七話
朝にこっそりなにかを食べて、昼は友人の家や図書館に出かけ、夕方に帰ると周囲に注意を払いながらなにかを食べる。もちろん、全て貴子がキッチンにいない時の行為だ。
時々、彼女が早い内に食事の用意を始めていると、美樹は簡単に食べ物を諦めた。元々小食だったし、化け物と一緒に過ごすくらいなら安い犠牲だ。
夜は美樹以外が食事をしている隙に風呂やら身の回りののことやらを済ませる。ごくたまには彼らと共に食卓を囲んだが、しかしうつむいたまま少しだけご飯を口にすると、急いでそこから抜け出した。
父は目に見えて不機嫌だった。だが、遅くなるまでに家に戻ればあまり叱られなかった。それどころかこんな状況が二、三日ほど続くと、冷蔵庫の中に簡単に摘めるおかずと、サンドイッチやおにぎりなどが用意されるようになった。
それはわがままを黙認するようなやり方だったが、美樹は取り立てて疑問を抱かなかった。きっと父は無理やり美樹に『家族』を押しつけたことを気にして、強く出られないのだ。その罪悪感をしっかりと利用し、その上、どことなく父が美樹のことを甘やかしてくれているようで、ひそかに嬉しく思ったりもした。
美樹は父が大好きだし、彼女にとって父だけが家族なのはいつまでも変わらない。化け物に対しての感情を――恐怖を分かち合えない今は、少しだけ距離があるかもしれない。それでも、確かに愛情は持ち合っていると思う。
美樹はカレンダーを眺めて溜め息を漏らす。まだ休みが一週間もある。今は暑さや寒さが柔らかいから外出はそこまで辛くはないが、それでもこう毎日だと気疲れする。
過ごしやすさとは程遠い今の生活。トイレに行くにも用心を怠れない。鍵のかかる自室だけが、今の美樹の唯一の安息の場所だ。
カレンダーの数字とにらめっこをしていると、軽いノックの音が三度鳴った。
「美樹、まだ起きているかい?」
控え目に声をかけてきたのは父だった。
「おーい、美樹。……もう寝てるのかな。開けるよ?」
「だ、だめっ」
美樹は急いでドアに向かった。鍵をかけていることを知れば父は絶対に怒り出す。ばれない内に、外してしまおうと思ったのだ。
「ちょっと待って。まだ開けちゃだめだからね」
「ああ、起きてたのか。良かった。……なあ、美樹。お願いがあるんだけど」
にわかに足が止まる。嫌な予感を覚え、まずは続きを促す。
「なに、お願いって」
「せっかく可愛い妹ができたんだ。一緒に寝てやってくれないか?」
父の驚くべき案に、美樹は即座に返事をした。
「絶対やだ!」
鍵に伸ばしていた手を引っ込める。ドアの向こうから長い溜め息が聞こえた。
「頼むよ、この子は美樹が良いって言うんだ。お前はもう、二つ上のお姉さんなんだぞ。わがままばかり言わないでくれ」
「私、その子のお姉さんじゃない!」
思わず叩きつけるように言った美樹に、父は言葉を失ったようだった。ドアの向こうから息を呑む気配を感じる。
少し居心地が悪かったが、それでも美樹は引かない。ひたとドアを見据える。
「お父さん、もうあっちに行ってよ。私は寝たいの」
「どうしてそんなに冷たいことを言うんだ……」
「お父さんの方が冷たいじゃない。私はその子も貴子さんもいらない、新しい家族なんていらないよ。ねえ、お母さんのこと、もう忘れちゃったの……?」
母のことを持ち出すのは卑怯かと思ったが、それでも言わずにはいられなかった。そして半分当てつけで言ったのにもかかわらず、懐かしい母の穏やかな笑顔がありありと浮かび、切なくなって目にうっすらと涙がにじむ。
「私、お母さん以外のお母さんなんか欲しくない」
もう何年も前になるのに、もう大丈夫だと思ったのに、今まさに起こった出来事かのように胸が鋭く痛む。
「美樹……」
ほとほと困り果てた声が聞こえる。――その反応に、父にはもうとっくに母の存在は過去になってしまっているんだと気がついた。
美樹は母が不憫でならなかった。思い出すのは母の痩せた顔。頬骨や顎が尖っていて、目が落ち窪んで唇がカサカサに乾燥していた。それでも美樹に向ける眼差しは優しかったし、触れた肌は温かかった。無理をして抱きしめてくれた時、背中に回った母の手が小刻みに震えていたことを、未だに忘れられない。
「母さんのことは今でも大切だよ」
父の言葉が美樹の耳を上滑りしていく。
「本当に愛していたし、あの時はすごく残念だった。もう立ち直れないんじゃないかとさえ思った。……でも、僕たちは生きてるんだよ。前を向かなきゃならない。きっと母さんも、それを望んでるさ」
父への好意と苛立ちがぐちゃぐちゃと胸にわだかまる。嘘つき、と罵ってしまいたい。
「なあ、美樹。どうにか、少しだけでも向き合ってくれないか?」
聞く気もない意見にただ黙る。これ以上話していても、父との関係が悪化するだけだ。
「美樹……頼むよ」
父の情けない声に唇を噛む。……卑怯だと思った。美樹にばかり我慢をさせて、あんな気味の悪いものを家族に迎えて、母を――本当の母への気持ちを捨てた父を、心底ずるく思う。
それでも、美樹にはたった一人の父親だった。
「貴子さんとなら」
ドアに向かって渋々と告げる。
「仲良くしても……いいよ」
見た目が普通の人間だから――と、胸の中でそっとつぶやく。
「本当かい?」
弾んだ父の声に、小さく是認する。美樹は思い切り仏頂面をしていたが、父は気づいているのかいないのか、嬉しそうにする様子だけが手に取るようにわかる。
「良かったね、お姉ちゃんが少しだけわかってくれたよ」
陽気な父の声。どうやら隣にいるらしい化け物に向かって言葉をかけているようだ。だが当然化け物は静かなままで、一方的な話が続く。
「きっと、いつかみんなで家族になれる日がくるさ」
口のない化け物と話そうとしても、無駄だ。父の言葉の後にはただ静寂が満ちるのみ。しかし父は気にしていないようだった。美樹はたまらず、一言「もう寝る」とつぶやいてその場を離れた。
「お母さんも、お父さんも、美樹も……そしてもちろん君も。一緒に頑張っていこうな」
虚しい独り言をこれ以上聞きたくなくて、素早く布団にくるまった。