天女と月の光
## 秋
月見会の席で、伊東甲子太郎は銀色の盃に月を映していた。
「……今宵の月は、見事だな」
「ほんとうですねえ」
篠原泰之進が盃を手に、空を見上げる。
鈴木三樹三郎もしばらく月を眺めてから、ふっと笑った。
「こういう月を見ていると、かぐや姫の話を思い出しますな」
「おや、風流ですね」
伊東が顎に手を当てた。
「月から来た絶世の美女、か。では、篠原君。君がもし翁だったら、どんな娘を拾いたい?」
「そりゃあ、島原にいるような美女でしょう」
「身も蓋もないな」
鈴木が笑った。
「いやいや、かぐや姫というからには、ああいうところの美女より、もっとこう……」
篠原は盃を置き、月を眺めながら腕を組む。
「月明かりの中に立っているだけで、こちらが夢でも見ているような女でしょうな」
「ほう」
伊東が面白そうに目を細めた。
「すると、篠原君の中では、かぐや姫は島原の美女をさらに美しくしたようなものか」
「そういうことです」
「では、鈴木君は?」
「私も似たようなものですな」
鈴木はしみじみと頷いた。
「ただ、あまりに美しすぎると、こちらが何を話してよいのかわからなくなりそうですが」
「君は普段から、美女を前にすると口数が減るからな」
篠原がからかう。
「それは君も同じだろう」
「私は相手を選びません」
「それは自慢にならんぞ」
伊東が笑った。
「藤堂君は?」
少し離れたところで団子を頬張っていた藤堂平助に、伊東が声をかけた。
「俺?」
藤堂は団子を飲み込んでから、少し考え、首を横に振った。
「いや、俺は違うと思う」
「ほう」
「天女というか、人とはまるで違うんじゃないかなあ」
藤堂は言葉を探した。
「近くにいるのに、手が届かない感じというか」
「なるほど」
伊東は盃を傾けながら、月を見上げた。
「美しいだけではなく、どこか遠い存在というわけだな」
「そうそう。目の前にいるのに、いつか消えてしまいそうな感じ」
「藤堂君にしては、ずいぶん詩的なことを言う」
篠原が目を丸くした。
「俺だって、月見くらいするんだよ」
「月見をしながら団子を五本も食べる男が言うと、どうにも風情がないな」
「団子は別だろ」
藤堂が不満そうに言った。
「しかし、伊東先生」
篠原が真顔で伊東を見た。
「もし月から本当に女が降りてきたら、先生はどうします?」
「決まっているだろう」
伊東は月を見上げた。
「まず、月について、いろいろ話を聞く。どんな世界なのか」
「先生らしい」
「月の都にはどのような暮らしがあり、どのような学問があり、どのような人々が住んでいるのか。聞きたいことはいくらでもある」
「そして?」
鈴木が楽しそうに尋ねる。
「そして、聞きたいことがあまりに多く、月へ帰したくなくなるだろうな」
「ほら」
鈴木が笑った。
「先生も結局、翁ではありませんか」
「いや、違うだろう。私は月について学びたいだけだ」
「それを世間では、引き留めると言うんですよ」
篠原が盃を置いた。
「先生なら、かぐや姫に求婚する五人の貴公子より、よほどしつこく質問しそうですな」
「失礼な。私は相手の意思を尊重する」
「質問をしながら、帰る時間を忘れさせるのでは?」
「……それは、あり得るかもしれんな」
伊東が真面目な顔で答えたので、皆が一斉に笑った。
その時だった。
遠くから、妙に慌ただしい声が聞こえてきた。
「誰か医者を呼べ!」
「早く!」
「水を!」
笑い声が途切れ、全員が顔を見合わせる。
藤堂が眉をひそめた。
「なんだ、あれ」
篠原も耳を澄ます。
どうやら、近藤たちのいる方角らしい。
「……沖田君の部屋だな。何かあったのか」
鈴木の声が、少し低くなった。
数日前から、沖田総司は流行り風邪をこじらせ、寝込んでいた。
近藤勇が、珍しく声を荒らげている。
「医者はまだか!」
「もう呼びに行かせています!」
土方も険しい顔をしていた。
井上源三郎が、近藤をなだめるように声をかける。
「近藤さん、落ち着け。総司は大丈夫だ」
「でも……」
近藤の声が震えていた。
その様子を見て、篠原がぽつりと言った。
「大変そうだな」
「うーん。でも、近藤先生、総司のこととなると、いつもああですから」
藤堂が答えた。
「大抵はたいしたことなくて……総司はもう、身の置きどころがないくらい恥ずかしがってます」
「ああ」
篠原が頷いた。
「見た目だけなら、彼、すぐ月に帰る姫君みたいだからなあ」
「……近藤先生は、かぐや姫を月に返したくない翁だな」
藤堂が苦笑した。
「でも、総司は見た目よりずっと丈夫ですけどね」
そう言って、藤堂は立ち上がった。
「ちょっと様子を見てきます。何か手伝えるかもしれん」
伊東たちも後に続いた。
月見会の席には、冷めかけた酒と、手つかずの団子が残された。
障子を開ける。
「総司……大丈夫?」
返事はない。
布団の中で、沖田総司が苦しげに息をしていた。
