妹に婚約者も跡取りの座も奪われたので、もう何もかも全部投げ出して逃げたい
伯爵邸で開かれた、婚約者との交流を目的とした茶会。
今日のそれは、エヴァにとって少しだけ特別な意味を持っていた。
三か月後、婚約者である第四王子ジュリアンが学園を卒業する。
共に出席する卒業パーティーに向けて、揃いの衣装を準備するための相談をする──はずだった。
「君との婚約は解消する。新たに、ミアと婚約することにした」
一瞬、何を言われたのか理解できなかった。
第四王子ジュリアン。彼を伯爵家の婿として迎え、その愛を得るために、エヴァはこれまで精一杯尽くしてきたつもりだった。
それなのに、ジュリアンの隣には今、妹のミアが寄り添うように座っている。
「どうして……ですか」
喉の奥から絞り出した声は、情けないほど震えていた。
「どうして、だと? わかりきったことを聞くな。君ではミアに及ばないからだ。何においても、な」
「……っ!」
ジュリアンの言葉はあまりにも残酷で、けれどエヴァは何ひとつ言い返せなかった。
暗い茶色の瞳に茶髪。地味な容姿のエヴァに対し、妹のミアは金に近い明るい髪と空色の瞳を持つ、華やかで可憐な令嬢だ。
要領がよく、学園での成績も優秀。愛嬌があり、誰とでもすぐに打ち解ける。
比べられてしまえば、エヴァが勝てるところなど何ひとつない。
それでも、ジュリアンはエヴァの婚約者だった。
まさかこんなにも簡単に婚約者を挿げ替えるなどという暴挙に出るとは、思いもしなかった。
いずれ夫婦になるのだから、いつかきっと、彼は自分を愛してくれる──そう信じていた。
愛されるためなら、何だってしようと思っていた。
だからこそ、こんな言葉ひとつで捨てられて、納得できるはずもない。
──けれど。
ジュリアンがこちらを見る目は、ひどく冷ややかだ。
隣に座るミアは、申し訳なさそうに口を閉ざしながらも、その瞳の奥には隠しきれない優越感が滲んでいる。
何をしても敵わない妹に対して、姉としてのわずかなプライドが残っている。だからジュリアンに「捨てないで」と縋ることもできない。
役に立てば、尽くせば──その分だけ、愛を返してもらえると信じていた。
しかしそうではなかったのだと気づくには、あまりにも遅すぎたのだ。
◇
幼い頃から、エヴァとミアに対する家族の態度には、明確な違いがあった。
両親が結婚した頃、伯爵家の当主はまだ祖父だった。
嫁入りした母は、祖母──つまり姑との関係がうまくいかず、ずいぶんと肩身の狭い思いをしていたという。
その上、二人続けて産んだ子は女。
三人目を妊娠したものの流産し、それ以降、母は子を望めなくなった。
男児を産めなかった母に対する祖母の嫌味は、凄まじかったらしい。
とはいえ、女児であっても婿を迎えれば家を継ぐことはできる。
祖母は母からエヴァを取り上げ、跡取りとして自ら育てることにした。母には一切関わらせず、自分の理想とする伯爵家の後継者に仕立て上げようとしたのだ。
母は第一子であるエヴァから引き離され、残された妹のミアを、それはそれは可愛がった。
そうして歪な形ながらも、姉妹はそれぞれ愛情を与えられて成長しているように見えた。
けれど、実際はどうだっただろう。
エヴァに与えられたのは、厳しい教育と叱責だった。
何かを間違えるたび、意に沿わないことをするたびに、祖母は「おまえの出来の悪さは、あの母親にそっくりだ」とエヴァを責めた。
その間、ミアは母から惜しみない愛情を注がれていた。
「可愛い、愛する私のミア」
何かにつけて、そう言われながら。
やがて当主は父へと代わり、祖父母も相次いで亡くなった。
けれど母にとっては、長年関わらせてもらえなかったエヴァよりも、自ら手をかけて育てたミアの方が可愛いのだろう。
実際、愛想のいいミアは、母に連れられて参加した茶会でも評判がよく、褒められるたびに母は鼻高々だった。
祖父母に強く出られず、母を庇うこともなかった父も、二人が亡くなってからは母の機嫌を取ることに必死だった。
自慢の娘であるミアが褒められるたび、父は何かを買い与えて甘やかした。
それを横目に、エヴァは黙々と勉学に励んだ。
がんばれば、自分もきっと褒めてもらえる──そう思っていたから。
上手に甘えることなど、知らなかった。
そして──。
「エヴァ、喜べ。おまえの婚約が決まった。相手は第四王子殿下だ!」
父の言葉が、震えるほど嬉しかった。
エヴァだけの、たった一人。
生涯を共にする人。エヴァだけを愛してくれる人。
ジュリアンは、国王と同じ銀の髪に深い青の瞳を持つ美男子だ。
上の兄三人も、同じ色を持っている。
優秀な王太子。その補佐を担う第二王子。更には武に秀でた第三王子。
そんな兄たちと比べ、ジュリアンは凡庸だった。
幼い頃から兄たちばかりが褒めそやされ、比較され続けたジュリアンは、少々拗らせてしまったらしい。どうせ努力しても無駄だと、頑張ることを嫌う。
その一方で、王族としてのプライドだけは高く、傲慢なところがあった。
王族である彼の婿入り先が伯爵家となったのも、そのせいかもしれない。
けれどエヴァは、そんなジュリアンを見て思った。
──私と同じ──と。
兄たちに強いコンプレックスを抱くジュリアンが、妹への劣等感を募らせてきた自分と重なって見えたのだ。
この人のことを、私が理解し、愛したい。
──そう思った。
一方、ジュリアンは違った。
公爵家でも侯爵家でもなく、伯爵家への婿入りという立場が気に入らなかったのだろう。
会えばいつも機嫌が悪く、王宮での交流を目的とした茶会は、幾度となくすっぽかされた。
ところが最近になって、ジュリアンは王宮ではなく、伯爵家での茶会を望むようになった。約束を違えることもなく、億劫がる様子もなく、足を運んでくれる。
その変化を、エヴァは喜んでいた。
けれどきっとそれも、ミアに会うためだったのだ。
結局、エヴァはミアに何ひとつ敵わない。
ようやく手に入れた、たった一人。その人さえ零れ落ちて、振り返ればミアの手の中にある。
ただ一人、エヴァに愛を与えてくれる誰かが欲しかっただけなのに、それさえも叶わない。
伯爵家の歴史を学び、領地のことを学び、社交のことを学んだ。当主として恥ずかしくないように、と。それが自分の役目だから、がんばってきた。
褒めてもらえるように。認めてもらえるように。誰かに必要としてもらえるように。
いつしかそれはただ一人、ジュリアンのために。
でも、がんばっても愛は得られなかった。
婚約解消を告げられても縋ることができなかったのは、姉としてのわずかなプライドと、そして何よりも──揺るがない、次期当主としての立場があったからだ。
