二話
「きっと日に当たりすぎたのよ」
「そうだろうね。もっと僕が注意していれば……」
「今更後悔したって遅いわ。それならこれから先同じことが起こらないように、ちゃんと気をつけていきましょう」
「ああ……すまない」
父の気落ちした声が聞こえる。
美樹は起きようとしたが、思った以上の倦怠感があり、体がうまく動かなかった。仕方なく、目を閉じたまま耳をそばだてる。
「私こそ、今日はごめんなさい……。なんだか私、美樹ちゃんを怯えさせただけのような気がするの」
「そんなことはないよ。初対面だったから緊張しただけさ。君は美樹にとても優しくしてくれたし、美樹もきっと悪くは思わないよ」
「そうかしら……」
気を遣ってくれている二人の会話を聞くことは、美樹には少し気恥ずかしかった。居たたまれなくてもぞもぞと体を動かすと、父は声のトーンを落とす。
「そろそろ部屋を出よう。美樹が起きてしまうかもしれない」
「そうね。……美樹ちゃん、また来るからね。ゆっくり寝ててね」
耳元で囁き声が聞こえた後、二人の足音は離れていく。しばらくすると、小さくドアを閉める音がした。
美樹は薄く目を開く。部屋の内装や調度品からすぐにここが自室だと気づく。閉じられたドアをぼんやりと眺めていたが、気怠さと眠気に再度目蓋を下ろし、おぼろげな意識を手放そうとする。
しかし完全に寝入ってしまう前に、ふと美樹は不明瞭な音を耳にする。相当聞き取りにくかったが、確かに聞いた。気になってしばらく耳を澄ませていると、今度こそはっきりと聞こえる。……ドアを開ける音だ。
二人が戻ってきたのかな、と美樹はぼうっとしながら思う。思考は微睡みだけを求めていて、うまく回らない。――しかし、何かを引きずるような音を聞いた瞬間、一気に目が冴え、急に胃の辺りが冷たくなっていくのがわかった。
――アレがきたんだ。
どうして一時でも忘れていたんだろう、と美樹は青ざめる。悠長に寝ている場合ではなかったのだ。父と一緒に逃げなくてはならなかった。
しかし悔やむ暇はない。ずっ、ずっ、と床を擦る音。きっとあの公園の時のように、妙な歩き方をしているんだろう。足を引きずって、不安定に腕が揺らいで、頭はまるで重いかのようにひどく傾いていて……そうだ、頭だ。頭には、あの気持ちの悪い顔が引っついている。
女の子の顔一面に広がる底のない闇。そこから這い出るナメクジのようなもの。――化け物。
――ぐちゃ。
思わず悲鳴を上げそうになり、慌てて唇を噛んだ。目をぎゅっと閉じたまま、体にかかった毛布をきつく握り締める。美樹は寝た振りでこの場をやり過ごそうと思った。逃げ出そうにも、彼女の体は恐怖で硬直していて、それ以外の選択肢はなかった。
荒くなりそうな呼吸を必死に抑える。次第に大きくなっていく不気味な音。耳を塞ぎたいが今は動けず、どこかに行って、と願ってもその望みは叶わない。
……一体なにをしようとしてるの? 怖いよ……。
嫌な音が聞こえる。身の毛のよだつ音。激しく律動する心臓に、今にも化け物は気づいてしまいそうだ。
誰か戻ってきて、と美樹は胸の中で叫号する。お父さんでも、貴子さんでもいい。誰か。……こんなことなら、さっき無理やりにでも起きて、二人についていけばよかった。
――ぐちゃ。
美樹は、懸命に恐怖と闘っているせいで、漂う空気が揺れ動いていることに、すぐには気づけなかった。おぞましい音が間近で聞こえる。美樹の頬にかする何か。これは――髪の毛だ。今、化け物は美樹の真上で……彼女の顔を、覗き込んでいるのだ。
訳のわからない言葉を絶叫しそうになり、とっさに息を止める。
――私は寝てる。寝てるんだから叫んじゃだめ……。
体にかかる毛布を握り締める手が震える。嫌な音がすぐ傍で断続的に聞こえ、ひどくうるさくて耳を掻き毟りたい衝動に駆られる。
食べられてしまうかもしれない、と美樹は思った。化け物が近くで彼女を睨みつけ、尖った牙がいくつも生えた大きな口を開いている姿が頭に浮かぶ。あの気持ちの悪いヌメヌメとしたナメクジのようなものにからめ捕られ、鋭い牙で噛み砕かれるかもしれない。
まさに美樹が絶望の縁に立たされた――その時だった。
とんとんとん、と少し離れた辺りで軽い音が聞こえた。階段を降る足音だ。
途端に頬にあった髪の感触が消え、ずっ、ずっ、と足を引きずる音がする。あの不愉快などろどろした音も遠ざかっていく。
何度目かのドアの音。足を引きずる音は次第に小さくなり……消えた。
やっと訪れた静寂。美樹は、詰めていた息をようやく吐き出した。