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八話



「貴子さん、今、ひま?」

 ぶっきらぼうに美樹が訊くと、貴子は少し驚いた顔をしたが、躊躇いがちに「どうしたの」と問い返される。

「一緒に出かけない?」

 約束をしたから、破るわけにはいかない。約束を守らない人間は大嫌いだと、父が以前言っていた。美樹は父に嫌われたくはない。ただ、それだけだ。

 貴子はぽかんと口を開けたまま美樹を見ていたが、膝の上に載せていた雑誌を急いで閉じる。

「ちょっと待っててね。支度済ませちゃうわ。……すぐ終わるからね!」

 ばたばたと動き出した彼女の側にも、家の中にも化け物はいない。美樹は何度も確認した。

 化け物は時折ふらりとどこかに消えてしまう。絶対に顔を合わせたくないから間接的にしか知らないが、どうやら外に出ているらしい。貴子も化け物がいないことを特に気にしてないようで、平然と家事や自分の時間、在宅の小さな仕事などに没頭している。

 化け物が家にいないと、とても心が安まる。だがしかし、近所には白くて丸くてふわふわの犬がいる。太陽が出ているときはずっと外につながれているので、食べられてしまわないかと美樹は時々とても心配になる。

 様子を見に行きたいが、もしも外に出て化け物と鉢合わせてしまったらと思うと動けない。美樹の日々の行動は、ある意味化け物に支配されていた。

「ごめんね、待たせちゃった?」

 軽く息を弾ませている貴子にどうしても意地悪が言えなくて、「大丈夫」と素気なく返す。愛想のない美樹に対し、貴子は「それなら良かった」と笑う。化け物さえいなければ、この人は普通なのかもしれないのにとほんの少しだけ残念に思ってしまい、慌てて否定する。

 きっと貴子はこうやって穏やかな顔だけ見せていれば、美樹が油断すると思っているんだろう。そうして虎視眈々と美樹が与え易い餌になるのを待っているに違いない。

「じゃあ、行こっか」

 今日は雨が降るかもしれないから、と貴子は折りたたみ傘を二つ持つ。父だったら気のつかない行動に、美樹はまた一つ、気恥ずかしいような、苦々しいような感情を抱え、モヤモヤする胸中にこっそり溜め息をついた。



「ここに入るから」

「わかったわ」

 小さな公園の前で言葉を交わす。そこには、ぱっとしない遊具が寂しげに佇んでいる。大きさの違う鉄棒が二つと、申し訳程度の砂場、錆びついている水道の蛇口。昔からこの公園は人気がなく、誰もここで遊ぼうとしない。子供が集まらないと大人も少なく、日が西に傾くとたまに中高生がたむろしているのを見かけるくらいだ。

 取り立てて理由もないままここに来たが、結局なにをするでもなく端に据えてあるベンチに美樹が座り、少し間を空けて貴子も座った。

「見てるから、遊んできていいよ」

 貴子の勧めに首を振る。美樹の好きな遊具はブランコだ。それ以外のものは、とうに卒業した。というか、もう六年生なのに未だにブランコが好きだということは、父以外には絶対に秘密だった。

「じゃあ、一緒に遊ぶ?」

「嫌」

「そっか……」

 貴子は困ったように眉尻を下げた。美樹は不機嫌な顔を作って下を向く。曇った空に相応しい湿った空気が、じめじめと周囲にまとわりついているような気がする。仲良くしようにも、一体なにを話せばいいのかもわからない。化け物と関わらない程度に貴子と表面上だけ親しくするだなんて、果たしてできるだろうか。

「――お父さんのこと、好き?」

 唐突な質問だった。貴子を見るが、物憂げな顔をしているだけだ。黙る彼女に答えを促されているような気分になって、首肯する。

「そう、良かった。彼にとってもあなたにとっても、一番はやっぱり親子であってほしかったから……」

 だから、と貴子は続ける。

「私よりもお父さんのことを優先してていいのよ。私のことが気に入らなくても、いっそ空気だと思ってもいいから」

 なにを言い出すのかと彼女を見れば、とても気遣わしげな視線が返ってきた。

「まだ甘えたい時なのに、突然間に入ってこられたら辛いよね。私、彼をあなたから奪おうなんてこれっぽっちも考えていないのよ。あの人、近頃大好きな美樹ちゃんが冷たいって日々頭抱えて悩んでるんだから」

「別に、私はそんな風に思ってるわけじゃ……」

「いいのよ、無理しないで。意地張らずに彼の胸に飛び込んじゃえばいいの。今の内に、うんと甘えておかなきゃ」

 にっこりと満面の笑みで言われると、なんとなく言い返しにくい。思わず目を転じながらも、貴子のことを大いに意識する。

 ……貴子さんはやっぱりアレに関して以外は、悪い人じゃない気がする。

 よくよく考えてみれば、こんなにいい人が、化け物に荷担するだろうか? 父と同じく化け物に洗脳されているだけかもしれない。または、なにか離れられない理由がある可能性もある。それならば、もし本当にそうだったら、彼女ともちゃんとした関係を作りたい。