いつもの血色のよい顔は、どこにもなかった。
顔色は悪く、頬も少しこけている。
布団からのぞく身体も、ひどく細く見えた。
藤堂の顔から、先ほどまでの余裕が消えた。
篠原も黙り込む。
伊東は、しばらく何も言えなかった。
つい先ほどまで、月を眺めながら、かぐや姫の話をしていた。
その話が、目の前の沖田を見た瞬間、急に現実の重みを帯びてしまった。
「……随分と、細くなったな」
伊東が小さく呟いた。
「何か、手伝うことはありますか?」
藤堂が声をかける。
井上が振り返った。
「総司は大丈夫ですよ、伊東さん。ちょっと風邪が長引いているけど、すぐ良くなりますから」
「そうか?」
「少し熱が上がったんで、今、医者を呼びに行かせたところです」
「……そうか」
井上はそれだけ答えると、再び沖田の様子を確かめた。
その手つきには、無駄がない。
何度もこうして、沖田の世話をしてきたのだろう。
一方、近藤は落ち着かない。
「源さん、総司は大丈夫か」
「大丈夫ですよ」
「でも、顔が真っ白だぞ」
「ああ、もう、うるさい。いつもいつも……」
井上はとうとう、近藤を振り返った。
「若先生! 総司は大丈夫ですから、もう、あっちへ行ってください!」
「源さん……」
土方が無言で近藤の腕をつかみ、部屋の外へ連れ出した。
伊東は、もう一度、沖田を見た。
白い顔。
閉じられた目。
布団の中の細い身体。
先ほどの軽口が、ひどく場違いなものに思えた。
「……なるほど」
小さく呟く。
「何がです?」
篠原が尋ねた。
「いや……」
伊東は、少し困ったように笑った。
「確かに、かぐや姫に見えなくもない」
篠原が伊東の袖を引いた。
「そんなことは……」
その先の言葉は、続かなかった。
藤堂が沖田の枕元に座った。
「……帰るなよ、総司」
ぽつりと呟く。
「月なんか行かなくていいからな」
「藤堂君」
篠原が小さく声をかけた。
「余計なことを言うな」
その時だった。
沖田が、かすかに身じろぎした。
「……ん」
「総司?」
藤堂が身を乗り出す。
沖田のまぶたが、ゆっくりと開いた。
「……平助?」
「ああ、俺だよ」
沖田は、ぼんやりと藤堂を見つめた。
それから、かすかに唇を動かした。
「……今日、伊東先生たち、月見会だったんだろう?」
その声は、あまりにも弱く、小さかった。
藤堂の顔が強張る。
「総司……」
「うん。でも、月なんか、見なくていいんだ」
沖田が、ほんの少し笑った。
「ちょっと風邪が長引いてるだけなんだ。大丈夫なのに、近藤先生、大騒ぎしちゃってさ」
そこで一度、息をつく。
「うるさかった? ごめんね」
藤堂は言葉に詰まった。
いつもの沖田なら、こんな時でも、もっと飄々としている。
近藤をからかい、土方に小言を言われ、しまいには自分から笑い出す。
なのに、今は違う。
弱々しい笑みの奥に、いつもの快活さはなかった。
「……そんなの、どうでもいいよ」
藤堂が、ぽつりと言った。
「ずっと、ここにいろよ」
沖田は答えなかった。
ただ、苦しそうに息を吐いた。
井上がそっと背中を支え、上体を少し起こしてやる。
「このくらいが、少し楽か?」
沖田が小さく頷く。
「そうか。じゃあ、もう少し喉を湿らせような」
井上は葛湯を用意し、沖田の様子を確かめながら、少しずつ口に含ませた。
沖田はおとなしく、その世話を受けている。
いつもなら、子ども扱いするなと文句のひとつも言いそうなものだが、今はそんな元気もないらしい。
藤堂は、黙ってその様子を見つめていた。
かぐや姫には、かぐや姫にしかわからぬ事情があり、帰りたくなくても、帰らねばならなかった。
こちらがどれほど引き留めようとも、どうにもならなかった。
伊東は、沖田から目を離せなかった。
障子の隙間から、月明かりが細く差し込んでいる。
白い光が、沖田の布団の端を照らしていた。
「さあ、総司。もう一眠りしろ」
井上が、いつものようにおっとりと笑う。
「大丈夫だ。ゆっくり休めば、良くなるからな」
沖田は安心したように目を閉じた。
井上は、総司の額の汗をそっと拭いてやっていた。
藤堂は、その枕元から動かなかった。
伊東も、もう月の話をする気にはなれなかった。
今宵の月は、見事だった。
けれど。
どうか、この若者だけは。
まだ、ここにいてくれますように。
先ほどまで、近藤勇の大騒ぎを笑っていた。
けれど今は、もう笑う気にはなれなかった。
伊東は、胸の内でそっと願った。
「ねえ、先生」
藤堂が、ぽつりと言った。
「なんか、僕……井上さんの姿を見て、天女ってこういう人のことを言うのかなあって、思っちゃったんです」
少し間を置いて、藤堂は続けた。
「全然、綺麗じゃないのに」
そう言った藤堂を、誰も笑わなかった。
なお、沖田はその後、少し長めに養生することになった。
だが、やがてすっかり元気になった。
かぐや姫とはまったく違い、
月を眺めるより先に、団子に手を伸ばす男である。




