十三話
その日の放課後になると、美樹はまた職員室に訪れた。野村が迷惑そうな素振りを見せなかったので、美樹はこっそり胸をなで下ろした。
もう一度同じ個室に案内され、ソファーに腰を下ろす。同じように対面に座った野村の服からは、うっすらと煙草の匂いを感じた。
「――先生は、アレを見たときに最初から……その……普通じゃないって、思ったんですよね?」
歯切れの悪い質問だったが、野村はしっかりと頷く。足を組んだ格好でソファーに座っているが、その足が長くスラリとしていて中々様になっている。
急に、一番スーツが似合う先生だよね、と友人がはしゃいでいたのを思い出す。野村先生の名前は祐介って言うんだよ、と話す友人の頬は、淡く紅潮していた。
美樹はどうしてか感じた、場違いな胸のざわめきをかき消すように言葉を続ける。
「私がアレを初めて見た時は、顔全体が真っ暗で、まるでぽっかり穴が空いてるように見えました。でもそれだけじゃなくて、ウジやナメクジみたいな……気持ち悪いものが湧きだして、その内、そこから顔……なのかな、目みたいなものと、口みたいなものがある不気味な顔が……」
言葉にしていく内に、頭の中に鮮明に描かれていくあの姿に、美樹の声は次第に小さくなる。
「……そうだな。確かに変な色のウジが湧いてたし、顔から顔が生えていた」
美樹の言葉を引き取って、野村が続ける。
「気味が悪かったし、最初は幻覚か白昼夢だと思ったんだ。騒ぐ子供達も見ない振りをしたし、教師失格かもしれないが、あの時は授業を遂行することだけを考えていた」
そう言って、頭を緩く振る。
「でも、二度も見てしまったらもう言い訳できなくなってしまった」
「二度……ですか?」
聞き返すと、野村は苦い顔をする。
「……授業が終わった後、一応教室周辺を見て回って、誰もおかしな奴なんかいないと確認したんだ。一安心だと、それでようやくホッとして……――だが、廊下の窓の向こうには、低学年と中学年の校舎が見えるだろう? 並ぶ窓の中の一つに、あの顔がこちらを向いていたんだ」
目を伏せて言う野村の血色は随分悪い。大人といえども、このような状況に酷く参っているように見える。
大丈夫ですか、と思わず美樹は声をかけた。
「なんだか、疲れた顔してます」
指摘すると、彼はなぜか小さく笑みを浮かべた。
「お互い様だな」
そう言われ、美樹は瞬いた。そしてすぐに取り繕うように笑う。
「そうですね……」
二人とも笑っているのにとても虚しく、空気は重く絡みつくようだった。
「俺はすぐに、あの化け物がいたクラスを受け持つ教師のもとに話を聞きに行った。……彼女を前にして、どういう風に言うべきかと迷い、結局口にできたのは『なにか変わったことはないですか』だった。彼女は大層怪訝な顔をしていたよ」
話を再開した野村に熱心に耳を傾ける。授業よりもよほど集中していたかもしれない。
「その顔を見て、なにも言えなくなって黙っていると、彼女から助け船を出してくれた。『確かあなたのクラスに、私の預かっている子のお姉さんがいましたよね』と。彼女はわざわざ、君の名前、君の新しくなった家族構成、そしてそのことで話を聞きに来たんだろうとまで推測してくださったよ」
野村は小さく息をつくと、少し気まずげな顔をする。
「……正直に話すと、俺は最初彼女がなにを言っているのかわからなかった。きちんと君のご両親から家庭に関する書類は提出されているんだが、あの化け物と君がすぐに結びつかなかった」
だから、結果的にすごく助かったよ、と彼は言う。
「俺は話を合わせて、彼女に探りを入れようとした。しかし、彼女はあっけらかんと、私のところはつつがなく平和だと言い切ったんだ。自分のクラスには飛び抜けて問題を抱える子はおらず、新しく転校してきたその子も、誰とでも仲良く、誠実で、でも時々友人や家族のことで不安を漏らしたりして、とても子供らしい好感が持てる子だ、とね」
とどのつまり、と野村は捨て鉢気味に口にする。
「今のところ、俺と君だけが圧倒的な少数派だ。……一体どちらが正しいんだかな」
野村は腕時計を見て、目を細めた。
「あまり時間はない。簡潔に話したいところだが、解決策が思いつかない。まずは第一に、君の安全を守らなければならないが……」
少し間を置いてから、言いにくそうに野村は続ける。
