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十五話


 車のエンジンを切って、溜め息をつく。野村が家に着いた頃には、もう月が見えていた。

 ……あの子は、大丈夫だろうか。

 彼は自身の受け持つクラスに属する、一人の少女を思う。

 高橋美樹。それが少女の名前だ。クラスでは特に浮いていることもなく、勉学にも真面目に取り組む、至って普通の女の子だ。野村にとっての評価はそれ以上でもそれ以下でもなかった。最近は授業中にぼうっとしていたりもしたが、問題はその程度だった。

 しかし、ある時を境に野村は彼女を気にかけ出す。――あの異形を目にしてからだ。

 唐突に現れた化け物に、野村は目を疑った。あまりに疲れていたから、あまりに嫌なことが続いていから見えた幻覚。そう思いたかったが、どんなに否定しても、彼の前からあの不気味な顔が消えることは無かった。

 じわじわと広がる恐怖の中、次に思ったのは生徒の安全だった。……だが、子供達は物珍しげに化け物を見ているだけで、多少は騒いでいたが全く怯えていなかった。大人である野村よりも肝の据わったその姿に、彼は愕然とした。

 そして、現れた時と同じように、化け物は唐突に去って行った。たくさんの衝撃を片付ける暇も無かった。野村は色々な感情でいっぱいになりながらも、とりあえずホッと胸をなでおろす。しかしそれも束の間、最後までこの事象を気にかけていた野村と、平然とした顔で授業の再開を待つ小さな子供たちとの差に、更に自信を喪失したのだった。

 キーケースを鞄にしまい、代わりに携帯電話を取り出す。事前に登録しておいた電話番号は、美樹から教えられたものだ。彼女自身は携帯を持っておらず、それは野村が既に知っていた、彼女の自宅の番号だった。

「アレと家族、か」

 涙ながらに恐怖を訴える美樹を見た野村は、彼女に相当同情していた。年端も行かぬ少女が正体不明の怪奇に悩まされるいわれはない。可哀想で痛ましかったし、野村と同じものを見ていることに仲間意識も感じていた。

 ……今日渡した品々に、少しでも効果があるといいんだが。

 そうは思うものの、野村自身全く信用はしていなかった。そもそもオカルトというものには否定的だったし、それを商売にしている者たちはあまりに胡散臭く、とてもじゃないが信じる気さえ起こらない。――だが、実際に目にした異形と、恐いと怯えて泣くばかりの少女に、野村は自らその方面に手を出すことに決めたのだ。

 しばらく液晶の画面に表示されている文字の羅列をじっと見つめる。彼女は野村がいつ連絡してもいいように、もっともな理由を作って親に伝えておく、と明言した。

 少し悩んだが、表示していた番号にコールする。非常識だとは思ったが、教師としても、一人の大人としても、美樹のことを放っておけなかった。

 数十秒ほど待っただろうか。電話に出たのは美樹ではなく、彼女の父の再婚相手である女性のようだった。

「はい、どちら様でしょうか?」

「――こんばんは、夜分遅くに恐れ入ります。美樹さんの担任の野村ですが」

「ああ、いつもお世話になってます。わざわざお電話まで、本当に気を遣わせてしまって」

 すぐに美樹ちゃんに代わりますから、と女性は続けた。根回しは済んでいたようで安堵する。

「少しお待ちくださいね」

 女性の言葉の後は、クラシック音楽に替わる。音楽に疎い野村にも聞き覚えのある曲だった。

 しばらく旋律に耳を傾けていたが、中々美樹は出てこない。音楽もリピートを始め、野村は彼女に何かあったのでは、と不安を懐く。数分が経ち、何度も曲が繰り返され、いくつ目かと回数を数えるのも止めた頃、ようやくメロディーが止まった。

「高橋?」

 憂慮して呼びかけると、電話口から小さく息を漏らす音が聞こえた。

「先生、ありがとうございます。……もう、だめかと思いました」

 声は確かに美樹のものだった。いささか疲弊しているようだが、彼女の無事に心から安堵する。

「何かあったのか?」

 訊くと、美樹は何故か「ごめんなさい」と謝罪する。

「折角いろんな物を用意してもらったのに、無駄にしちゃいました」

「……効かなかった、ということか?」

「はい……ごめんなさい」

 再度詫びた美樹に対し、野村は眉を寄せる。

「謝らなくていい、君のせいじゃない。それよりも、何か危険な目に遭ったのか?」

「ああ、はい、アレに追いつめられて……でも、先生が電話してくれたお陰でみんなが来て、だから大丈夫です」

「…………本当に大丈夫なのか?」

「はい、平気です、大丈夫……」

 美樹の返答は全てふわふわとしていて掴みどころがなかった。大丈夫と繰り返す彼女に、野村は不安を募らせていく。

「化け物に何かされたのなら、はっきり言いなさい。先生がなんとかするから」

 低学年の子に言い聞かすように、ゆっくりと語りかける。美樹はしばらく黙っていたが、野村が辛抱強く待っていると、ついに口を開く。

「お父さんが……」

 か細い声が明かしたのは予想外の人物だった。てっきり化け物が美樹に大きな恐怖を与えたのだとばかり思っていた野村は、戸惑いながらも口を慎み続きを聞いた。

「私とアレを見て、私がアレをいじめたって、すごく怒って……怖かったのは私なのに……お父さんは私のお父さんなのに……」

 美樹の喋る声が、徐々に鼻にかかっていく。どうやら泣いているようだ。もう泣きません、と笑った彼女の顔が浮かぶ。酷く胸が痛んだ。

「もうお父さんは私もアレも同じだって言うの。私、そんなのと一緒は嫌って言ったらまたすごく怒って……お母さんはずっと私たちを見てるだけなの。誰も助けてくれない」

 お母さん、とは彼女の父親が再婚した女性だろうか。化け物のような連れ子を産んだ女性。その相手は果たして人間なのだろうか。野村は思わず色々なことを想像してしまい、あまりに生々しくて考えるのをやめる。

