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一話

 

 ――今日は、お母さんと会うんだぞ。


 美樹は、父の言葉を聞いて複雑な思いに捕らわれた。今まで彼女には長い間母がいなかった。それ故胸の内を交差する様々な思いは簡単に片付けられなかったし、そんな感情をうまく父に伝えられなかった。

 もうすぐ丘の上の公園に着く頃だ。そこは遊具が小綺麗で、見晴らしも良く、太陽が少しだけ近くに感じられて暖かい、そんな美樹のお気に入りの場所だった。

 父が息を弾ませている。美樹は何度もここに来ているから、少しも疲れていない。父の手を引っ張って、早く行こうと催促する。父は穏やかに笑った。

 公園に着くと、美樹はつないでいた手を離した。特に好きなブランコが誰かにとられないように、彼女はいつも入り口から走り出す。知らない母よりも、美樹はブランコに夢中だった。大きな滑り台の向こうにある、桃色のペンキが塗られた綺麗なブランコ。彼女には右から二つ目に乗るというこだわりがあった。公園を駆け、もうブランコは目の前というところで、美樹は思わず足を止める。

 キィキィ、と音を立てて微かに揺れる鎖。美樹がいつも選ぶ場所に、彼女よりも少し幼そうな年頃の女の子が座っていた。

 ――ああ、せっかく急いだのに。

 美樹はとても残念に思った。いつも乗るはずの場所。今日は先を越されてしまった。出端を挫かれ、唇を尖らせる。

 女の子はうなじが見えそうなほど俯いていた。

 ……私のお気に入りの場所で遊んでいるくせに、ちっとも楽しそうじゃない。

 美樹は更に不満げな表情をする。女の子は足を地面につけたまま、僅かばかり前後に揺れるだけだ。諦めて隣に座ろうとも思ったが、なんとなく気乗りしない。美樹はいじけて滑り台の影に入った。地面の石ころを退屈しのぎに数える。

 ――キィキィ。

 ブランコが、いつもと違って耳障りな音を立てているように感じる。石ころに面白みを持てず、もう一度惜しげにブランコを眺める。

 俯いている女の子。肩に届くくらいの黒髪が野暮ったく見える。女の子の身に着けている赤いスカートが日差しを照り返し、少し目が眩む。

 ――キィキィ。キィキィ。

 軋む音。美樹はなぜか、嫌な気分になる。目をつむっても赤い色はまぶたの裏に残っていた。取り除くように両手で目をこする。色が消えるとようやく落ち着いた気分になり、手を止めてもう一度ブランコを見遣る。

 ――そして、美樹は思わず悲鳴を上げそうになった。

 実際には短く息を呑んだだけで、声はうまく出なかった。心臓が急激に乱れ、胸がとどろく。目を大きく見開いて、ブランコを緩慢に漕ぐ女の子を凝視する。

 俯いていた女の子は、いつの間にか頭を上げてこちらを向いていた。しかしそこには『顔』というものは存在していなかった。可愛らしいとか、醜いだとか、そういうものは一切当てはまらない。――異形だった。

 目も、鼻も、口もない。あるのはただの闇。闇が渦を巻いて顔の中心に広がっている。呑み込まれてしまいそうな暗がりだった。

 お父さん、と美樹は呟いたが、空気ばかりの掠れた声は彼女自身さえ聞き取りづらい小ささだった。緩やかに動くブランコの軋む音の方が、余程大きく聞こえた。

 ――キィキィ。キィキィ。――――ぐちゃ。

 それは、金属がこすれる音よりも更に不愉快な音だった。聞くだけでも身の毛がよだつ。気持ちが悪い。耳を塞いでしまいたいけれど、あまりのことに美樹は体が動かない。

 ――ぐちゃ。ぐちゃ。ぐちゃ。

 目を離せなかった。音は女の子の顔……闇の中から聞こえる。美樹は恐怖で慄然としながらも目を凝らす。不吉な音が鳴る度、暗い内側からぬるりと光沢を帯びた何かが見え隠れしている。一体、アレは――。