「君が望むなら、全寮制の中学校を探しておこう。もちろんご両親が反対するなら説得にもあたろう。……ただ、俺としてはあまり選択したくない案だ。君だけが家族と離れて家も失うなんて、全くもってナンセンスだ。……しかし、確実に逃げられるだろう」
考えたこともない提案に、美樹は無意識に視線を落とす。父のいる、母のいた家から逃げなければならない。少し想像するだけで、胸の奥に鋭利な刃物を滑らせたような痛みが走った。
「あと、一年ある。それまでにどうにかしよう」
美樹の表情を見て、野村は即座に言う。
――しかし、どうにか、とはどうするのだろう。あの化け物は、他の人の目には普通の子供に見えている。なにかしたらこちらが悪者だ。そもそも、恐ろしくて化け物に一指だに触れられない。されども、放っていては安心も安全も得られない。
……どうしたら。
考えあぐねて野村に見ると、彼もまた、難しい顔をして目を落としている。カリ、と微かに音を立てて、野村が口元に当てた指爪を噛んだ。
「先生……」
呼ぶと、野村はハッとした顔をして慌てて手を退けた。そしてきまりが悪そうに言う。
「考え事をすると親指の爪を噛む癖があってね。とうの昔に矯正したつもりだったんだが……。はは、情けないところを見せてしまった」
美樹は無言のまま眉尻を下げる。とても心苦しかった。
「あの、無理ならいいです」
そう言うと、野村は眉間にしわを寄せていぶかしげな顔をする。
「いえ、その……先生には、直接関係ないじゃないですか。アレの受け持ちじゃないし、校舎も違うし。助けてって言ったけど、無理なら無理で諦めます。……えっと、できれば、本当に危ない時に逃げられるところとか教えてくれると嬉しいなって思うけど……」
喋っている途中から野村に鋭く射貫くように見られ、いたたまれなくなって口をつぐむ。彼は大きく溜め息を漏らした。
「俺は一応、教職に就いているんだ」
「はあ……」
「君は先生の教え子だろう。親すら頼れない君のことを捨て置いて、そ知らぬ顔はできないよ」
その言葉だけで美樹は胸が一杯になった。本当は、誰かに絶えず共感や助けを求めていたし、ここで切り捨てられたら後で隠れてひたすら泣いただろう。たとえ義務感だったとしても、野村の一言が嬉しくて嬉しくてたまらなかった。
「とりあえず俺は、そいつに対してなにか有効な手段がないか探してみるよ」
「有効な手段?」
「ああ。周囲の目には普通の人間に見えるとすると、暴力に訴えることはできない。ならば、それ以外で役に立ちそうな方法……例えば、一般的に幽霊にはお経や護符なんかが効くと言われている。……まあ、アレに念仏が通用するとは思えないが、試してみる価値はあるかもしれない」
「お、お経ですか?」
あまりにも意想外な話に、素っ頓狂な声で繰り返す。野村は美樹の反応に少し羞恥の混じった顔をし、とがめるように咳払いをした。
「化け物に対する攻撃、または防御の方法は古来から数多く存在している。その一つがお経だ。他にも清酒に粗塩、お守り、ひとがた、守り刀……国外の魔除け道具も言い始めたら切りが無いくらいだ。その中のなにかに効果があれば儲けものだろう。非現実的な出来事への対処法は、非現実的な行為だと思う」
美樹は呆気にとられて口を開けていたが、野村の気まずげな表情に、慌てて取り成すように言った。
「その、すごく詳しいんですね」
「……いや、実を言うと、一夜漬けの知識だ。君にあの存在の話をするにあたって、なにか似た前例はないかと調べたんだ。そして結局わかったのは、怪異に対する、効くかどうかも知れない不明確な行動だった。……無理に信じろとは言わないが、気休めにでもなればいいと思う」
そう締めくくった野村の顔は、とても消耗している風に見えた。もしかすると、本当に徹夜でもしたのかもしれない。ここまで身を砕いてくれる教師に、信じます、と美樹の口は独りでに動いていた。
「そうか……。だが、あくまで素人の付け焼き刃の知識だ。一番安全なのは、やはり接触しないことだろう。同じ家に住んでいるならば難しいとは思うが……。とにかく、危険だと思ったら先生に連絡しなさい。君には俺の連絡先を教えておく」
野村はスラックスのポケットからペンとメモ用紙を取り出し、数字を記入する。それを美樹に寄越すと「いざという時のために、記憶した方がいい」と言い添えた。
渡された小さな紙を眺める。授業で見慣れている整った文字を見ていると、本当に心強く感じた。
「先生、ありがとう」
美樹の心からの言葉に、野村は照れくさそうな顔をした。