ハッピーカモーン 2
浜本くんの恋心もそれくらい淡い繊細なものなのだろう。三十七歳の拓也にはもう、その気持ちは思い出せない。
そう、思いふけっていると、休憩に出かけたはずの浜本くんが扉を開けて戻ってきた。少し息を切らせて。
「て、店長!お客様です!」と浜本くんはあわてた声を出していた。拓也は浜本くんの動作はおかしいと感じたが、いつもどおりに「いらっしゃいませ」と声をかけていた。
拓也の目の前にはまさしく今、思い出にふけっていた奈々子がいた。
浜本くんが拓也の耳元で「夜にやっているニュース番組のキャスターの山本奈々子に違いありませんよ」と少し上気した声でささやく。
拓也は「ちがうよ、俺の高校時代の同級生だよ。確かに山本奈々子にそっくりだが、別人だ」と冷静を装って、浜本くんに答えた。
浜本くんは彼女の顔をチラッと見ると、いぶかしげな顔をしていた。拓也は出来る限り、普段どおりの自分を装い、「浜本くん、悪いけどさ、休憩もうちょっと後にしてくれるかなあ」と頼んだ。
「まあ、別にいいですけど…」と浜本くんが答えると、ちょうど精算のお客様がいたので、浜本くんはレジに立った。
奈々子は「拓也、ひさしぶり、10年前の同窓会ぶりかしら」と笑顔で拓也に話しかけた。
拓也は「まあ、ここじゃ、なんだから」と言って、二階の休憩室に奈々子を引き入れた。
拓也のコーヒーショップの2階は寝泊りも出来るよう、住居スペースになっている。最初に店を立ち上げた当時は、拓也はこの二階で暮していたが、結婚して子供も出来、手狭になったこともあり、住まいは別に借りて、今はもっぱら休憩室として使っていた。
「突然、こんな有名人が店に来るなんてさあ、店のアルバイトが興奮しちゃうよ、まだまだ多感な大学生なんだから」
と拓也は切り出した。
「ああ、ごめん、ごめん。メイクもキチンとしていないし、普段着だし、ばれないと思ったのよ」と奈々子は言った。確かに洋服はパーカーにジーンズというラフな格好であったが、髪形もメイクもキチンと整えられていた。
「それで、今日はどうしたの?」と拓也は奈々子に尋ねていた。
「拓也ってワイドショーとか、見ないの?」と奈々子は逆に尋ねてきた。
「うん、あんまりね。章子はしょっちゅう見ているみたいで、時々聞いたりするけどね」
章子は拓也の妻のことで高校の同級生でもあり、奈々子とも旧知の仲であった。
「じゃあ、拓也は私がどうなっているなんて知らないのね?」
「どうかしたの?」と拓也は自然に聞いていた。
「ちょっと待ってね」と言って、奈々子は1階の店内にあるスポーツ新聞を持ってきた。そして1面の記事を指差して、
「これ見てよ」と言った。
《山本奈々子キャスター、マンションの階段から転落し骨折。全治2ヶ月。突然の番組降板。》
「なんだ、こりゃ?」と拓也は声をあげていた。そして、奈々子の身体を上から下まで見てみるが、骨折しているようには見えない。
「どういうことなんだ、これは?」
「これはね、世間を騒がせないためのカモフラージュ」と奈々子は人差し指を唇に当てて言った。
「十分、世間を騒がせているぞ」と拓也は新聞を持ち上げて、記事を念入りに読み始めた。
「降板の本当の理由は、階段から転落じゃないの、これ!」と奈々子が前髪を上げると、額に7センチぐらいにわたる大きな傷が現れた。