ジュリアンの婚約解消宣言から、わずか数日後。
父の執務室に呼び出されたエヴァに告げられたのは、到底受け入れがたい言葉だった。
「次期当主は、ミアとする」
意味は簡単に理解できるはずなのに、思考が止まった。
呆然とするエヴァを前に、父は淡々と続ける。
「ジュリアン殿下がミアを望まれたのだ。王族である殿下を迎え入れるには、ミアが伯爵家を継ぐ方が望ましいだろう。王家とも、すでにその方向で合意している」
エヴァを置き去りに、すべて決まったことだと父は言う。
「……でも……次期当主として、ずっと教育を受けてきたのは私です」
「ミアは学園で成績優秀だし、おまえよりもよほど社交的だ。きっかけは殿下のお気持ちだが、伯爵家にとってもこれが最善だろう」
何年も、伯爵家の跡取りとして厳しく育てられてきた。
それをこんなにも簡単に覆されるのならば、これまでのエヴァの努力は一体何だったのだろう。
もう、エヴァの手の中には何も残っていない。
すべて、ミアのものだ。
◇
我が国の王立学園では、卒業パーティーを卒業生自身が主催するという、少し変わった慣習がある。
学園で学んだことを披露するという意味も込めて、卒業生の代表者たちが準備から進行までを担い、保護者を招いてパーティーを開催するのだ。
生徒会長を務めるジュリアンは、当然のように主催代表を担っていた。
同じ生徒会に所属する三年生に、ジュリアンが自ら指名した数人を加え、主催メンバーは二十人ほど。
二年生のエヴァは、婚約者として卒業パーティーに参加する予定だったものの、主催する立場ではない。
それでもジュリアンに頼まれ、準備を手伝っていた。ジュリアンのためならばと、快く引き受けていたのだ。
今となっては、婚約者という立場さえ失ってしまった。
けれど、一度引き受けた仕事を途中で放り出すわけにもいかない。
「こちらが、当日の進行表です。例年この流れとなっていますので、それに倣って作成しました。座席表はこちらに。あとは会場準備を進めていきます。会場を彩る生花の一覧と、当日提供する軽食や甘味、飲み物の一覧です」
生徒会室で進捗を報告すると、ジュリアンはわかりやすく眉をひそめた。
「花が少ないな。これでは地味すぎる。料理も、もっと豪華なものがいい」
「……ですが……予算を考えると、これが限界かと」
「兄上たちの卒業パーティーは、それは豪華絢爛で素晴らしいものだったそうだ。同じ王族である俺のパーティーが質素では格好がつかないだろう。俺に恥をかかせる気か?」
「……申し訳ありません。何か方法がないか、検討します」
「はじめからそうすべきものを、俺に指摘されないとわからないとは、君は本当に気が利かないな。パーティー本番まで日も迫っている。速やかに改善案を出してくれ」
ため息をついたジュリアンが席を立ち、生徒会室を出ようとする。
その背中に、副会長である二年生の侯爵令息が遠慮がちに声をかけた。
「……あの、殿下。年度末も近いので、生徒会予算の会計報告や一年間の活動報告をまとめなくてはならないのですが……」
「それは俺の仕事か?」
「役員は皆、それぞれ必要な報告をすでに提出しています。それをまとめるのが、会長の役目となっていますので」
副会長はそう言って、机の上に積まれた資料の山を示した。
ジュリアンが面倒そうに眉根を寄せる。
ちらりとエヴァに視線を向けたものの、卒業パーティーの書類を抱えているのを見て、何も言わなかった。
次いで、生徒会室の隅へと視線を滑らせる。
「おい、そこの無能」
呼びかけられた一年生の男子生徒が、派手なピンク色の髪を揺らして顔を上げた。
「おまえがやっておけ。どうせ暇なんだろう? 腐っても王族であるおまえは、再来年には会長職を任されるだろうしな。その練習として、俺の仕事をやらせてやる」
「えっ。僕が?」
「他に誰がいる? まともな返事もできないとは、本当に無能だな」
吐き捨てるように言うと、ジュリアンは資料の一部を男子生徒に投げつけ、生徒会室を出ていった。
扉の向こうから、「ジュリアン様、遅いです!」という声が聞こえてくる。聞き覚えのある、妹の声だ。
二人の楽しげな会話は徐々に遠ざかっていくが、エヴァの耳にこびりつくように残った。
それを振り払うように、床に散らばった資料を拾い集める。
「大丈夫? ノエル」
「うん。ありがとう、エヴァ」
資料を手渡すと、ピンク髪の男子生徒──ノエルは、にっこりと笑った。
ノエルはジュリアンの弟で、第五王子という身分の人だ。
ただし、その母親は他の兄たちとは異なる。
国王が一夜の戯れに手をつけた、下級侍女との間に生まれた子。
紛れもなく王族でありながら、王妃の子ではないノエルの立場は極端に弱い。
兄たちへの劣等感を紛らわせるように、ジュリアンは自分よりも弱いノエルを見下し、侮り、蔑んだ。
ノエルが周囲から王子として扱われることを、ジュリアンはひどく嫌う。
そのため、後ろ盾もなく微妙な立場にいるノエルは、ジュリアンへの忖度もあって、学園内でも軽んじられている。
母譲りの鮮やかな髪をかき上げ、ノエルは大量の資料を前に大げさなくらい肩を落とした。
「あーあ、どうしよう。兄上も、僕が無能だってわかってて無茶を言うよね。こんなの、一人でできるはずないのに……」
それから、生徒会室をぐるりと見回す。
「ねえ、手伝ってくれない? せっかくみんながきちんと報告書を出したのに、このままじゃ僕が台無しにしちゃう。うまくできずに兄上を怒らせたら、きっとみんなも責められることになっちゃうし」
生徒会の面々が顔を見合わせた。
ノエルの言う通り、報告書がまとまらず教師から咎められるような事態になれば、役員全員がジュリアンに叱責されることは容易に想像できた。
その上ジュリアンの性格を考えれば、役員たちが報告書を提出しなかったせいだと、責任を押し付けられる可能性さえある。
「……仕方ないな。手伝おう」
「手分けしてやりましょう。会長には、最後にサインをもらえばいいのよ」
「みんな、ありがとう! さすが、頼りになるなー」
役員たちの輪の中で、ノエルはにこにこと笑っている。
たしかにノエルは軽んじられている。
けれど同時に、彼は甘え上手だ。言葉巧みに人を動かし、抱えた仕事をあっという間に割り振ってしまった。
ノエルを見ていると、エヴァはいつも自分との違いに驚かされる。
学園に入る前──今より少し幼い頃のノエルを、エヴァは知っている。
ジュリアンとの婚約が決まり、たびたび王宮へ出向いていた頃のこと。
ジュリアンに茶会をすっぽかされることが続き、せっかく王宮まで足を運んだのだからと、許可を得て庭園を散歩して帰るのがお決まりになっていた。
