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九話


 よく晴れた空を窓から仰ぎ、美樹は満足げに笑む。今日から待ちに待った新学期だった。

 美樹は早くから起床し、学校へ行く準備を済ませていた。まだ一時間以上は余裕があるが、そろそろ出ようかと最後に荷物を検める。

 貴子が朝食の用意しているのか、部屋の外からはいい匂いが漂っている。パチパチと油の跳ねる音。ジュッとなにかをフライパンに入れた音。ウインナーや玉子焼きの匂い。美樹はそれらを作る貴子の後ろ姿を想像した。

 ――あの日以来、彼女とはほとんど会話らしい会話をしていない。美樹から話しかけないのは当然ながら、彼女も以前に増して美樹に対するアプローチが少なくなった。

 もっともなことだと思う。我が子を悪く言われて許せる親はそうそういない。――いくら化け物であろうと――自分の娘と他人である美樹を比べてどちらを選ぶかなんて、歴然としている。

 しかしそれでも父の手前か、貴子は今も尚美樹に話しかけてくることがある。だが、美樹はそのほとんどを無視したり、よそよそしい態度をとった。父はとても苦い顔をしていたが、取り繕うこともしなかった。やはり、彼女は美樹の母親になることはない。

 ……私にとって、お母さんはたった一人の――。

 ドン、とドアが叩かれた。大きく心臓が跳ねる。

 ――来た。

 ドン、ドン、と重く鈍い音が部屋に響く。今日はどのくらい続くのだろうかと苦しくなる。

 このところ、こうやって毎日化け物がドアを叩いて……否、多分、体をぶつけている。数分で終わることもあれば、数十分に渡って延々続けたりするものだから、本当におかしくなりそうになる。

 鍵はしっかり閉まっている。しかし、それでも恐怖は拭えない。

 鳴りやまない音。耐えられず耳を塞ぐ。振動するドアを見ていると、いつか鍵が壊れてしまうんじゃないか、蝶番が外れてしまうんじゃないかと嫌な想像をしてしまう。

 早くいなくなれ、とひたすら願う。その内ドン、ドン、という音から、ゴン、ゴン、という固いものをぶつける音に変わる。なんとなくわかった。これは多分……頭だ。

 骨がぶつかる痛々しい音。絶対に辛いはずなのに、全くやめようとしない。

 ――狂ってる。

 ゴン、ゴン、ゴン。

 あの気持ちの悪い顔が引っついた頭を、何度も、何度も。

 ……もう、嫌だ。

 泣きそうになりながら、部屋の隅で小さくなっていると、突如として音が止まった。化け物がようやく諦めたのかもしれない。いつも終わる時は唐突だった。

 耳を澄ます。もちろん、音がしないからといって飛び出すような馬鹿な真似はしない。注意深く聞き耳を立て、安全を確認するまでドアの外をうかがうのだ。しばらくそのままでいると、ようやく望む音がした。

 父か貴子の足音だ。引きずっていない、しっかりとした足取り。部屋の前を通るときを見計らって、美樹も急いで部屋を出る。父が寝ぼけた顔でおはよう、と言うのに返事をして、玄関に向かった。




 机に向かい本を開きながら、美樹は過ぎた半日を振り返り、ようやく訪れた安らぎを噛みしめる。異常のない世界がこの上なく愛おしい。これからは日々の大半をこうして安心して過ごせる。今日は授業が無く、すぐに終わってしまったが、美樹は家に帰らず教室で時間を潰している。

 こうなったら勉強でもなんでもいい。危険から逃げられるなら、なにも苦ではない。新しく美樹のクラスを担当する教師の自己紹介でさえ、耳に心地よく聞こえた。

 ここは家よりも、はるかに安全だ。――だが、不安は少なからず残っている。

 あの化け物は、美樹の通う学校に転校という形で在籍することになった。

 同じ家に住んでいるのだから、当然同じ地区の小学校に通うことになる。最初にそのことに気づいた時は、絶望的な気持ちに陥った。

 だが、ここには人がたくさんいる。それも、美樹が知っている人ばかりだ。どこにだって逃げられるし、きっと誰かが助け出してくれる。大丈夫、きっと大丈夫だ。

 今のところは、化け物の話は聞かない。あの姿を見れば騒ぎになると思ったのだが、そんな噂は一向に耳に入ってこなかった。

 もしかすると、大きなマスクで不気味な顔を覆ったのかもしれない。それとも父を懐柔した手腕を使ったのか……美樹にはさっぱりわからない。

 ……どっちにしろ、アレに関わりたくない。

 開け放った教室の窓から春の柔らかな風に吹かれ、カーテンが揺れている。美樹は気持ちがよくて、そっと目を閉じた。




 夕闇に染まった空を見て、止むを得ず帰宅した。いつまでも学校にいると、見回りの先生に怒られてしまうし、父も怒るだろう。

「ただいま……」

 小さな声で言うと、靴を脱いで家に上がる。

 家の中は静かだった。いつもはこの時間になると、貴子が調理をしている音や匂いで溢れているけれど、今日はそれもない。

 ……外で食べるのかな。

 もしそうだとしても、ついて行く訳がない。美樹には関係ない話だ。……いや、みんないなくなるなら冷蔵庫のものを食べることができるかもしれない。

 美樹は空腹をごまかすために、お菓子棚からこっそり持ってきたいくつかのお菓子で夜をしのいでいた。一日に最低一度は冷蔵庫に用意されている簡易食を食べているが、やはり段々と辛くなってきている。明日からは学校で給食も始まるのでぐっと楽になるとは思うが、なぜ自分ばかりこんな思いをしなければならないのかと、とても惨めになる。

