四話
散々警戒したおかげか、自室から父のいる所までのごく短い距離で、化け物と会うことはなかった。父は居間でテレビを見ているようだった。廊下まで漏れる陽気な音声は、今の美樹の気分にはあまりにそぐわない。
半分開いたままの戸からそっと中を覗くと、父はソファーに座ってくつろいでいた――貴子と一緒に。
睦まじく談笑しながらコメディー映画を観ているようだった。しかし美樹はもう知っている。貴子は美樹や父を陥れようとしているのだ。楽しそうに笑っている貴子を後ろから見据え、だまされたりするもんか、と強く思う。
父が一人になるまで待とうか迷ったが、映画がいつ終わるかもわからない。美樹は意を決する。居間に入り、背後から「お父さん」と遠慮がちに声をかける。映画や二人の話し声にかき消されそうだったが、父は気づいてくれた。
「美樹、もう大丈夫なのか?」
頷くと「良かった」と破顔する父。ちらりとその隣を見ると、貴子は気まずさを残したようなぎこちない笑顔をこちらに向けていた。父は映画を止め、腰を浮かす。
「ほら、ここに座りなさい。お父さんはこっちにくるから」
そう言ってソファーを空け、床にいくつか置いてあるクッションに移る。美樹は面食らい首を振った。
「大丈夫だよ、私、映画観ないし」
「いやいや、女性同士でそこに座ればいいよ。僕は邪魔しないから」
「なんで急にそんなこと言うの?」
「大輔さん、突然無茶を言わないでよ」
美樹と貴子がそれぞれにとがめると、父は少し驚いた顔で女達を交互に見て、なぜか「いつの間にか仲良くなったんだね」と見当違いの意見をのんびりと言う。
「大輔さんってたまに考え方がずれてるわよね……」
溜め息混じりに言う貴子につい同意したくなるが、美樹はそうじゃない、と切り替える。
「ねえお父さん。私、今から外に遊びに行きたい。お父さんも一緒に行こうよ」
唐突に話を切り出した美樹に、父は途端に渋い顔をした。
「さっきまで寝込んでいたのに、なにを言ってるんだ。もちろん駄目だよ」
予想していた通りの答えが返ってくる。しかし美樹は諦めない。
「もうどこも悪くないよ。元気になったから大丈夫。ねえ、お願いだから」
一刻も早くあの気味の悪いものから離れたい。当然、父も一緒に。できれば貴子に不審に思われないように父を説得しようとする。
「お父さん、行こうよ。絶対無茶はしないから」
「駄目だ」
「お願い!」
「今日はじっとしているんだ」
「もうたくさん寝たから平気だもん」
「……いい加減にしなさい」
低くなった父の声に思わず首を竦める。父は怖い顔をして美樹を見ている。たちまちなにも言えなくなって、思わず下を向いた。すると父はすぐに、なだめるように優しく美樹の頭をなでる。
「また明日、な」
明日じゃ意味がない、とはとても言えなかった。むっつりと黙した美樹だったが、父は虫の居所が悪いだけだと思ったのか、特に気にした素振りもなくテレビに戻る。しっかりとソファーから立ち退き、床の上のクッションに腰を据えている。
しかし映画を再生して間もなく、単調な電話の着信音が部屋に響く。父の携帯だ。すぐに父は反応し、観ていていいよ、と貴子にリモコンを持たせ、足早に部屋から出て行った。
足音が遠のくと、部屋の中はとても気まずい雰囲気になっていた。美樹と貴子は目を合わせることもなく、互いに無言になる。
「美樹ちゃん、一緒に映画観る?」
耐えられなくなったのか、貴子が沈黙を破る。美樹はすぐに首を振る。目の前の人がなにを仕出かすかもわからないのに、狭いソファーで隣合うことは嫌だった。
「そっかあ……うーん……」
貴子は困ったように愛想笑いを浮かべ、映画の停止ボタンを押した。静まり返った部屋にはますます気詰まりな空気が流れる。美樹は父を追いたかったが、通話中に騒いでまた叱られるのは嫌だった。いっそ自分の部屋に戻ろうかと美樹が思案していると、不意に貴子がパッと明るい表情になった。
「あら、終わったの?」
美樹の後方に向かってそう言うので、父が電話を終えたのかと思い、振り返る。――しかし、そうではなかった。
「ちゃんと庭から外には出ないって約束、守ったよね?」
いつの間に忍び寄ったのだろう――二人だけだった部屋の中に、化け物が立っていた。