「あの子が怖いって言ったらお父さんに叱られちゃう。……私、誰も味方がいなくなっちゃった。お母さんも、お父さんも私の傍に居てくれない。もうどうすればいいか――」

「先生がいるじゃないか」

「――え?」

「先生は君の味方だ。俺は君を信じているし、君が呼ぶならいつでも駆けつけるよ」

「……本当に?」

「ああ、絶対だ」

 思わず口にした言葉だったが、これで美樹の気持ちが少しでも軽くなるのなら、気障な台詞でもなんでも言ってやりたいと感じた。野村はそれほど彼女に強く同情していた。

「信じますよ? 本当の本当にいいんですか?」

「もちろん。嘘をついたら針千本を飲んだっていい」

 おどけて言うと、美樹がくすりと笑う。

「ありがとうございます――元気が出ました」

「どういたしまして」

 ようやく子供らしい前向きな声が聞け、野村は覚えず微笑む。

 ……よく堅物と言われる野村だが、一人の生徒にここまで気を回し心を砕いていることに、自分でも大層驚いていた。四角四面な性格の野村にとって、教え子に特別を作る気は無かったし、ましてや肩入れをするなどということは予想だにしなかった。

「先生って、物語に出てくるヒーローみたい。私、先生に会えて本当に良かった」

 まるで恋仲の男に向けるような言葉に、大きな動揺と、僅かな疚しさを覚える。野村は深く考えないように目を閉じる。

「その言葉が誇張にならないように頑張るよ」

 ただ、いじらしい少女を守りたいという気持ちだけを常に持ち続けるだけだ。……難しいことではない。

 美樹と話した後は、彼女の母親に電話を代わる。もう一度遅い時間に連絡したことを謝罪し、彼女に調子を合わせ美樹の話をある程度交わす。最後には形式張った挨拶をして電話を切った。思った以上に長くなった通話時間を見ながら、野村は無意識に爪を噛む。






 ――美樹はよく、真夜中に目が覚めた。

 そんな時は大抵、体中に汗を滲ませて、酷く呼吸を荒げながら、突然に意識が浮き上がるのだ。

「――また、怖い夢を見たの?」

 すぐ隣で微かな囁き声が聞こえた。

 夢。そう、夢だ。最初は穏やかで優しい世界に居るのに、突然何者かによって全てが壊されてしまう。それは、恐ろしいお化けだったり、牙の鋭い獰猛な獣だったりした。

「落ち着いて。大丈夫よ……」

 胸の上を優しく叩く手のひら。一定のリズムで単純な動作をしているだけなのに、急速に鼓動が静まっていくのがわかる。

「ほら、もう怖くないでしょ?」

「……うん」

 暗い部屋の中にぼんやりと浮かぶ人影。美樹にはそれが誰か、考えるまでもなくわかっている。

「――おかあさん」

 呼ぶと、美樹の頬を柔らかく撫でた。美樹は少しくすぐったくて首を縮めると、彼女は代わりに乱れた髪をすく。

「あなたの夢の中の悪いものは、これでいなくなっちゃったわ。もう大丈夫」

 いつものこの言葉を母が言うと、吸い込まれるように眠気が全身を包む。

「夜はしっかり眠らなきゃ、明日出かけられないよ?」

「じゃあ……おかあさんも一緒に公園行こ……」

「そうね、丘の上の公園のブランコに乗ろうか」

「いや……ブランコ怖い……」

 母は笑みを含んだ眼差しで美樹を見つめた。

「大丈夫。お母さんが一緒だから怖くないでしょ? 背中押してあげるから、頑張ろうね」

「うん……」

 うつらうつらとしながら、優しい母の温もりを感じていたくて眠るまいと抵抗する。そうなると、母は慈愛を満ちた声音で言うのだ。

「おやすみ、美樹」



 ――ドンッ!

 美樹は安穏の暗闇から、唐突に放り出される。

 気がつけば部屋の中は既に明るくなっていて、窓は朝の日差しをいっぱいに取り込んでいる。

 ――ドンッ!

 ドアが揺れる。美樹は耳を塞いで布団に潜った。

「お母さん……っ」

 くぐもった声が布団に吸い込まれる。いつの間にか濡れていた頬に、止めどなく涙が滑る。

 ――ドンッ!

 怖くて、悲しくて、とても虚しかった。もう、この家には美樹を優しく慰めてくれる人はいない。ただただ自分自身をかき抱いて、化け物の気が済むのを待った。



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