが良いでしょうか」
シグルトに言われ、エイルは質問をしてばかりだというのに気づいたようだった。
「僕は、何か罪を犯したんでしょうか」
両手足を拘束されて寝かされていた。つまり、暴れだす危険性があったということなのだろう。
「すまないね。こちらばかり質問をしてしまっていた。君の方が聞きたいことはたくさんあっただろうに。それで君が何かをしたのか、という質問だけど、わからないんだ。だから、拘束させてもらっている。それについてはすまないことだと思ってる」
シグルトが何をしたのかわからない。されど、拘束されているという。
「君はね、ガルム旅団という盗賊と傭兵の間のような者たちの死体の山の中で、ただ一人の生存者として拾われたんだ」
シグルトは拘束されている理由がそれでわかった。自分はガルム旅団の一員である可能性が非常に高い。そうである以上、暴れないようにするのは当然だと言えた。むしろ、牢屋ではなく、温かいベッドの上だということに感謝をしなければならないだろう。
「でも、シグルトがガルム旅団の人間だと決まったわけじゃないわ。あなたは参考人として、ここに連れてこられたの。拘束してるのは、万が一の時のためだから安心して」
スクルディアがそう言ってくれる。参考人というのが、どういう意味なのか尋ねようとしたとき、声が聞こえてきた。
「スクルディア。エイルさん。いらっしゃいますか」
若い男の声だった。スクルディアがその声の主を迎えに行くためだろう、部屋を出て行く。
「参考人というのは、どういう意味なんですか」
「ガルム旅団は、この村を襲う予定だった。なのに、この村の目前にした平原で突如屍の山を築いて消えた。シグルト、君はその中唯一の生存者なんだ」
何が起きたのか、誰も知らないんだ。そう、エイルは困ったように言う。
「エイルさん。男が目を覚ましたと聞きましたが」
若い男が入ってくる。先ほどの声の主のようだった。
「あぁ。つい今しがた、目を覚ましたよ。ブール」
男はブールと言うらしかった。体は細いが芯がしっかりとしていて、貧弱には見えない。顔も鼻立ちがすっきりとしていて、美形だった。しかし、シグルトを見つめる目は険しく、敵意が篭っていた。
「テュールさんに直ぐに連絡しました。直ぐに来ると思います。暴れたりは?」
「いいや、いたって穏やかだよ。それよりブール。伝えないといけないことがある」
エイルがシグルトが記憶喪失だということを説明すると、ブールは胡散臭げにシグルトを見てくる。
死体の山の中発見された男が記憶喪失。怪しいと思われてもしかたがないが、居心地は悪かった。
「とりあえず、少し話を聞かせてもらいます。テュールさんが来るまでにはもう少し時間もありますし」
また質問攻めにされるのか、とシグルトはため息が出そうになるのを堪える。
「かまわないが、シグルトは何もわからないと思うよ」
エイルはとりあえず、シグルトの記憶に異常があると思うと言う。
「へぇ、名前は覚えていたんだ」
ブールに皮肉げに、そう言われた。
名前だけでも覚えていた。それなら、どれだけ良かっただろうか。なにか、なにか1つでもいいから、自分のことを覚えていたとしたら、どれだけ良いだろう。
だが、シグルトは何も覚えていない。名前すら、剣に彫られた仮初のものなのだ。
気がつけば、シグルトは拘束されながら、それでもブールを睨みつけていた。
「ブール、やめなさい。シグルトの名前は剣に彫られてる名前を使っているだけ。彼は、なにも覚えていなかったわ」
スクルディアがブールを止めてくれる。ブールはそうだったのか、と素直に引き下がる。
「すみません、どうにもピリピリしてしまっていたようです。はじめましてシグルト。僕はブール。この村の自警団の人間だ」
質問をするとブールは言ったが、恐らく人が来るまでの見張りなのだろう。シグルトも挨拶を簡単に返す。
「今、隊長を呼んできてもらっている。僕はそれまでの代理だ。本当なら、君の出身とかを尋ねるのだけど、なにかわかることがあれば教えて欲しい」
なにかわかることと言われても、シグルトは何もわからないに等しい。むしろ、こちらが質問したいくらいだと思っていた。
「シグルトとさっき話をしていて、トラスカナの人間だろうということはわかった。でも、国は良くわからない。ロレッタではないだろうことはわかったよ」
エイルが代わりに答えてくれる。ブールはエイルに丁寧に礼を言い、他にわかることはと訊ねる。
「いいや。さっきも言ったが、本当に彼は目を覚ましたばかりでね。医者として言うのなら、もう少し静にして置いてあげたい」
懇願するようにエイルはそう口にするが、ブールは今のところは無理だときっぱりと告げる。その後も少しやりとりがあったが、建設的とは言い難いものだった。
いい加減、ブールとのやり取りもなんら進展なくなった頃、ドアとノックする音と声が響く。
「エイルさん、テュールです」
太い男の声だった。エイルが腰をあげ、出迎えに行く。
