五話
「あ……ああ……」
掠れた声が漏れる。頭の中が真っ白になり、父の叱る声とは比べものにならないほどの恐怖が美樹を覆う。
底のない真っ暗な顔。這い出ているナメクジのような、ウジ虫のような、気持ちの悪いもの。どれもが毒々しい色をしていて、ぐちゃぐちゃと嫌な音を立てる。まるで美樹を求めているかのように、こちらに伸びるそれらに息が詰まる。
「二人は初めて会うのよね? 美樹ちゃん、この子が私の娘よ」
貴子は変にはしゃいでいて、美樹の動揺には何一つ気づいていない。傍までやってきて、にこにこと笑む。
「将来は美樹ちゃんの妹になるのよ。仲良くしてちょうだいね」
……こんなに不気味なのに、こんなに気持ちが悪いのに、どうしてそんなことを言うんだろう。
美樹は笑っている貴子までもが異星人のように見えてきてしまう。
「名前はね……」
これ以上聞きたくなくて首を振る。貴子からすっと笑みが消える。その表情がとても冷たく思えて、一歩後ずさった。
「……美樹ちゃんたら、まだ、緊張しているのかな。そんなに構えなくても大丈夫よ。……ほら、あなたも挨拶して」
貴子の言葉に反応したのか、化け物が足を引きずって間合いを詰める。伸びたナメクジのようなものが触れそうで、美樹はまた一歩後退する。
恐怖から泣きそうになっているのに、貴子は美樹と化け物の成り行きをじっと見ているだけだ。さながら、猛獣の捕食シーンを檻の向こうで見ている観客のように。
「美樹ちゃん。どうしたの? 仲良くしてくれないの?」
彼女は言う。にやにやと薄笑いを浮かべながら。
眼前の顔から生える気色の悪いものが、ぐちゃぐちゃと暗闇の周りを這い回る。化け物の皮膚にできたねっとりした跡が部屋の照明を反射し、てかてかと光っている。
化け物が近づき、美樹は一歩下がる。一歩、また一歩、そしてとうとう背中が壁についた。この力の入らない足では、化け物から走って逃げることもままならない。
――お父さん、助けて。
どうしようもなくなって、目をぎゅっとつむった。二人に囲まれて窮地に陥っていたが、その時廊下から美樹が望んでいた声が聞こえた。思わず口元が綻ぶ。
「なんだ、続きを観ていないのかい?」
父だ。迫った化け物の動きが止まる。
「どうしたんだ? なにをしている?」
父が怪訝な顔をして、部屋に入ってくる。化け物は父に背を向けているため、この顔は見えないだろう。
「美樹?」
――お父さん、この人たちは化け物だよ。
美樹は必死に伝えようとするが、喉は縮み上がり意味の成さない声しか出ない。父が三人のもとにやってくる。きっと、すぐにでも化け物の異常な姿に気がつくだろう。
父になにか危害を加えやしないだろうかと脅え、同時に、必ず父が助けてくれる、動けない美樹を抱えて逃げてくれる、と期待する。
――なにかあればいつも私を守ってくれた。今度もこの化け物より、横でにやつく彼女より、きっと私を選んでくれる。そう、きっと。
父は微笑みながら美樹を見て――そして、おぞましい顔を持つ少女を、じっと見つめた。
「……ああ、初めて会うのかな? この子が僕の娘の美樹だ。父親の僕が言うのもなんだけど、素直な良い子なんだよ」
父は化け物に向かってにっこりと笑い、そんなことを言った。
「え……?」
「ほら、美樹の方がお姉さんなんだから、先に挨拶しなさい」
にわかには信じられない光景に、呆然として彼らを見る。
「どう……して……?」
掠れた声が喉を震わせる。父は笑っている。貴子も笑っている。
化け物がぐじゅりと音を立てた。傾いた顔、その暗闇からナメクジのようなものが這い回っているおぞましい化け物。それなのに、父は笑ったままなのだ。
「おと……さん……なんで」
ひぐ、と喉が引きつれる。唇がわななき、鼻がつんと痛くなる。
「美樹?」
化け物よりも、大好きな父があの顔を見て平然としていることが、美樹には一番恐ろしかった。父が、まるで見た目だけがそっくりの別人のように思える。
……だって、お父さんは怖いものが苦手なのに。
化け物をものともせず囲む父と貴子。理解できない有り様と壊れた信頼に、成す術もなく涙が零れる。我慢ができない。
唐突に泣き出した美樹を見て、二人の笑顔が消える。化け物だけは、孤立した美樹を蔑むかのようにグラグラと揺れた。
「どうした? まだ具合が悪いのか?」
父の顔が見る見るうちに青ざめていく。
「やっぱり病院に行こう。な?」
父は美樹の肩に手を置き、屈んで視線を合わせ、心底美樹を気遣う。厳つい顔を目一杯困らせて、美樹の止まらない涙を無骨な指で拭ってくれる。
「お父さん……」
目の前の人は、確かに大好きな、たった一人の父親だ。安堵から、そして同時に感じる途方もない失望から、ますます落涙する美樹を慰める父の後ろで、化け物がぐちゃぐちゃと嫌な音を立てる。美樹にはそれが、勝者の笑い声に聞こえた。