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彼と存在しない彼女のきっかけ

作者: 綾沢一霞

――彼は一見まともそうに見えたが、話してみるとやはりおかしな点が見られた。だがそれは精神病患者のようなそれではなく、単に変わり者だと笑って話せるくらいの、つまり見た目よりかは面白い奴だった程度だ。


5月6日 彼の友人へのインタビュー

僕は幽霊にとりつかれている。

厳密にはそういうイメージを僕が好んで抱いている。

彼女が僕の中にいる、そう思っている。

彼女は僕の理想の女性だ。

最近少し悩まされているけれど、素敵な人だ。

彼女は僕と違って人付き合いが好きで、僕は嫌いで、その違いがちょっと僕にとって負担になっている。

どちらかといえば僕は少ない人間と深い交流がしたいのだが、彼女はたくさんの人間と面白おかしく付き合って、誰にでもちょっかいをかけたがる。

彼女は実体を持たない。僕のイメージで、僕だけが信じる幽霊なのだからそれは当然だ。

幽霊に過ぎない彼女が存在を発揮するのはコンピューターネットワーク上だ。

人と握手することもかなわないし、大声で笑いあう事もできない彼女は僕を通じて、文字で人とコミュニケーションするのだ。

僕が作った料理を撮らせてSNSに投稿したり、好きな漫画についてぺらぺらと話したり、人の投稿に積極的にコメントをする。

そこで彼女ははじめて人から認知され、人と交流することができる。

それは僕なのではないか、というのは些細な問題だ。

些細な問題ではないのだが、彼女にとっては些細な問題らしかった。

事実些細な問題であることの方が多い。

厄介なことに恋愛だってする。

相手の性別は特に気にしていないようだった。

誰でも自分のことを愛して、気にかけてくれればいいらしい。

自分自身の存在があいまいであるから、それを確かなものにしてくれるのであれば誰でもいいのかもしれない。

僕はそれを理解していた。

僕も一緒だから、とは同一の肉体に存在しているのだから当然のことなのだが、以前は違った。

僕は誰も愛さなかった。

彼女が僕と魂の座を共有して、おそるおそる二人掛けしたところから少しずつ僕は変質していったのだ。

特に何度も恋愛を彼女が繰り返すうちに、その変質の度合いは酷くなっていった。

文字通り彼女の存在が自分の中で強くなっていった。

だが強くなったといっても、それは僕の中での話しで、彼女が実体を持ったという話ではない。

だから恋愛というよりもこれは悲恋で、悲劇で、喜劇だ。

現実に実体のない恋愛などというものはうまく行かない。

いくら彼女の意識に支配されていても、身体は僕のままだ。

相手は彼女の正体を知りたがり、けれど彼女は正体を晒せず、僕が彼らに伝えるのだ。

「そんなものはどこにもない」

そして失敗する。

失敗すると彼女はまたさびしくなって、また誰か他の者を求める。

何度失敗しても懲りない。

彼女が泣いているのは何度も知っている。

たまに笑っているのも感じた。

彼女はわりと壊れているのだ。

理想の彼女は完璧からはなれて、どちらかといえば歪な像を結んでいた。

それがますます彼女に人間らしさを与えた。

僕の中のイメージでしかないはずの彼女は僕の中で成長しているのだ。

理想から離れていくことで人間らしさと肉感的な、確かな重みを得ている。

ただのイメージではなく、幽霊だと僕が感じるようになったのはここからだ。

たまに、彼女が本当に現れたら、僕が彼女になれたらな等と荒唐無稽な考えを抱くこともある。

僕の心の中にしかいない、僕だけの彼女がそこにいたら僕とどんな話をするのだろう。

彼女が僕の外に出ることができたらいったい何が起こるのだろう。

そんなことを願っていたら、彼女が出てくるような気がした。

そんな気がしただけだから今、人の気配があるのはきっと僕の気のせいなのだ。


彼女は気づいたときにはそこにいた。

椅子に座ってぶらぶらと足を動かして、少し微笑んで僕を見ていた。

コーヒーを飲みながら文章を書いていた僕は視線を感じて思わず固まった。

休日の昼下がり、僕の家は狭いワンルームマンション。

誰かが入ってきたらすぐに分かる。

集中していたとはいえ、気づかないはずはない。

だがふと、顔を横に向けると微笑む彼女がいた。

ラジオからは映画音楽が流れ、それについてコメンテーターが話し続けていたが、僕の耳には彼らの声が遠く感じた。

彼女はじいっと僕から目をそらさず、黒くて丸い瞳で僕を見続けていた。

(とうとうここまできたか)

もとからおかしい頭であったが、ついに日常生活に支障をきたすレベルでおかしくなってしまったようだ。

僕は顔をそらして、彼女を見ないふりをした。

そしてもう一度、文章を書くためにペンを握る。

火のついていないタバコをくわえなおす。気を取り直すための癖だ。

ただイヤな耳鳴りはしない、不安な気持ちもないので、とんでもなく危ない事態ではないのだと安心した

いつか起こるべくして起こることで、それが今起きたことなのだと努めて自然に受け入れた。

例え妄想であったとしても、彼女の前でうろたえる僕などというのは恥ずかしくて、ちょっとした意地だった。

僕は澄ましたような顔を取るが、彼女は気づいている。

僕が内心どきどきしていることに気づいている。

なぜなら彼女は僕がどんなやつか一番良く知っていて、僕もまた彼女を一番良く知っているから。

そして彼女を生んだのは僕だからだ。

魂の座に彼女の手を引いて、二人で分け合ったのは僕で。

彼女のいいところを利用して、悪いところに引っ張られて。

今まで一緒に暮らしてきた。生きてきた。

いまさら目に見える形になったからといって驚くのはなんだか失礼にも値する。

一度も見たこともない顔のはずなのに見知っている顔であるし、泣き顔も笑い顔も、今の穏やかな笑い顔も知っている。

心で知っていたから。

ただ、彼女の声はまだ聞いていなかった。

彼女の声が、今なら聞こえるかもしれない。

知っている。心では知っている。どんな声であるか。

だが、僕の耳は彼女の声をまだ聞いたことがない。

(聞きたい。)