程なくして入ってきた男は、背丈は低いが体つきはがっしりとしていた。外套を羽織っているが、その下にはみっちりと鍛えられた体が詰まっているだろうことは容易に想像がつく。
男はブールから取り調べの結果を軽く聞いた後、ブールに指示を出す。
「ブール、ご苦労だった。とりあえず、ここからは私が話を聞くから、お前はもう戻って良い」
「わかりました」
ブールは短く返事をして退室していく。最後に一瞥こちらにくれたが、やはり友好的とは言い難い視線だった。
自身が悪事を働いた記憶もないのにそうした視線にさらされることに、どこか苛立ちと悲しみと、不安を覚える。
「はじめましてシグルト。私の名前はテュール。この村の自警団の隊長を務めさせてもらっている」
テュールという男は見た目三十を過ぎた辺りに見えた。狼のような顔に灰色の髪。目はぎょろりと大きかった。スクルディアの瞳が大きいのを可愛いと思ったが、テュールのは到底そう思えなかった。目が大きいといっても、男と女でこうも違うものかとシグルトは思った。肉厚な体とその強い眼力はすさまじいプレッシャーだった。
「さて、話を聞きたいんだが、先ほどブールがしたことの繰り返しになってしまってすまない。君は、本当に何も覚えていないのだろうか」
「はい、申し訳ございませんがなにも……」
「テュール、私は彼が嘘を言っているとは思えない。私もこんな症例を見たことはないが、強いショックや、頭部に衝撃を受けて、そうなってしまうこともあるというのを聞いたことはある」
エイルがブールに説明したのと同じく、テュールに伝えてくれる。シグルトは完全かどうかはわからないが、自分を信用してくれているということで心に少し温かいものを感じた。
「すみません……」
テュールたちはなにがあったのか、知りたいのだろう。だが、シグルトは本当に何も覚えていない。何を聞かれても答えられないのだ。失望は大きいはずだった。
「本当に、何もわからないのだろうか。私は、私たちはあそこ何が起きたのか知りたいんだ。仲間割れが起きたのか、それとも誰かが討ち滅ぼしてくれたのか。それとも、私たちの想像だにしないことが起きたのか」
わかるものなら、いくらだって教える。だが、本当に何もわからないのだ。
「テュール、彼は本当に目を覚ましたばっかりなんだ。聞けば、自分の名も、鏡を見て自分の顔だということも、わからなかったという。なのに、目が覚めてから私たちは質問せめにしている。私たちは、彼に考える時間を上げるべきだと思う」
エイルがそうやって、逸るテュールをやんわりとたしなめてくれる。
「すまない。気ばかりが急いてしまったようだ」
テュールはそう言って、シグルトに質問があれば答えようと言ってくれる。
シグルトの話が始まる前に、今までほとんど黙っていたスクルディアがシグルトに水を出してくれる。
「喋り通しだったから、少し喉が渇いたんじゃないかしら」
確かにそうだった。シグルトはまた水を飲ませてもらう。
人前と言うこともあり、先ほどよりさらに気恥ずかしくなるが、スクルディアはほら、とそんなのお構いなしに飲ませてくる。
喉を通る水は冷たく、心地よかった。少し質問攻めにされて煮詰まっていた頭まで冷えたように感じられる。
「君がガルムの人間じゃないとわかったなら、拘束を取り払うつもりだったんだがどうしたものか」
テュールがほんとうに困ったと眉尻を下げぽつりと洩らす。
「暫くは私が面倒を見ます。でも、拘束はもう少しゆるくしてあげてください。流石に両手足を縛り付けられ続けるのは不憫ですし」
せめて、足の拘束を解いてほしいとスクルディアが訴えてくれる。
「そうだね。私からもお願いしよう。彼の拘束を少し緩めてあげてほしい」
テュールがさらに困ったようで、顔をしかめる。
「しかし、この家に男手はエイルさんしかいない。もしも、何かあったら……」
「最低限、両腕を拘束してくれれば問題ない。それに、彼は記憶がない。ここを出ても行く当てもない。大丈夫だ」
エイルに言われ、テュールは少し考えさせて欲しいと答える。
危険を排除しないといけないと考えるテュールと、医者としてけが人である自分を尊重したいと言ってくれるエイル親子。どちらも正しいが、普通であればテュールの意見が通されるはずだ。
「僕は僕自身、何者なのかわかりません。僕の荷物から、何かわかることとかはなかったのでしょうか」
とりあえず、シグルトは話題を変えた。質問があればということだったから、シグルトは自身が持っていた荷物について尋ねる。
持っていたという剣だけは見せてもらったが、他にあったのか。あったならなにがあったのかを。
「君を拾ったのも自警団の人間だった。その男の話では、君は剣を持っているだけだった。その他君が身に着けていたものは預かっている。鎖帷子や、皮の帽子などだったよ。少し北方のもののようだったことがわかるくらいだった。鎖帷子も、少々値は張るが逆に言えばその程度でしかない」
「北方、ですか」
ガルム旅団がどこから来ているのかわからないが、北の民族なのだろうか。
「ちょっと待ってください。さっき、シグルトは父さんから今の季節を聞かれて秋の終わりから、冬の初めだと言ったわね」