そんなある日、迷い込んだ離宮の近くで、一人ぼっちのノエルと出会った。
まさか王子だとは思わなくて、顧みられない自分を誤魔化すように、ジュリアンに茶会をすっぽかされるたび、ノエルに会いに行った。
ジュリアンとは違い、ノエルはエヴァが顔を見せると嬉しそうにしてくれたから。
あの頃のノエルは、どこか自信なさげにおどおどしていて、ちっとも甘え上手ではなかったのに──。
エヴァは、ずっと変われない。
ジュリアンの婚約者でなくなった今も、与えられた仕事をやり遂げれば認めてもらえるかもしれない、褒めてもらえるかもしれないと、抱えたものを放り出せずにいる。
どれだけ足掻いても、もう彼の婚約者の座も、当主の座も戻ってはこないとわかっているのに。
役員たちの輪から離れ、一人でパーティー資料に目を落としていたエヴァに、ノエルが近づいてきた。
「エヴァは大丈夫?」
「……平気。任された以上、ちゃんと私がやらなきゃいけないことだから。ノエルはすごいね。この調子なら、きっとすぐに片付いてしまうわ。……あなたは、ちっとも無能なんかじゃない」
ノエルがぱちぱちと瞬きをする。それから、深い青の瞳を細めて微笑んだ。
「だって、あれは僕の仕事じゃないから。エヴァだって、そうでしょ?」
「…………そう、だね……」
その言葉が、胸の深いところに刺さった。
信頼して任されたことと、一人で何もかも抱え込むことは違う。
ノエルを見ていると、そんな気がした。
意を決して、エヴァは立ち上がった。
卒業パーティーの主催メンバーである、三年生の役員たちのもとへ向かう。
「……あの、ご相談があるのですが」
「え?」
彼らは驚いたように顔を上げた。
「卒業パーティーについてです。先ほどジュリアン殿下から指摘されたことについて、私なりに考えてみたんです」
面食らった様子の役員たちの前に、資料を広げて見せる。
「まず、生花の数ですが、発注先を変更してみてはどうでしょうか。殿下が指定された王家御用達の高級店ではなく、もう少し価格を抑えられる花屋を探すんです。安くても見栄えのいい花をたくさん飾れば、同じ予算でも質素には見えないと思います」
「……ああ、たしかに……。そうかもしれない」
役員たちが頷くのを見て、エヴァはほっとした。
「では、実際に何軒か花屋へ足を運んで、どこでどんな花が手に入るのか調べてみようと思います」
だから、一緒に──。
そう続けようとしたエヴァの言葉は、役員たちに遮られた。
「ああ、じゃあそういうことで頼むよ。エヴァ嬢に任せておけば間違いないし。あとはよろしく」
笑いながら、彼らはパーティーの資料をエヴァに押し付けてきた。
ノエルのように、みんなで協力できたら──。
そう、思ったのに。
エヴァは頷きかけて、もう一度勇気を振り絞った。
「……あの、私一人ではなくて……。これは、主催メンバーの皆さんですべきことだと思うんです」
役員たちが、あからさまに不満そうな顔をする。
「でも、殿下に頼まれたのはエヴァ嬢だろう? いつもそういう仕事は、全部やってくれていたのに」
「私たちはエヴァ様と違って、ジュリアン殿下のお好みもわかりませんし……。よくご存じのエヴァ様が、すべて決めた方がいいと思いますわ」
当たり前のように、仕事はエヴァの手元へ戻ってくる。
ノエルのようには、うまくいかない。
エヴァがジュリアンから頼まれた仕事だというのは、たしかにその通りだ。
ジュリアンも、他の主催メンバーも、エヴァを信頼して任せてくれているのだろう。
ならば、期待に応えなければならない。
「……わかりました」
頷くと、役員たちは一様に安心したような表情を浮かべた。
──ただ一人、ノエルを除いて。
資料を手に自分の席へ戻ったエヴァに、ノエルは困ったように笑いかけた。
「もしかして、一人で行くつもり?」
「うん。みんな忙しいみたいだし、引き受けたからには、私が責任を持ってやり遂げないと」
「そっか。じゃあ、僕も一緒に行こうかな」
「えっ、どうして?」
「さすがにエヴァ一人で町をうろうろするのは危ないでしょ。その点、一応王族の僕が一緒なら、護衛付きで安心だよ」
ノエルの申し出は、とてもありがたかった。
一人では不安だったし、相談に乗ってくれる誰かが一緒なら、どれほど心強いだろう。
けれど、これはエヴァがするべき仕事だ。
王族であるノエルを付き合わせていいものかと、ためらってしまう。
そんな気持ちを見透かしたように、ノエルは無邪気な笑みを見せた。
「エヴァと出かけられたら、きっと楽しそうだから。僕が行きたいんだよ。だめかな?」
「……ううん。だめじゃない。ありがとう、ノエル」
◇
次の休日。
エヴァとノエルは約束通り、町へと繰り出した。何軒か花屋を巡り、エヴァの手帳にびっしりとメモが書き込まれた頃。
「少し疲れたね。近くにカフェがあるから、休憩しない?」
ノエルの提案で、二人はカフェに入ることにした。
外観からして可愛らしいその店は、貴族向けでありながら気取った雰囲気がない。店内は完全個室ではなく、ゆるやかにパーテーションで仕切られているだけだった。
気軽に立ち寄れる上、メニューも豊富。
隣の席を窺うことはできないものの、あちこちから会話が聞こえてくる賑やかさが、店の人気を物語っている。
迷ってしまうほど豊富なメニューに目を落とすと、エヴァの気分も自然と上向いてきた。
「素敵なお店ね。ノエルはこういうところ、よく来るの?」
「そうでもないよ。ここは学生の間ですごく人気だって聞いたから、来てみただけ。女の子が好きそうだよね。エヴァは来たことない?」
「うん。はじめて」
「そうなんだ?」
少し意外そうに、ノエルが首を傾げる。
そう言われてみれば、ジュリアンと婚約していた頃、一度も二人で出かけたことがなかった。
誘われたこともないし、そもそもいつも忙しくしていた。ジュリアンの婚約者として生徒会に所属し、活動して、それ以外にもジュリアンに用事を言いつけられれば、それをこなして……。
学園でできた数少ない友人と、出かけたことさえない。
そこまで考えて、ふと、先日ジュリアンとミアが生徒会室の前で交わしていた会話を思い出した。
要領のいいミアなら、きっと違ったのだろう。
ジュリアンとも、二人で出かけたりして──。
「……まだ、兄上のことが好き?」
遠慮がちな問いかけに、エヴァは顔を上げた。
いつの間にか考え込んで、俯いてしまっていたらしい。
「ごめんね。こんな話、したくないかもしれないけど……。エヴァはもう、兄上と婚約を解消しているよね? それなのに、今でも兄上に尽くして……酷いことを言われても従っているのを見ていると、僕は悔しいんだ。すごく」