 とにかく、化け物に会う前に素早く部屋に戻り、父が帰ってくるまではずっと部屋にいなければならない。美樹は足音を忍ばせ、周囲に気を配りつつ家の奥へ進む。

 生活音を感じない、静かな家。不気味だが、逆に誰かが近づいたときにはすぐに気づけるだろう。耳を澄ませ、歩を進める。

 居間の横を通り、廊下の角を曲がると、美樹の部屋の前に着く。そうしたら、いつものように部屋にさっと滑り込み鍵をかけてしまえばいい。――だが、美樹はそれができずに固まった。

「ああ……っ」

 ドアを開くどころか、側に寄ることも叶わずに立ち尽くす。部屋の前には、化け物がいた。

 ドアに寄りかかって座り込んでいる化け物。手足を人形のごとく放り出し、まるで死んでいるようにぐったりと力の抜けた格好で背中をもたれている。あの顔はうつむいていて髪に隠れているからよくわからないが、条件反射で全身が小刻みに震え始める。

 ――今なら逃げ出せる。

 化け物はすぐには動けない体勢でいる。立ち上がるには、一動作置かなければ無理だろう。ならばすぐに逃げればいい。――だが。

 ……私はどこに逃げるの?

 もう夜になってしまう。美樹の部屋以外で鍵がついているのはトイレか父の書斎くらいだ。狭いトイレでどのくらいの時間潜めばいいのか。懐柔されている父の書斎に閉じ籠もることは危険ではないのか。

 ほんの数秒、美樹は迷った。後ずさることもせず、化け物を見つめて棒立ちになる。

 たった数秒、しかし――その数秒の間に、化け物の頭が微かに揺らぎ、持ち上がる。

 美樹は潰れたような声で、掠れた悲鳴を上げる。化け物の顔――それは前に見た時とは大きく異なっていた。

 化け物の顔に暗闇がある。そこは以前と変わらない。だがそこから伸びる極彩色のナメクジは姿を消していた。代わりにあるのは――顔、だった。

「あああ……ああ……」

 声にもならない音が喉の奥から絞り出される。美樹は化け物を見ている。化け物も美樹を見ている――。

 顔の暗闇の中から、一回り小さな頭のようなものが伸びている。いびつな形で、髪の毛もない。その頭の方の顔には、中心に大きな瞳が光っている。

 ――怖い。

 その顔は、生理的な恐怖を煽るような見た目をしていた。しわしわの皮膚に覆われた顔。その大半を占める大きな瞳は、たった一つしかない。驚くほど黒目が大きくて、見開かれている眼球がきらきら輝いている。

 鼻はない。口もない。――いや、口はあるが唇がない。皮膚を切り裂いたような口だ。そこから口内が広がっていて、歯のない空洞の中に、血管がたくさん浮いている大きな舌が見える。

「ひ……っ」

 とっさに目を背けた。これ以上見ていると、頭がおかしくなりそうだった。美樹は急いで踵を返す。

 ……アレから離れなきゃ。はやく、はやく。

 覚束ない足つきに焦燥を覚える。壁を支えにして歩き、ひいひいと情けない声を上げる。

 ――その時、美樹の震える悲鳴に混じって、微かになにか聞こた。

 おーおー、と可愛らしくか細い、子供の声。 美樹はその場違いな声に思わず立ち止まる。反射的に声のする方を――化け物の方を、見た。

 ――鳴いている。

 その外見に似つかわしくない、愛らしい声。

 化け物が口を大きく開いて可憐な声を上げている。舌だけではない、口中に張り巡らされた血管が、ドクドクと脈を打っているのがわかる。

 しわくちゃの皮膚、大きな瞳、いびつな形の頭、幼子のような声。――それは、まるで。

 ……あかちゃん。

「うぇ……っ、ぐ」

 吐き気を催した口元を押さえると、美樹は慌ててトイレに走った。





 父が帰るまで、美樹は家の外で待っていた。空の星がいくつか数えられるようになってから、ようやく父は貴子を連れて姿を現した。

 外でしゃがみ込んでいる美樹に彼らは驚き、動揺し、困り果てていた。書き置きを見なかったのかい、と怒ったような焦ったような口調で問われた。美樹はただ黙って立ち上がり、家に入ろうと促した。

 彼らが帰宅するまで、美樹の部屋の窓から化け物がずっと彼女を見ていた。いくら目を閉じていても、あの突き刺すような視線からは逃れられない。

 美樹は空の星をにらむように眺め、父の愛車のエンジン音をひたすら待っていたのだ。念願の低音が耳に入ったとき、恐る恐る窓に目を遣ったが、化け物はもういなくなっていた。



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