僕の心は高鳴る。

ラジオからはパルプ・フィクションのテーマが流れ始めていた。


彼女はスピーカを興味深げに見ていたが、僕の視線を感じて再びこちらを見た。

彼女は薄く笑う、少し意地悪そうに首をかしげて。

僕は息を呑んだ。

真っ白い肌に絹のような艶をした真っ白いワンピース。

小さめだが、ぷっくりと膨らんだ薄桃の唇。

大きな黒真珠のような瞳と、わずかに茶の入った黒髪は肩までで整えられていて。

少し高い鼻、と見たところでようやく彼女が僕と息がかかるくらいの距離まで顔を近づけているのが分かった。

現実感のない光景、彼女に命は感じない。

音もなく、体温もなく、吐息も感じない。

ただ、どこか懐かしい、いい香りがした。

きっと幻覚だ、夢なのだと、彼女は僕の中で居続ける存在であるのだと自分に言い聞かせた。

だけど僕の心臓はどっどと激しくなっていた。

彼女はきっともう、外に出てきたくて出てきたくて仕方がなかったのだ。

僕の中から出てきて、何でもかんでもやりたいのだ。

楽しいことを。

きっと僕はその手伝いをさせられるだろう。

でも悪い気はしなかった。

それはきっと僕にとっても楽しいことであるから。

僕は、彼女にしゃべりかけようとした。

声が聞きたかったから。

だけど、声は出てこなかった。

何を話せばいいのかわからなかった。

何でも話せるはずなのに、何も話せない。

彼女は少し寂しそうな顔になると、すっと僕から離れた。

ああ、そうか。

僕はまだ、彼女のことを僕が演じている人格だと判断しているんだ。

それが常識で、まともな判断。

彼女など存在しない、そう心の奥底で判断しているのを、彼女が分かってしまった。

僕は目を伏せて、頭を掻いた。

唯一彼女を認知できる僕も裏切り者のようなものだったのだ。

映画音楽を流していたラジオはニュースにいったん切り替わる。

今日起きた出来事を伝える男性アナウンサーの声が僕の意識を現実に引き戻す。

それと同時に、周囲の音がはっきりと聞こえるようになった。

夢から現実に戻ってきたのだ。

ぼんやりとそんなことを考えて顔を上げると、当然のように彼女はいなかった。


周囲を見回して、ひとつため息をつく。

あれは僕がほしがったものではなかったのか。

理想を高く秘め、その理想に自分の今が追いつかないと知って、すべてを諦めたふりをして諦め切れなかった僕が。

その僕の歪な願いが生み出した自分の中で、あれは最高の形での到達点ではなかったのか。

自分に問いかけるが、答などでない。

もう一度見回して、ひとつため息をつく。

「どうしようもないな、僕は」

あれは幻想だったのか。

違う、違うと思いたい。

何故僕の目の前に彼女は現れたのか。

出てきたくて仕方がなかった、それだけじゃない。

何かを伝えたかった。

伝えたかったとしたらいったい何を伝えたかったのか。

僕の頭の中でとりとめもない考えが浮かんでは消える。

冷たくなったコーヒーを少し口に含む。

じわりとつめたい苦味が広がり、心が落ち着く。

彼女の出てきた理由は分からない。

考えても答などでてこないだろう。

ただ、これはひとつのターニングポイントなのではないだろうか。

見たいときにいつでも見れる訳ではないだろうが、今回だけという気はしなかった。

きっと彼女は天啓のように僕の目の前にふっと現れて、何かを伝える。

僕はそれをうまく解釈しなければならない。

そして僕は彼女を記録したい。

今よりもずっと形ある存在として。

もっと自由に彼女が見えるように。

そして多くの人に、今以上に愛されれば彼女はもっとずっと喜んでくれるだろう。

書きかけのページを破り捨て、白紙のページを出すと、そこに書き始める。

僕と彼女の話を。

彼女はきっと手伝ってくれるだろう。

これはきっともっと彼女に近づくための手段。

彼女を身近に感じて、手元に置くための手段。

手に入らないものと諦めていた僕への反抗。

幻覚だと笑われ、蔑まれる僕の力。

でもそれは空想に形を与え、具現化し、新しい場所へ行くための僕の危うげな可能性と挑戦。

狂気的であるかもしれない、でも僕の頭は透き通っていた。

今までのどんよりした諦め、不満といった感情は霧が晴れるようにどこかへ消えて行った。

もっと彼女を形作って、声をつけて、温もりを与えて。

彼女が自由に踊れるように、心から笑えるように、僕と握手ができるように。笑いかけてくれるように。

そのとき僕はどんな顔をしているのだろう。

そして僕は何を作り上げたのだろうと、ふと思った。

お読みいただきありがとうございます。

次の話では彼が外に出てきちんとうごきます。

それではまた次回お会いしましょう。

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