ノエルは、なぜだか傷ついたような顔をして、エヴァを真っ直ぐに見つめている。
その眼差しにつられるように、エヴァも自分の心の中を覗き込んだ。
「…………好き、だったのかな……」
ぽつりと落とした言葉が、胸の中に波紋のように広がっていく。
愛されたかった。
必要とされたかった。
役に立てば認められる気がしていた。
そうしなければ、自分には価値がないのだと恐れていた。
今だって、そうだ。
失望されたくない。
王子との婚約を失ったからこそ、なおさら自分の価値を取り戻したい。誰かに認められたいと思っている。
その相手がジュリアンであってほしいと拘っていたのは、彼が婚約者だったからだ。
自分と似た境遇にいるジュリアンとなら、わかり合える。
そう勝手に思い込んでいたけれど──。
結局、彼はエヴァではなく妹を選んだ。
胸に広がるのは、痛みではなく虚しさだった。
「……好きじゃ、なかったかも。わからないけど」
ノエルが目を丸くし、言葉を失った。
何となく零しただけなのに、思いのほか大きな反応が返ってきたことが気まずくて、誤魔化すように無理やり笑みを作る。
その時だった。
「──ねぇ、今日は何を頼む?」
「この間飲んだハーブティーが美味しかったから、同じものにしようかしら」
「いいわね。私も」
隣席から聞こえてきた楽しげな声には聞き覚えがある。恐らく、生徒会役員の三年生たちだ。
ノエルも気づいたらしく、軽く目配せをする。
「卒業も近いけど、こんなにのんびりしていていいのかしらね」
「たしかにね。去年の今頃、先輩方はパーティーの準備で大変そうだったもの」
「こうしてゆっくりできるのも、エヴァ様のおかげね」
不意に自分の名前が出て、思わず身構える。
彼女たちは『エヴァのおかげ』だと言った。
──大丈夫、役に立っている。
そう自分に言い聞かせようとしたけれど……。
「本当にそうね。私たちは何もしなくても、パーティーを主催した功績を称えられるけど、エヴァ様は関係ないのに……ちょっと、かわいそうよね」
「好きでやっているからいいんじゃない?」
「パーティーの準備が? それとも、ジュリアン殿下?」
「どっちもでしょ。婚約解消されても言いなりになって必死に頑張っちゃって、私だったら絶対無理。未練がましくてみっともなーい」
「言いすぎじゃない? ……まあ、わかるけど。あれじゃあ当主は務まらないわよね。妹に奪われたのも納得」
隣席から、くすくすと笑い声が漏れてくる。
話題は変わり、お喋りはそのまま続いていたけれど、エヴァは顔を上げられなかった。
顔から火が出そうなほど恥ずかしい。
役に立てば認められると信じてきた。
けれど、そうではなかった。ただ、便利に使われていただけだ。
ジュリアンに捨てられて、目が覚めたつもりでいた。
それなのに、エヴァは何も変えなかった。
今まで通り、何でも抱え込んで耐えようとした。失望されることを恐れて。
その姿こそが、自分の価値をさらに貶めていたのだから愚かにもほどがある。
羞恥心と自己嫌悪で、消えてしまいたかった。
「……馬鹿みたいね、私」
自嘲するように呟いて、ようやく顔を上げる。
そこには、痛ましいものを見るようなノエルの目があった。
「……エヴァ」
「もう、嫌なの」
居たたまれなくなって、ノエルの視線から逃れようと、きつく目を瞑る。
けれど思わず感情の欠片を口にしてしまったから、もう止まらなかった。
「……いらない。もう、全部。家にいるのも辛いし、学園にも通いたくない。誰かの仕事を代わりにするのも、疲れたの。もう全部投げ出して、逃げたい……」
溢れ出したのは、どうしようもなく勝手で醜い感情だった。
欲しかった愛は、手に入らなかった。
踏ん張って耐えても、もう大事にしたいものなんてない。
手元に残ったのは、押し付けられた仕事だけ。
信頼だと思っていたものは、搾取だったのだと知ってしまった。
はっと我に返り、慌てて目を開ける。
こんなことを言ってしまったら、きっとノエルを困らせてしまうから。
けれど目を開けた先で、ノエルは満面の笑みを浮かべていて────。
「いいよ。僕が叶えてあげる」
ノエルは後ろ盾のない第五王子だ。
発言力も影響力も弱い。しかも、まだ学生の身分である。
エヴァの望みを、簡単に叶えられるはずがない。
そんな都合のいい話なんてないとわかっているはずなのに、ノエルの迷いのない瞳を見ていると、なぜだか取り返しのつかないことをしてしまったような気がした。
◇
幼い頃から、ミアは姉のエヴァと比較されることが多かった。
ことあるごとに母は、エヴァよりもミアの方が華やかで可愛らしいだとか、物覚えがよくて賢いだとか、澄ましたエヴァよりも誰にでも笑顔で接するミアの方が評判が良くて嬉しいだとか、そんなことを口にしていた。
母は、祖母が跡取りとして育てた姉よりも、自分が大切に育てたミアの方こそ優秀であることを望んでいたのだ。
だからミアは、自分は姉よりも優れていると思っているし、何においても姉より劣ることがあってはならないと思っている。
第四王子ジュリアンをはじめて見た時、格好良くて素敵な人だと思った。でも、それだけ。
ミアの目標は、伯爵家を継ぐ姉よりも、爵位の高い家との縁談を得ることだったからだ。
けれど学園に入学して思い知った。
王族であるジュリアンは、当然ながら誰よりも身分が高い。彼に逆らえる者などいない。
生徒会長を務め、一番高いところから周囲を見下ろし、人を動かす彼の姿を見ていたら、他の令息など小物に思えた。
ジュリアンだけが、輝いて見えたのだ。
学園での頂点は、紛れもなくジュリアンである。
ならば、その隣にいるのが自分より劣る姉であることを許せるはずもない。
姉からジュリアンを奪ってやろうと決めたら、あとは簡単だった。
なぜならミアは姉よりも可愛くて、愛嬌があって、しかも成績優秀。負けるところなど、ひとつもないからだ。
ジュリアンも、姉とミアを比べて、すぐにそのことに気づいたのだろう。
間もなく、卒業パーティーの日が訪れる。
卒業生たちの晴れの日。
ミアは最も高貴なジュリアンにエスコートされ、豪華な祝いの席を堪能するのだ。皆が自分たちに注目し、祝福の渦の中心となるに違いない。
まるで自分たちの結婚式であるかのように、主役の座を疑いもせず、ミアは卒業パーティーの日を心待ちにしていた。
小さな綻びが生じたのは、ある休日の夕方だった。
いつも部屋に閉じこもっている姉が、その日は珍しく出かけていた。
遊びに行ったのかと思えば、卒業パーティーの準備のために花屋を巡っていたという。
相変わらずつまらなくて、かわいそうな人だと思った。
