ハッピーカモーン 5
「そうだ、章子は元気にしているの?」と奈々子は同じ高校の同級生であり、拓也の妻である章子のことを尋ねていた。
章子は陸上部ではなかったけれど、当時から拓也のガールフレンドでもあったから、奈々子と章子も親しく付き合っていた。
「あの章子も二児の母だぜ。昔から気が弱いほうではなかったけど、年を経るほどに気が強くなってさ、PTAとかで、ずけずけ言っているらしいよ」
「母は強し…かな?」
「まさしくだよ。今は下の子が3ヶ月前に生まれたばかりなんだ。いつもは章子に店も手伝ってもらっているんだけど、それどころじゃなくてさあ」と拓也は奈々子に不満を漏らしていた。
「へえ、じゃあ、お店、人手不足なの?」と奈々子は尋ねていた。
「うん、まあね。でも混む時間も限られているし、アルバイトの浜本くんもいるしね」
「ねえ、2ヶ月間だけ、私を雇わない?」と奈々子はとんでもないことを言い出した。拓也は唖然とした。
「そりゃあ、店を手伝ってくれるのはありがたいけどねえ、あの山本奈々子がここにいるなんて知れわたったら…」
「大丈夫よ」と奈々子は不適な笑みを浮かべた。
奈々子はバックから黒い髪留めと黒縁メガネを取り出した。くるくるっと長い髪をまとめるとメガネをかけた。
「ほら、別人でしょ?」と奈々子はウインクをして見せた。
確かにこれで店のエプロンでもしてみれば、まさか山本奈々子と同一人物とは思うまいという風貌になった。
「私、学生時代、ウエイトレスのアルバイトをしていたの。コーヒーを淹れるのは出来ないけど、接客は任せてよ」
奈々子は続ける。
「それに、アルバイト代はいらないの。ただし条件がある」
「何?」と拓也はごくりと唾を飲み込んだ。
「このコーヒーショップの2階に住まわせてもらいたいの」
「えっ?」と拓也はますます驚いた。
「自分のマンションに帰ると、またあの男が来そうで嫌なのよ」
「はあ、そういうことか…」
拓也は呆然としていた。好きでもないプロデューサーのせいで傷を負った上に、自分のキャリアも奪われ、それでも、なお付きまとわれている奈々子を哀れに思ったからだ。
「まあ、俺はいいけどさあ。章子に相談しないとまずいだろ。バイトが勘違いして、俺が女連れ込んでいるなんて、噂でも立てられてみろ。今、章子に電話するよ」
拓也は携帯電話で章子に電話をかけた。
「ああ、俺。今、奈々子が店に来ているんだよ。奈々子って?陸上部で一緒だった。ああ、高校の同級生の。嘘じゃねえよ。ああ…、とにかく由香を連れて来いよ。そうしたほうが、話が早いや。待っているぞ」
拓也は章子に奈々子が来ていることを信じてもらえずイライラしているようだった。
「まったく、あいつは『奈々子があんな地味なコーヒーショップに来るわけないじゃない』なんていうんだぜ。地味で悪かったなっ、つうの!」
「あら、落ち着いた感じの素敵なコーヒーショップだと思ったわよ」と奈々子はフォローする感じでもなく、きょとんと言った。
「だろ!わかる人にはわかるのだよ。この良さが」と拓也は目を輝かせて言った。その様子をみて奈々子はふきだした。
「拓也はよっぽどこのお店を愛しているのね」と涙を流しながら笑い、ハンカチで涙をぬぐいながら言った。




