僕の知らないチョコレート
振り返ったその人の表情はあまりにも美しくて、僕は何も言えなかった。
「悠梨」
やっと吐き出した言葉はその人の耳には届かなかったようで、僕越しにどこか遠いところを見つめているような眼でもの一つ言わず、唇を真一文字に結んでいた。
「悠梨、それ……」
「見逃して、翼」
やっと僕をとらえた瞳はキバを剥いた狼のように闘志を燃やしていた。
その瞳に、僕は悠梨を止める術がないことを知った。
悠梨の右手に握られた刃物にべったりと鮮血が纏わりつき、テカテカと光っている。
最早後戻りはできないのだった。
「見逃しなさい、翼。そして今すぐ立ち去って」
悠梨は深紅に染まった「桐生くん」を愛おしそうに頬に触れる。
桐生くんの事を悠梨は愛していたんだろう。悠梨は聖女の頬笑みを浮かべている。
僕にそういった「愛」だとか「恋」だとかはわからなかったけれど、悠梨のその顔はこの世のものとは思えないのどに艶やかだった。
そして、酷く恐ろしかった。
初めて見る死体より、牡丹のように広がる鮮血の海より、悠梨の横顔が恐ろしかった。
「忘れなさい」
悠梨はそう言って、瞳を潤ませた。その瞳に悠梨の人間味を感じた。それが、僕の見た悠梨の最後の姿だった。
悠梨は四つ年上のお向かいのお姉さんだった。
僕はあの頃小学生で、悠梨は高校生。悠梨は幼い僕を弟のように可愛がってくれていたのだろう、勝手に部屋へ上がり込んでも呆れたように笑ってチョコレートを二人で食べた。
「まぁた翼は勝手に上がり込んで。おやつにチョコレートでもいる? 」
悠梨と食べたチョコレートはいつも甘くておいしくて。だから悠梨の部屋に、悠梨の同級生「桐生くん」が出入りするようになった時、僕はひどく寂しさを感じたものだった。
あのチョコレートの甘さを、悠梨は桐生くんと味わっているのかと、幼い嫉妬心だった。
悠梨の家から自分の家へ帰るのが嫌で、近所の公園に足を運んだ僕はポケットの中の二粒のチョコレートの存在を思い出した。
ぺリぺリと中身を取り出して口に含むと、甘さの中にほんのりとカカオの苦みが広がった。
それは幼い僕の知らない味だった。
END