 美樹は、貴子の顔を見直す。彼女は心からの笑顔を浮かべているようにしか見えない。……それとも、この考えこそ、美樹の願望なのだろうか。

「――貴子さんは私が邪魔じゃないんですか?」

 貴子は驚いたように目を丸くする。自分でも意地の悪い質問だと思ったが、美樹は彼女のことをもう少し知りたかった。

「じ、邪魔だなんて……っ。ああ、もしかしてそんな風に思ってたから私たちのことを避け続けてたの? あのね、美樹ちゃんは年の割に大人っぽいところがあるから変に気を遣ってくれたのかもしれないけど、そんな配慮は一切いらないの。だって、あなたとお父さんは家族なのよ? 家族は一緒にいて当然なの。私のことなんか、二番目でも三番目でもなんでもいいわ」

 実際の悩みとはかけ離れた内容だが、その熱烈さに曖昧に頷く。……そうすることで、彼女が喜ぶと思ったからだ。

「わかってくれるのね……ありがとう。きっとあの人も嬉しがるわよ。最近ずっと暗い顔してたから」

 そう言った貴子の薄く化粧をした顔は、上品で綺麗だった。

「貴子さんって、おしゃれだね」

 なんとなく思ったままに口にする。すると彼女は照れたように笑う。

「あら、そんなこと言われると浮かれちゃうわ。……そうだ、美樹ちゃん。少しだけお化粧してみる?」

 貴子はゆっくり美樹の髪をなで下ろす。

「いつかのために、練習してみましょう」

 顔をじっと見つめながら言うものだから、今度は美樹が照れてしまう。熱い頬を隠すためにうつむいたが、彼女は気にせず、写真をいっぱい撮らなきゃ、新しい服を買おうか、デジカメも、と一人饒舌に語っている。

 あまりの熱の入りように困ったように笑いながら、なんだかんだ言っても良い気分になっている自分に気付く。考えるまでもない。美樹にとって、貴子はまるで『理想のお母さん』なのだ。

 優しくて、よく気がついてくれて、会話も弾む。たまにお菓子を焼いていたりもするし、服装やアクセサリーの趣味も良い。授業参観で自慢できそうな、友達に褒めてもらえそうな母親。……父しかいない自分にとって、とてもまぶしい存在だった。きっと、こういう人だからお父さんも選んだんだろうな、と美樹はなんとなく思う。

「二人で写真撮ろうね」

「……うん」

 貴子は花が咲くように笑う。






 ポツポツと降ってきた雨に、美樹たちは傘を広げ帰路を歩く。

「雨、やだな」

「美樹ちゃんは雨が苦手?」

「うん」

 服が濡れて、泥が跳ねるから外で遊べない。湿気った空気が鬱陶しい。そんな理由を並べると、貴子が小さく笑う。

「あー、わかるなあ。小さい頃は遊べないってだけで重大な問題だしねえ。……でも、私はそこまで嫌いじゃないの」

「どうして?」

 傘から覗くと、貴子は柔らかい笑みを浮かべて美樹を見た。

「娘がね、好きなの。なんだか触発されちゃって」

 途端に足が止まる。貴子は二歩ほど先を歩いてからこちらに気づき、振り返った。動こうとしない美樹を見て、不思議そうな顔をしている。

「どうし――」

「――そんなに、好きなの?」

 貴子の言葉を遮った美樹に、彼女は目をしばたいた。

「好きって……雨のこと?」

「あの子のこと。あの――」

 化け物のことを。

「美樹ちゃん?」

 貴子は戸惑っている。美樹は打ちのめされたような気分になって彼女の綺麗な顔を見た。

「どうしたの? ……もしかして、私の子があなたになにかしたの?」

 雨の中、跳ね返る水滴も厭わずに、貴子は屈んで美樹と目を合わせた。

「お願い、ちゃんと教えて。贔屓なんて絶対にしないから。なにかあったのなら、隠してちゃだめよ」

 酷く真剣に彼女は訴える。……本当のことを言える訳がなかった。

「嫌いなだけ」

 傘から滴る雫のように、ぽつりと漏らす。貴子に一体なにを縋るというのか。彼女は化け物の母親だ。そして美樹の胸の中には、本当の母が今も存在しているのだ。

 懐いた情を断ち切るように、ピシャリと言う。

「――私、あの子のことが大嫌い」

 美樹は踵を返し、走り出した。


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