スクルディアの問いにシグルトは頷く。
「どうして、そう思ったのかしら」
どうして、というのがシグルトにはよくわからなかった。だから、思ったとおりのことを口にする。
「雪はまだ積もっていませんでした。しかし、草木はもう枯れている。だから、秋の終わりのノーヴェンバないし、冬の初めのディゼンバくらいだと思ったんです」
雪が深く降り積もるのはディゼンバの中を過ぎて、ヤヌアーの初めの頃だ。まだ、雪はそれほど降り積もった様子はない。だから、ノーヴェンバの終わりか、ディゼンバの初めだと思ったのだ。
「もしも、シグルトがもっと北の方の人間だったとしたら少し認識にずれがあると思うわ。北の方は秋の終わりであるノーヴェンバくらいから本格的な雪が積もりだすはずよ。だから、シグルトは北から来たのかも知れないけど、シグルトの中の常識として、雪が本格的に降るのはディゼンバ。つまり、そう北の方の出身じゃないんじゃないかしら」
「ふむ、そうかもしれないね。シグルトが別のところでその常識を手に入れたのかも知れないが、そんなことを言っても始まらないだろうし」
エイルは可能性としては十分あると頷く。
その後も三人と話をするが、シグルトの身元を特定できそうな情報を探ることはできなかった。
テュールは去り際に一つ、シグルトに告げる。
「ガルム旅団は、ほぼ確実に人間に殺されたということがわかっている。死体は原型を留めていたものだけだが、それらは剣で斬られるなど、明らかに人間が殺傷した痕跡があった」
「どれくらいの人間が、死んでいたんでしょうか」
「確認できたものだけでも、二百人以上。食われたのやらなんやらいれたら、恐らく三百人程度はあそこで死んだものと思われる」
三百もの死体が積み重なったそのなかで、発見することができた唯一の生存者がシグルトだったという。
「何か思い出したらすぐに教えて欲しい」
そう言ってテュールは帰っていく。丁寧にスクルディアとエイルに挨拶をして、シグルトにも体を大事にと言って部屋を後にしていった。
テュールが帰ると、エイルも薬草の調合をしないといけないと部屋を出て行き、スクルディアだけが残った。
「おなか、減っていないかしら」
突然そう訊かれて、シグルトは空腹だと思った。言われなければわからないほど、考え事をしていたようだった。
「少し、減っているかも」
シグルトがそう答えると、ちょっと待っているようにとスクルディアは言って、部屋を出て行く。戻ってきたのは、それから十分程度だった。
暖かな椀に、薬草がたくさん入ったスープだった。スープの温かく美味しそうな匂いで腹が鳴り、さらに空腹が増す。
「すまないね、スクルディアさん。冬で備蓄が大変だろうに」
「そんなこと、気にしなくても大丈夫よ」
スクルディアがそう言って軽く笑い、スープを掬って飲ませてくれる。
最初口内が酷く冷えており、やけどがしそうなほど熱く感じたがそれにもすぐに慣れる。
スクルディアは丁寧に、面倒くさがりもせずスープを飲ませてくれる。
その献身的な行為に、シグルトは酷く申し訳なくなった。自分は下手をすればこの町を略奪しようとした盗賊なのだ。
拘束され、牢屋にぶち込まれるのが正しいのかもしれない。なのに、怪我人としてベッドと暖かな食事まで提供されていた。
「別に気にしなくていいのよ。あなたは、英雄かもしれないのだから。あとね、スクルディアさんはやめて。私もあなたのことをシグルトと呼んでいるのだから。歳もそう変わらないでしょう?」
申し訳ないと思っていた内心を見透かしたようにスクルディアは笑う。
そして、なるべくこちらが気後れしないように呼び捨てるようにと言って笑う。スクルディアの笑顔は優しく、温かな笑顔だった。
「わかった。ありがとう、スクルディア」
よろしい。と頷いて再びスープを飲ませてくれる。
「何も覚えてないって、辛いでしょう」
スープを飲み終えたとき、スクルディアがぽつりと言った。
「どうなんだろう……。覚えてないから、不安にはなる。だけど、辛いのかどうかはわからない」
正直な気持ちだった。まだ辛くはない。だけど、酷く不安なのだ。
自分というものが、さっぱりわからない。回りのことも、まったくわからない。何を頼りに生きればいいのかもわからないのだ。
「わかったようなことを言っちゃったわね」
目を伏せるスクルディアに、シグルトは気にしないで。と笑いかける。スクルディアが気にすることではないのだ。彼女は気を使ってくれたのだろうから。ブールやテュールの話に比べれば、遥に気が楽だと笑う。
「それはそうよ。でも、テュールさんも、ブールも悪い人じゃないわ」
「わかってるさ。自警団なら、こんな怪しい人間を野放しにできないのは当然だろう」
盗賊団の死体の中にいた、記憶喪失の男。どう考えても怪しい。
「そうね。怪しさなら全開ね」
そう言ってスクルディアがくすくすと笑う。シグルトもそうだろう。と言って笑う。そうして笑うことで、先の不安を少しでも和らげようとシグルトは努力するのだった。