六話
アレは、一体なんだろう。
細い手足に小柄な体。手入れのしてあるさらさらの髪。それは、そこらでよく見かける女の子だった。少しだけか弱そうな、ごく普通の女の子。
――顔だけが、異様なのだ。
目がないのにどうやって歩いているんだろう?
鼻もなく、口もない。言葉を発するとも思えない。唯一耳は顔の横についている。それはちゃんと機能しているのだろうか?
……わからない。
美樹にはアレがなんなのかなんて、見当もつかない。
――明日から、この家に化け物が住む。
「まだ怒ってるのかい?」
不安から黙りこくる美樹に、呆れ半分、申し訳なさ半分といった表情で父が訊く。
「平気さ、その内慣れるよ。それに、彼女たちはとても良い人だから」
最後まで反対した美樹を、言葉を尽くしてなだめすかした父。色々な事情もあるから、早く家族になるためにも少しでも長く一緒にいよう、と父は言った。
美樹は当然嫌だった。頑としてその案を受け入れなかった。要求を突っぱね、頭から否定し続けた。しかし、貴子達に会おうともしない美樹に父の堪忍袋の緒が切れ、ついに彼女らの引っ越しの日取りを勝手に決めてしまった。
このひと月で父の困った顔を何度も見た。貴子に電話で、環境が変わるせいで子供っぽくなり、それに加えて反抗期まできてしまった、と相談していた。美樹はそんな父の言葉を隠れて聞きながら、やり切れない気持ちになった。
あの人達以外なら誰でも良い、とまで言った美樹。父にどうしてかと理由を尋ねられるといつも押し黙った。理由など言えない。化け物を見ても笑っていられる父に、なにを言っても無駄だと思った。
絶対に同じ気持ちになどなれないし、理解したくもない。近づかれるだけで全身が総毛立つほどに気持ち悪いのに、化け物が妹になるだなんて考えると、辺り構わずめちゃくちゃに暴れて泣いてしまいたくなった。
「そんな顔しないで。新しい家族ができても、美樹のことは変わらずに大好きだよ」
父の大きく温かい手のひらが美樹の頭をなで、そしてゆっくり離れる。
「きっと大丈夫だし、美樹になにかあったらお父さんが守るよ。……だから、安心して寝なさい」
優しい言葉を最後に残し、父は去った。美樹は一人になった後、暗い部屋を眺めながら、まんじりともせず夜を過ごした。
――そして翌日。
もちろん素直に家で大人しくしているはずがなく、朝早くに父の制止を振り切って家を出てから、今の今まで友人と共にいた。しかし、いい加減に帰らないと友人の迷惑になると、後ろ髪を引かれる思いで別れを告げたのだった。
沈む太陽を見つめながら、美樹は長い溜め息をついた。黄昏時をこんなに憂鬱に感じるのは初めてだった。家路に就く足がとても重い。
……帰りたくないなあ。
父に叱られることは明白だ。それになにより、家にはもう『新しい家族』が居ることだろう。美樹は彼女らと顔を合わせたくない。
化け物を恐怖しているのは美樹だけだ。強い疎外感だが、どんなに無理をしてもあんなものを受け入れられない。化け物の前でぼうっとしていたら、いつ襲われるかもわからない。多分、これからは父も頼れないだろう。
……だって、お父さんはもう。
足先にコツンと石が軽くぶつかってはねた。
……アレの仲間なんだから。
不意に浮かんだその考えを、恐ろしくなって慌てて否定する。父まで信じられなくなってしまったら、彼女にはもうどこにも逃げ場はない。
きっとお父さんは洗脳されているんだ。
美樹は思う。自分だけでも父を正常に戻す努力を怠ってはならない、と。
もうすぐ家に着いてしまう頃だった。それでなくとも緩慢な足の動きは、家の外観が完全に見える時にはすっかり止まってしまった。
いくつか明かりのついた家を見上げる。やはりどうしても嫌だった。しかし家出などしても、高が知れている。美樹は必死に考える。どうにか、アレと会わないで済む方法。一切は無理でも、せめて最小限に抑える方法……。
いつの間にか辺りが暗くなっていても、美樹はうつむいて考え続けるだけだった。
父の厳しい叱咤から逃げるように、気分が優れないから、と部屋に駆け込む。晩ご飯は、と聞かれたがそれも断った。化け物と一緒に食卓を囲みたくない。
結局美樹が考えた結果は、とにかく徹底的に化け物を避ける、というお粗末なものだった。しかし必死に考えても、それしか思い浮かばなかったのだから仕方がない。長い休みが終わり、学校が始まるまで逃げ続ける。そうすれば、わざわざ理由を作らずとも一日の大半は外に出ていられるようになる。もう少しの辛抱のはずだ。
美樹は空き腹を抱えてベッドに横になる。化け物の顔を思い出すだけでも気持ち悪くなるくらいに食欲が落ちるので、一晩くらいは平気だ。
みんなが食事をとっている間に風呂に入り、就寝の準備を済ませた。明日は早くに起きて、こっそりなにかを食べて、すぐに出かけてしまうつもりだ。
美樹は明日に備えて眠ろうとしっかりと目を閉じる。名残惜しいはずの長期休暇を、一日も早く過ぎ去ってくれと願いながら。
――しかしそこで、唐突にドアノブが捻られる。
美樹はベッドの中で跳ね上がり、瞬きも忘れてドアを見る。レバータイプのドアノブは、硬質な音を立ててもう一度動いた。しかしドアは開かない。
美樹は無意識に口を手で覆う。静寂が戻った部屋――……しかし一瞬の後、ガチャガチャとうるさい音を上げながらドアノブが何度も、何度も荒々しく動き出す。ノックもなにもない。ただひたすら乱暴にノブが回されているだけ。もちろん父はこんなことをしない。貴子は――わからないが、美樹を呼び出したいならばこんな風に恐怖を植え付けるようなことはせずに、優しい口調で語りかけるだろう。
――そうだ。今部屋の前にいるのは、喋らない……否、喋ることのできない、口を持っていない、あの化け物だ。
美樹はベッドの中で縮こまりながら、布団の隙間からドアを凝視する。
……大丈夫、鍵はかけてある。
日頃から使ってはいけないと父にきつく言われていたドアの鍵。美樹は部屋に戻ったときに少しだけ迷ったが、やはり鍵をかけた。化け物がこの部屋に入ってこないように。
うるさい音を立て続けるドアを、息を凝らして見守る。乱暴に回されていたノブは、それでもようやくゆっくりと勢いを失っていき、ついに止まる。
まるで生きた心地もしなかったが、音がやんで数分、やっと微かに身じろぎをする。鍵をかけていて良かった、と心底思った。あの化け物は、物理的に遮られると干渉できないようだ。
これからはなにを言われても部屋にいるときは鍵をかけよう、と決める。そこで美樹はハッとして、慌ててベッドを飛び出し窓に駆け寄った。
案の定、かけられていなかった鍵をしっかりと閉め、気づいて良かったと胸をなで下ろす。
美樹は窓の外の闇を見る。うっすら庭の様子が浮かぶ。風に揺れる草。いつか出したままのバケツやスコップ。おぼろげに空を照らす月。
少し背中が寒くなる。なんだか暗闇の向こうに得体の知れないなにかが――あの化け物が――いるような気がした。
「もう寝なきゃ」
意識して声を出し、踵を返してベッドに向かった。