そんな姉が帰ってくるなり、母と共に寛いでいたサロンに顔を出したのである。
「ミア、少しいい? 話があるの」
「何? 珍しいわね」
「これを、あなたに預けたくて」
姉はテーブルの上に、書類の束を置いた。
一番上には、姉の手帳がある。
「……何これ?」
「卒業パーティーの準備に関する資料よ。これからはジュリアン殿下の婚約者であるあなたが、お手伝いしてさしあげて」
「はぁ? なんで私が?」
「私は、殿下の婚約者だからと頼まれて引き受けていたの。もう婚約は解消したから、あなたに引き継ぐわ」
姉の勝手な言い分に腹が立った。
中途半端に手を出しておいて、こちらに押し付けてくるなんて、あんまりな話だ。
「一度はやるって言ったんなら、お姉様が最後まで責任を持つべきじゃないの?」
「殿下の婚約者でもない、パーティーの主催メンバーでもない。ましてや二年生である私には、もう関係のないことだから」
「だからって、何で私なの? ジュリアン様に頼まれたんでしょう? 王子様に逆らうつもり? こんなの、私に押し付けないで!」
「殿下が、私では何もかもミアに及ばないと仰ったでしょう。だったら、あなたがやった方がいいと思ったの」
いつもの澄ました顔で、姉は聞いてもいない資料の説明を始めた。
今日、花屋で調べたことが書いてあるという手帳には、姉の几帳面な文字がびっしりと綴られている。
「ねえ! 私、やるって言ってないわ。嫌よ、忙しいの! パーティーのドレスとか宝石とか、準備しなきゃいけないんだから」
「そうよ、エヴァ」
口を挟んだのは母だった。
ミアを庇うように、姉の前に立ってくれる。
「あなたは姉なんだから、妹を助けてあげればいいじゃないの。婚約を解消したから何だって言うの」
姉が驚いたように母を見た。
「助ける? 私が?」
「当たり前でしょう。こんなことでミアに八つ当たりして、仕事を投げ出そうとするなんて意地汚いわ。婚約を解消されて傷物になったあなたは、今後嫁の貰い手を見つけるのも難しいとわかっているの? この家にいる以上、次期当主のミアをあなたが支えなくてどうするの」
母に睨まれ、姉は黙った。
いつもならすぐに謝って引き下がるはずなのに、今日の姉は様子がおかしい。謝罪の言葉は、いつまで経っても出てこない。
ようやく口を開いた姉の瞳は、少しだけ悲しそうに揺れている。
「それはつまり、ここにいる限り、私はずっとミアの肩代わりをしなければならないということですか」
「そんな嫌な言い方をするものじゃないわ。可愛い妹のために、どうして自分から進んでやりますと言えないの?」
「……お母様のお考えは、よくわかりました」
そう答えた姉は、俯いたまま机の上の資料を綺麗に揃え、置き直した。
そうして顔を上げた時には、瞳の奥にあった迷いは綺麗さっぱり消えていた。
それから、たった数日後。
王家から姉に、正式に婚約の打診がきた。
嫁の貰い手を心配していた父は、姉妹揃って王家と縁付けることになると喜び、即日快諾した。
姉までも王子と婚約だなんて……と、ミアは釈然としなかったけれど、所詮相手は第五王子ノエルだ。同じ王子でも、ジュリアンと比べれば数段劣る。
そう思うことで、自分を納得させた。
そして──。
その日から、姉はいなくなった。
◇
はじめて見た時から、ジュリアンはエヴァのことが気に入らなかった。
平凡な茶髪に茶色の瞳。自分の隣に並ぶには、あまりにも地味で華がない。
豊富な話題を提供できるほどの聡明さもなく、ひと睨みすれば萎縮して口を閉ざすような陰気な女。
頼めば何でもやるので、便利に使っていた。
要領は悪いが、言いつけたことは守る。都合のいい存在だった。
ジュリアンにとって、エヴァはその程度の価値しかなかった。
だから弟ノエルが自分の捨てた女と婚約したと聞いても、劣る者同士でお似合いかもしれないと思ったくらいだ。
傷物になった女と、そんな女しか娶れない弟。
優越感を満たすには、ちょうどいい。
どうせエヴァは、何があっても自分には逆らえないし、どんなことを言っても従うのだから。
しかし、ひと月ぶりに顔を出した生徒会室にエヴァの姿はなかった。
「おい、エヴァはどうした」
卒業パーティーの主催メンバーに声をかけると、困惑したような返事が返ってきた。
「エヴァ様は、ずっとお見えになっていません。学園も、ずっとお休みされているとか……」
「なんだと? 卒業パーティーの準備は、どうなっている?」
「エヴァ様がお一人で進めていらっしゃったので、私たちは存じ上げません」
「誰も何も知らないのか? おまえたちは主催メンバーだろう?」
「殿下が、エヴァ様に全てお任せされていたので」
たしかに、パーティーについてはいつものようにエヴァに命じていた。しかし主催メンバーを任されていながら、知らぬ存ぜぬという態度の三年生たちに腹が立つ。
そしてそれ以上に、ジュリアンに仕事を頼まれながら無責任に学園を休み、何の報告もないエヴァに腹が立った。
生徒会室の隅に視線を滑らせると、馬鹿を体現したような忌々しいピンク髪が目についた。
「おい、無能。エヴァはなぜ学園を休んでいる?」
問われたノエルが顔を上げる。
こちらの苛立ちには気づいていないらしく、不思議そうに首を傾げた。
「エヴァなら、もうずっと前に休学の手続きをとりましたよ。心身の調子が優れないので」
「ふざけるな、俺は何も聞いていない! パーティーの準備はどうなる!?」
「そう言われても……。エヴァは学園を休学するほど体調を崩していて、とても仕事を任せられる状態じゃないんですよ。途中まで進めていたパーティー準備の資料は、兄上の婚約者であるミア嬢にお渡ししてあるそうです」
ノエルの言葉に、ジュリアンは舌打ちしそうになった。
言われたことはやり遂げる。
そこだけは評価していたのに、それさえもできないエヴァの役立たずぶりが、ひどく不愉快だった。
こんなことなら、エヴァにやらせるべきではなかった。
そう思ったところで、今さらどうしようもない。
パーティー準備の進捗を確認するだけのつもりだったため、生徒会室の前で待たせていたミアを、仕方なく室内に呼び入れた。
「ミア、エヴァから卒業パーティーに関する資料を受け取っているな?」
扉を開けて入ってきたミアは、重苦しい雰囲気の生徒会室を見回し、少し気後れしたようにジュリアンへ寄り添った。
「えっ……資料、ですか? お姉様がサロンに置いていった書類のことでしたら、もうありませんわ」
事もなげに言ったミアの言葉に、ジュリアンは思わず耳を疑う。
「……何?」
「だって、お姉様ったら、私に押し付けようとしてきたんですよ? 嫌だって言ったのに勝手に置いていったから、使用人に言いつけて処分させました。私には関係ありませんもの」