 立ち尽くす美樹に見せつけるように、闇の中からずるりと音を立てていくつも這い出てきた。ぐちゃぐちゃとうごめきながら、手を伸ばすように。

 それは、ナメクジのように見えた。雨に濡れ、ねっとりと青い葉に絡み付く遅鈍な生き物。しかし、色は血のように赤黒かったり、腐敗した肉のように濁った緑だったり、目に染み入るくらいはっきりした黄色をしていたりと様々だった。

 とてつもなく気色が悪いもの。それが白昼の日がさんさんと降り注ぐ公園にいる。余りにアンバランスで、一層気味が悪い。女の子の顔の周りをネトネトと這う無数の色たち全てが、美樹を見ているような気がする。

 嫌悪感に際限無く体が震えた。もし、あの子がこっちに来たら、と不安で不安で仕方ないのに、美樹の手足は恐怖に痺れ、彼女の意志で動かすことができない。

 ――キィ、と音を立てるブランコ。座席が不安定に空を揺れる。

 女の子が立ち上がった。顔にへばりついているものがうねり、嫌な音と色を振りまく。女の子はすり足で地面をずりずりと引っかきながら、ゆっくり、ゆっくりと進む。来ないでと祈る美樹の気持ちとは正反対に、まっすぐに彼女を目指していた。

 美樹は呆然と目を見開き、唯々女の子の顔を見ていた。足が動かない。逃げられない。

 闇から伸びるものが不気味に蠢動する。ぐちゃぐちゃと耳に残る粘着質な音。おぞましさに息が上がる。

 ――誰か。

 美樹は必死に助けを呼ぼうと口を開くが、声が出ない。女の子は不自然な歩き方で地面を擦る。その体は大きく傾いていて、歩く反動で細い腕がゆらゆらと揺れている。

 ――誰か、助けて。 

 ぽん、と肩に手が触れる。

「美樹、なにしてるんだ?」

 見上げると、父が優しく微笑んでいた。

 気が付けば、美樹は一目散に逃げ出していた。





 息が切れ、汗が額を伝う。公園から離れた場所で、美樹は荒い呼吸を繰り返した。短い距離を走っただけなのだが、まるでもう何キロも走った後のように体が言うことを聞かない。近くの木に寄りかかってしゃがみ込む。まだ頭の中は真っ白だった。

 ……アレは一体、何だったの?

 思い出したくもない容貌。発せられる嫌な音。奇異な動き方。全てが美樹の知る常識から抜きん出ていた。

 人間じゃない、と美樹は思う。あれはまるで――化け物だ。

 未だ震えている手を握り締めようとするが、うまく力が入らない。とにかく恐ろしい存在だった。

「お父さん……」

 意識して声を出す。美樹を助けてくれたのに、無我夢中で逃げてしまった。あの後どうなったのか。もし父になにかあったらと思うと、美樹は涙が出そうになる。

 ――行かなきゃ。

 わななく足にぐっと力を込める。父がいなくなってしまったら、美樹は独りぼっちになってしまう。それだけは嫌だった……絶対に。

 美樹は意を決して公園へと向かった。




 おじけづく自身を叱りつけ、やっと公園まで着き、石造りの門の陰に隠れた。そこから首を出せば簡単に公園一面が見渡せる。激しく脈動する心臓。美樹はなだめるように胸に手を置く。幾度かためらったが、ついに息を殺して中をうかがう。そして彼女は――拍子抜けしてしまった。

 公園に根差す大きな木の下、柔らかな木漏れ日が差すベンチの上で、父は楽しそうに見たことのない女性と談じていた。きっと父が紹介したいと言っていた相手だろう。その女性も、恐怖など何一つ感じていない様子で、嬉しそうな表情を父に向けていた。