ちっとも悪びれることなく、ミアが言い放つ。
その瞬間、室内の空気が凍りついた。
卒業パーティーの準備は、エヴァがたった一人で進めていた。彼女の手元にあった資料がなければ、何もかも一からやり直しになってしまう。
パーティーまで、残された時間はわずかである。
「ミア……君は、なんてことをしてくれたんだ!? このままでは、卒業パーティーが台無しだ!」
「え……。どうしてです? 準備を手伝っていたとしても、お姉様は二年生ですよ? 主催メンバーの皆さんが、準備の進行については把握していらっしゃるでしょう?」
「……それは……」
ミアの言うことは正論だった。
三年生の面々が、気まずそうに顔を見合わせる。
それでも、ジュリアンだけは構わずミアを責め続けた。
「全てエヴァに任せてあったんだ。資料を捨てたなら、君がエヴァに直接確認して作り直してくれなければ困る!」
「そんなの、無理ですわ。お姉様はもう伯爵家にはいませんもの」
「……いない? なぜだ?」
「ノエル殿下との婚約と同時に、家を出て行きました。今はどうしているのか、知りませんわ」
──エヴァが、どこにもいない。
いつでも命じればすぐに動くはずの女が、自分の声の届かない場所にいる。
その事実に、形容しがたい不快感が込み上げてきた。
視界の端で派手なピンク髪がちらついて、怒りの矛先がそちらへ向く。
ジュリアンは感情のままにノエルを睨みつけた。
「おい、無能。おまえがあの女を隠しているんだな。エヴァを連れて来い」
「それはできません。先ほど言った通り、エヴァは療養中です」
「卑しい血の流れる身の分際で……! おまえ、俺に逆らえる立場だとでも思っているのか!?」
所詮は侍女の子でしかないくせに、生意気な口をきくノエルの胸ぐらを掴む。
しかしノエルは怯む様子もなく口を開いた。
「療養が必要なエヴァを連れ出すことも、仕事をさせることも絶対にできません。それが気に入らないから、兄上の権力で僕を排除する……というのなら、どうぞご自由に」
真っ直ぐにこちらを見返すその瞳は、ジュリアンと同じ深い青。
否が応でも自分との血の繋がりを証明しているようで、本当に忌々しい。
弱いくせに、脅しても屈しないその態度も。ノエルの何もかもが気に食わない。
舌打ちをして、乱暴に手を離す。
ノエルを徹底的に潰してやりたいが、それは後回しだ。
とにかく今は、迫る卒業パーティーに備えなければならない。
「馬鹿と話すだけ時間の無駄だ。……ミア。エヴァの代わりに、君に卒業パーティーの準備を頼みたい」
「えっ……。今から、ですか? 無理ですわ」
「エヴァにできて、君にできないはずがない。君は優秀だろう?」
「でも私は、まだ一年生です。主催メンバーでもありません。パーティーの準備は、私の仕事ではありませんわ」
あまりにもあっさりと断られ、ジュリアンの口の端が引き攣った。
エヴァを捨て、より優秀な婚約者を得たはずなのに、ちっとも思い通りに動かない。
非難の目を向けるも、ミアは余裕の表情で生徒会室を見回した。
「そんなのは私じゃなくて、本来やるべき三年生の皆さんにやっていただいたらいいんですよ。鈍臭いお姉様がやっていたことなんて、簡単です。全員で協力すれば、きっとすぐに終わっちゃうんですから。あとは主催メンバーの皆さんにお任せしましょう?」
ミアの言葉に、主催メンバーたちの顔色が悪くなった気がした。
……が、ミアの言うことはもっともだ。エヴァ一人でやっていたことくらい、メンバーが数人いれば事足りる。
途端に肩の荷が下り、焦りも何もかも消え失せた。
「……それも、そうだな」
「でしょう? それじゃあジュリアン様、約束通り、今からお買い物に出かけましょうよ!」
「ああ。じゃあ、あとは君たちに任せた。当日までに、全て完璧に準備を終わらせておいてくれ」
命じる相手が、エヴァからその他大勢に変わっただけ。
何も問題はない。
──その時のジュリアンは、まだそう思っていた。
それから、卒業パーティー当日はあっという間に訪れた。
三人の兄たちの時と比べても遜色のない、王族に相応しい豪華なものになるはずだったのに──。
結論から言えば、パーティーは散々なものとなった。
会場を彩る花はまばらで、華やかさに欠けるうえ、統一感もない。ドリンクの種類は乏しく、料理も招待客の人数に対して圧倒的に足りていなかった。
雇った給仕や楽団員には指示が行き届いておらず、招待客を席へ案内する者も見当たらない。ようやく席につこうとすれば、席札が抜けていたり、隣り合うはずの家同士が離れていたりする。
念入りな準備もせず、大急ぎで取り繕ったパーティーであることは、誰の目にも明らかだった。
招待された保護者たちは呆れ、主催メンバーには冷ややかな視線が向けられる。
晴れの日を楽しみにしていた卒業生の中には、泣き出してしまう者さえいた。
その全ての責任を問われるのは、主催代表であるジュリアンだ。
国王と王妃の顔に笑みはなく、隣に並ぶミアも終始、顔を引き攣らせていた。
完璧な準備をしろと命じたにもかかわらず、惨事とも言えるパーティーの主催代表を務める羽目になったジュリアンの怒りは、頂点に達していた。
「おまえたち、どういうつもりだ!? よくもこの俺に恥をかかせてくれたな!!」
パーティー直後、後片付けに追われる会場に、ジュリアンの怒号が響き渡る。
「エヴァ一人で進められたことを、これだけの人数がいてなぜできない!? 役立たずどもめ……!!」
主催メンバーたちは皆、憔悴しきっていて誰も返事をしない。
それはジュリアンを恐れているからではなかった。
学園を卒業した今、彼らにはこの先、職場や社交の場で「あの酷い卒業パーティーの主催メンバー」として笑われる未来が待っている。
本来ならば、学生たちだけで見事にパーティーを取り仕切り、その出来を称賛されるはずだった。
それが、あの惨状である。
自分たちの無能さを証明したようなものだ。言い返す気力さえ残っていなかった。
それでも、一方的に罵られ続けた主催メンバーの一人が、とうとう耐えかねたように口を開いた。
「今回の件は、お互い様じゃないですか」
「……なんだと?」
「指示するだけなら楽なんですよ。それを実際にやるのがどれだけ大変か、わかってますか?」
「殿下は無茶な要求ばかりで、それをどう実現するのか考えてくださいませんでしたよね。相談しようとしても、『おまえたちで何とかしろ』の一点張りで……」