 美樹は恐る恐るブランコにも目を遣る。滑り台で見にくかったが、やはりそこにも人影はない。

 ようやく深く安堵する。美樹にはあの化け物が何だったのかわからなかったが、いなくなってしまえばそれでいい。父や美樹に危害が及ばないのなら、なんら問題はないのだ。

 彼女は父のもとに駆け出す。先ほどの覚束ない足取りが嘘のように軽かった。優しい風の匂い。暖かな日差し。大好きな場所。美樹は満面の笑みで父に手を振る。父はすぐに彼女に気付き、手を振り返した。

 傍まで走り寄ると、まず父が美樹の髪をすくようになでる。父の右隣に座る女性は、美樹の肩に引っかかっていた木の葉を取り払ってくれた。

「全く、お転婆だな」

 父が苦笑しながら言う。

「あら、可愛いじゃない。元気なのが一番よ」

 ね、と女性は物柔らかに微笑む。美樹は遠慮がちに頷き、父の横に隠れた。彼女の笑顔が思ったよりも綺麗で、今更ながら緊張してしまったのだ。

「こらこら、挨拶はどうしたんだい」

「いいのよ。……あのね、美樹ちゃん。私、あなたのお父さんと仲良くさせてもらってるの。美樹ちゃんのことも色々聞いてるのよ。できれば、私とお友達になってくれるかな」

 女性が手を差し出す。父が軽く美樹の背中を押した。ふわりと漂った甘い香りに、美樹は思わずどきどきしながらその手を握り返す。

「ふふ、ありがとう。私は貴子タカコって言うの。よろしくね」

 美樹が小さな声でよろしくお願いします、と返すと、貴子はつないだ手に少し力を込めた。

「美樹ちゃんってとても良い子ね! あなたが育てたとは思えないわ」

「ひどいなあ」

 悪戯っぽい言葉に、父が苦笑する。

「私のことは貴子さんとか、おばさんって呼んで。あ、お姉さんでもいいわよ」

「おいおい、お母さんじゃあないのかい?」

「もう、段階を踏もうとしてるのがわからないの?」

「ああそうか、すまんな」

 本当に楽しそうにやり取りをする二人に、美樹の口元が綻ぶ。胸の内でわだかまっていた不安が解消されていくのを感じる。新しい家族となる人は、とても良い人に見える。そして――あの化け物も、いない。

 ……きっと緊張してたせいだ。

 美樹は思う。落ち着かない気持ちが見せた白昼夢。そうに決まっている。あんなもの、存在するわけがない。

 あの顔をちらりと思い出してしまった美樹はとても嫌な気分になり、父の手を軽く引っ張って早く公園を出ようと促した。

「美樹、どうしたんだ?」

「疲れちゃったんじゃないかしら……ごめんね、無理させたね」

「そんなこと……」

 美樹は慌てて首を横に振ったが、貴子は気遣わしげに美樹を見る。

「いいのよ。それに、私もちょっと休みたいと思ってたから丁度いいわ。ねえ、日も高くなってきたし、どこか屋内に入りましょう」

「そうか……そうだな。そろそろ行こうか」

 父も同意する。美樹は罪悪感を覚えながらも、少なからずホッとした。

「じゃあ、少し待ってて」

「ああ」

 貴子の言葉に父が頷くと、彼女は歩き出した。そしてすぐに、その歩みを止める。

「あら、こんなところに……。さあ、おいで」

 大きな木の後ろ。重なった葉の影で薄暗くなっている場所。

 ――ぐちゃり、と何かを潰すような音が聞こえた。

 貴子に手を引かれて、女の子がこちらに近づいてくる。不快な音が美樹の耳を支配する。女の子が一歩進む度、その頭が不安定な動きで揺れる。その顔には、おびただしい数のなめくじに似たものが這っている。アレ、は――。

「美樹?」

 全身がおののき、どっと汗が滲む。息が苦しくて、視界がぼやける。隣にいる父の声が遠い。

 そんな、と美樹は小さく呟く。現れた化け物をひたすら凝視していた。




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