「大体、エヴァ様が何ヶ月もかけて準備してきたものを、この短期間で一からやり直すなんて無理に決まってます。花や料理の材料は早めに発注しないと望むものは揃いませんし、雇った人員にも事前に何度も進行を確認して、調整しなければならないんです。そうしなければ、当日つつがなく進行できるはずがありません」
一人が口火を切れば、次々と不満が溢れ出す。
そのどれもがジュリアンを非難し、無知を咎めるような口ぶりだった。
かっと頭に血が上る。
「貴様らっ……俺は王族だぞ! なんだ、その口のきき方は!!」
「そこまで」
ぴしゃりと制止する声が、会場内によく響いた。
決して大きな声ではない。それでも、有無を言わせぬ力があった。
声の主は、ジュリアンの兄である王太子だ。
「自覚があるなら、それ以上愚かな発言はよせ。同じ王族として恥ずかしい」
突然現れた王太子の姿に皆が驚き、緊張が走る。
そんな中で、自尊心を傷つけられたジュリアンの顔が赤く染まった。自分より立場の低い者には高圧的に出られが、兄はそうではない。
兄は言い返せずにいるジュリアンと会場内を見回し、呆れたように息をついた。
「卒業パーティーは酷いものだったそうだな。両陛下も失望しておられた。おまえへの処分は追って言い渡されるだろうが、まずは卒業生とその保護者全員に詫び状をしたためておけ」
「処分……!? それに、詫び状など……なぜ俺が! 悪いのはこいつらです! 指示を無視し、杜撰な準備でパーティーを台無しにしたのですから!」
「ほう。指示、とは具体的に? 誰がどの役割をこなし、おまえは何をどこまで把握していた? 問題が起こった際の報告や共有の手順は? 打ち合わせで示した改善案は? 述べてみよ」
兄に睨まれ、ジュリアンは言葉を詰まらせた。
答えられない──何も、知らないからだ。
そしてようやく、自分が与えられた役目をきちんと全うしていなかったという事実を突きつけられているのだと理解する。
──けれど。
「……し……指示が不十分であったことは認めます。しかし、こいつらがもっと優秀だったなら、パーティーに問題はなかったはずで……。俺が処分を受けるというのは、納得いきません!」
なおも食ってかかるジュリアンに、兄は酷く冷めた目を向けた。
「おまえは人の上に立つべきではないな。……あれを、こちらへ」
兄の言葉に応えるように、誰かが会場内へ足を踏み入れた。遠目にもはっきりとわかる、ジュリアンが大嫌いなピンク色の髪。
ジュリアンの目の前まで歩み出たノエルが、書類の束を顔の横に掲げて微笑んだ。
「生徒会の会計報告書です」
「……っ、なぜ、おまえが!」
「嫌だなぁ。兄上がこれを僕に任せたんですよ」
いちいち癪に障る男だ。
そんなことはわかっている。
ジュリアンが問いたいのは、なぜノエルがここにいるのか。そしてなぜ今、会計報告書を持ってきたのか、ということだ。
苛立つジュリアンをよそに、ノエルは呑気に首を傾げた。
「……あれ? もしかして、まだバレていないと思ってます? 兄上の──生徒会費の私的流用」
「な……っ!? 何を、貴様! デタラメを!」
「デタラメじゃないのは、この報告書をご覧いただければ一目瞭然です。たとえば、ほら……卒業パーティーの積立金なんて、ずいぶんと使い込まれてますね」
ノエルがぱらりと書類をめくって見せる。
その書面とジュリアンを、主催メンバーたちが驚愕の表情で見比べていた。
突き刺さる視線を感じながら、ジュリアンの背中に嫌な汗が流れ落ちる。
役員たちが提出した経費報告に、少しずつ紛れ込ませておいた私的な交際費。精査されずそのまままとめて提出されれば、決してバレることはないと思っていた。
ましてや、書類をまとめる仕事を押し付けてやったのは無能な弟。万一後になって齟齬が見つかったとしても、ノエルの計算や記帳ミスだと言い逃れできるはずだった。
それなのに──。
「準備や管理能力の不足だけではない。そもそも、私的流用によって卒業パーティーを予算不足に追い込んだとなれば、処分を免れることはできない。おまえがしたことは、紛れもなく横領だ」
「ま……待ってください、兄上! 何かの間違いです! こんな無能の作成した書類など、信用に値しません!」
「無能……か。既にこの書類は学園の監査部と王宮の会計監査院にも写しが提出され、内容を確認した上で、完璧な証拠であるとの結論が出ている」
「! そんな……」
「おまえは弟の能力を見誤っていたようだな。ノエルは優秀だ。卒業後は私の補佐を頼みたいと思っている。ゆくゆくは即位後も、王弟として支えてもらう予定だ」
ジュリアンは、今度こそ言葉を失った。
兄に褒められ、ノエルはいつものように人懐こい笑みを浮かべている。
その顔も、髪色も、馬鹿みたいだと──ずっと見下していたのに。
どうしてこんなことになってしまったのか、ジュリアンにはわからない。何もかもうまくいっていたはずだった。
──そう、エヴァがいたならば。
全てが狂い始めたのは、エヴァがいなくなってからだ。
エヴァなら、予算が足りなくとも、ジュリアンの指示ひとつでいくつもの対策を考えて出してきた。
示した期限に余裕を持って提出することはなかったが、遅れたことも一度もない。
エヴァは、ジュリアンが便利に使える女だった。ジュリアンを心から愛しているから、何をしたって離れていかないし、どんなことを言っても尽くし続ける。
エヴァは、ジュリアンのものだったのに。
──ノエルが、隠した。
ノエルを憎悪のこもった目で睨みつける。
しかし返ってきたのは嘲笑だった。
「……ねぇ。こんな大問題を起こして、兄上はこのまま伯爵家に婿入りできるのかな? もしできなければ、兄上の処遇はどうなるんだろうね? 王族としての身分を維持するのは、難しいだろうね」
穏やかな口ぶりでありながら、不穏な内容に背筋が冷える。
ノエルは笑みを深め、ジュリアンの顔を覗き込んできた。
「安心して。兄上がちゃーんと伯爵家に婿入りできるように、僕も根回しを手伝ってあげる」
上から目線の物言いに、激しい怒りが込み上げる。
しかしこうなった以上、ジュリアンが身を置く先はもう伯爵家しかない。
ぎり、と奥歯を噛み締め、屈辱に耐えた。
「でも、もしそうなったとしても、兄上は所詮伯爵家の婿。王族として籍を置き続ける僕より、ずっと身分が下になっちゃうね?」
愉快そうに続けたノエルの言葉に、強烈な怒りで目の奥が真っ赤に染まった。
馬鹿で無能な弟よりも、自分の方が下。
許せるはずがない。耐えられるはずがない。
途端に、新たに手に入れた婚約者、ミアの存在が色褪せて見えた。
エヴァと比べ、より優秀な女を得たと満足していたが……。
所詮は伯爵令嬢だ。エヴァと婚約した時から、わかりきっていた事実。
伯爵家の婿になること自体、不満だったはずなのに。
──どうして、いつから。
伯爵令嬢ごときで十分だと、勘違いしてしまっていたのか。
ふと、脳裏に記憶が蘇る。
ノエルは入学後、王族として生徒会に所属することになった。
自然と何度も顔を合わせるようになり、その頃、頻繁に口にしていたのが──。
『兄上の婚約者の妹……ミア嬢と僕、同じクラスなんです。姉とは違うタイプで、華やかな見目をしていますね』
『ミア嬢は明るくて話題も豊富で、しかも成績までいいんです。婚約者がまだいないので、高位貴族の令息たちの間でも、彼女は大人気なんですよ』
聞いてもいないのに、幾度となくノエルの口からミアを褒め称える言葉を聞いた。
だから、ノエルはミアに懸想しているのだと思った。
多くの貴族令息、そして弟が欲しがる令嬢──ミアを自分が奪ってやれば、どれほど気分がいいだろう……と。
──そう、きっかけはノエルだった。
「ありがとう、兄上。エヴァを手放してくれて。僕は絶対、エヴァを離したりしないよ」
「……っ、貴様!!」
嵌められたのだ。
初めから、ノエルの目的はエヴァだった。
思わず掴みかかろうとしたジュリアンの体を、兄の護衛が抑え込む。
「離せ! 俺は王族だ!!」
「何度も言わせるな、ジュリアン。これ以上の醜態を晒してくれるな」
兄が冷ややかな声で「連れて行け」と護衛に指示を出す。半ば引きずられるように連行されながら、ジュリアンは後ろを振り返った。
その先で、相変わらず憎たらしい笑みを浮かべた弟がこちらを見ている。
「この……っ、無能のくせに! 貴様が俺からエヴァを無理矢理遠ざけたりしなければ……! 俺から隠して勝ったつもりだろうが、あの女が愛しているのは、この俺だ!」
ノエルが策略を巡らせ、ジュリアンから横取りしたエヴァ。
しかし、エヴァの心はジュリアンにある。
それを思い知らせ、せめて悔しがる姿を見ないと気が済まない。
強い執着を滲ませ、勝ち誇るように細められていたノエルの瞳が、一瞬、大きく見開かれた。
顔から笑みが消え、代わりに、ぞくりとするほど鋭い目がジュリアンを射抜く。
「勘違いしないでください。エヴァは自分の意思で、あんたを捨てたんだよ」
◇
「ただいま、エヴァ!」
弾むような声とともに、ノエルが満面の笑みを見せた。
かつてノエルが孤独に暮らしていた離宮。
王宮の敷地の奥まった場所にあり、周囲を高い生垣と白い塀に囲まれている。
今はエヴァも身を寄せているその離宮は、使用人も最低限しかおらず、ノエルが帰って来るまでは、まるで世界から切り離されたような静けさに包まれていた。
家族と距離を置き、学園を休学。エヴァは本当に全てを放り出して、逃げてしまった。
信じられなかったけれど、ノエルは宣言通り、速やかに望みを叶えてくれたのだ。
罪悪感や、何もしないことへの焦燥感はある。
けれどそれ以上に、ただぼんやりと過ごす毎日は穏やかで、満ち足りている。
それはきっと、ノエルがいるから。
「おかえり、ノエル。今日は卒業パーティーの後片付けを手伝うために出かけていたんだったわよね? お疲れさま」
「うん。ちょっとだけ疲れたけど、エヴァの顔を見たら元気になったよ!」
にこにこと身を寄せて甘えるノエルの頭を、そっと撫でる。ピンク色の髪は柔らかくてふわふわだ。
ノエルは気持ちよさそうに目を閉じ、されるがままになっている。
こうして毎日、態度や言葉ではっきりと好意を伝えてくれるから、それだけでエヴァの心は満たされる。
他には何もいらないと思うほどに。
ノエルを待つだけの日々が永遠に続いたって構わない。
ノエルが愛してくれるなら──。
しかし、いつまでもそうしているわけにはいかない。
もともと、ジュリアンが卒業するまで休学してみてはどうか、とノエルが提案してくれたのだ。
彼が卒業した今、そろそろ復学を考えるべきだろう。
「……あのね、ノエル。学園のことなんだけど……私、学用品を伯爵家に置いてきてしまったの。一度取りに戻らないと」
「えっ。学園に通いたいの? もしかして、ここでの生活、退屈だった? ごめんね、気づかなくて」
「ううん、そうじゃない。離宮での生活に不満があるわけじゃないの。許されるなら、復学せずにずっとここにいたいくらい」
「なぁんだ」
安心した、と言いたげにノエルが笑う。
「じゃあ学園なんて、もう行かなきゃいいんだよ。休学じゃなくて、退学にしちゃおう」
「それはさすがに……貴族としてまずいでしょう?」
「なんで? エヴァは僕と結婚するんだから、学園なんて行かなくたって構わないよ。社交も何もしなくていい。ずっとここにいてくれたら、それだけでいいんだよ」
とびきり甘やかな、それでいて優しく縛りつけるような、そんな囁き。
戸惑って返事ができずにいると、ノエルは続けた。
「ねぇ、エヴァの願いは何でも叶えるから。エヴァのためなら何だってするよ。エヴァを傷つけた兄上は失脚させたし、エヴァを蔑ろにした伯爵家を没落させる準備もできてる。だから、ずっとここにいて。どこにも行かないで」
露わになった強い執着に驚き、思わず身を引こうとする。
その手を、ノエルに強く握られた。
「だって、エヴァだけだったんだよ。一人ぼっちの僕に笑いかけてくれたのは。優しくしてくれたのは。エヴァに好かれたくて、隣に立ちたくて、そのためだけに僕はずっとがんばってきたんだよ。エヴァを誰にも渡したくないし、本当は閉じ込めて逃がしたくない」
真っ直ぐにこちらを見つめるノエルの目は、どこか狂気的で──。
微かに震え出したエヴァの手を握る力が、少しだけ緩んだ。
「……僕が怖い? でも、離してあげられない。ごめんね。大好きだよ」
そう呟いたノエルの顔が、遠い昔の彼と重なって見えた。
いつだって何かに怯えるように、おどおどしていたあの少年。その少年が今は、エヴァに嫌われ、逃げられることを恐れている。
エヴァの体が、歓喜に震えた。
ようやく本当の願いが叶ったのだ。
かつて一人ぼっちだった、孤独な少年。だからこそ、とびきり優しくした。
エヴァだけが愛を与えれば、とびきり大きな愛を返してくれるかもしれない。
──そう思ったから。
あの幼い日に撒いた種は、ちゃんと芽吹いていたのだ。
きっとノエルなら、エヴァだけを愛してくれる。エヴァのどれだけ深い愛にも、応えてくれるだろう。
だから──。
エヴァだって、ノエルを逃がしはしない。
ノエルの手を慎重に握り返すと、彼は怯えるようにびくりと震えた。
「……ねぇ、ノエル。実家が没落なんてしたら、私、もう帰る場所がなくなってしまうわ」
覗き込んだノエルの顔は、少しだけ泣きそうになっている。
「だから責任をとって、私のこと、一生離さないでね」




