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新選組やらかし日記

天女と月の光

作者: 湯好き御幸
掲載日:2026/10/15

## 秋


 月見会の席で、伊東甲子太郎は銀色の盃に月を映していた。


「……今宵の月は、見事だな」


「ほんとうですねえ」


 篠原泰之進が盃を手に、空を見上げる。


 鈴木三樹三郎もしばらく月を眺めてから、ふっと笑った。


「こういう月を見ていると、かぐや姫の話を思い出しますな」


「おや、風流ですね」


 伊東が顎に手を当てた。


「月から来た絶世の美女、か。では、篠原君。君がもし翁だったら、どんな娘を拾いたい?」


「そりゃあ、島原にいるような美女でしょう」


「身も蓋もないな」


 鈴木が笑った。


「いやいや、かぐや姫というからには、ああいうところの美女より、もっとこう……」


 篠原は盃を置き、月を眺めながら腕を組む。


「月明かりの中に立っているだけで、こちらが夢でも見ているような女でしょうな」


「ほう」


 伊東が面白そうに目を細めた。


「すると、篠原君の中では、かぐや姫は島原の美女をさらに美しくしたようなものか」


「そういうことです」


「では、鈴木君は?」


「私も似たようなものですな」


 鈴木はしみじみと頷いた。


「ただ、あまりに美しすぎると、こちらが何を話してよいのかわからなくなりそうですが」


「君は普段から、美女を前にすると口数が減るからな」


 篠原がからかう。


「それは君も同じだろう」


「私は相手を選びません」


「それは自慢にならんぞ」


 伊東が笑った。


「藤堂君は?」


 少し離れたところで団子を頬張っていた藤堂平助に、伊東が声をかけた。


「俺?」


 藤堂は団子を飲み込んでから、少し考え、首を横に振った。


「いや、俺は違うと思う」


「ほう」


「天女というか、人とはまるで違うんじゃないかなあ」


 藤堂は言葉を探した。


「近くにいるのに、手が届かない感じというか」


「なるほど」


 伊東は盃を傾けながら、月を見上げた。


「美しいだけではなく、どこか遠い存在というわけだな」


「そうそう。目の前にいるのに、いつか消えてしまいそうな感じ」


「藤堂君にしては、ずいぶん詩的なことを言う」


 篠原が目を丸くした。


「俺だって、月見くらいするんだよ」


「月見をしながら団子を五本も食べる男が言うと、どうにも風情がないな」


「団子は別だろ」


 藤堂が不満そうに言った。


「しかし、伊東先生」


 篠原が真顔で伊東を見た。


「もし月から本当に女が降りてきたら、先生はどうします?」


「決まっているだろう」


 伊東は月を見上げた。


「まず、月について、いろいろ話を聞く。どんな世界なのか」


「先生らしい」


「月の都にはどのような暮らしがあり、どのような学問があり、どのような人々が住んでいるのか。聞きたいことはいくらでもある」


「そして?」


 鈴木が楽しそうに尋ねる。


「そして、聞きたいことがあまりに多く、月へ帰したくなくなるだろうな」


「ほら」


 鈴木が笑った。


「先生も結局、翁ではありませんか」


「いや、違うだろう。私は月について学びたいだけだ」


「それを世間では、引き留めると言うんですよ」


 篠原が盃を置いた。


「先生なら、かぐや姫に求婚する五人の貴公子より、よほどしつこく質問しそうですな」


「失礼な。私は相手の意思を尊重する」


「質問をしながら、帰る時間を忘れさせるのでは?」


「……それは、あり得るかもしれんな」


 伊東が真面目な顔で答えたので、皆が一斉に笑った。


 その時だった。


 遠くから、妙に慌ただしい声が聞こえてきた。


「誰か医者を呼べ!」


「早く!」


「水を!」


 笑い声が途切れ、全員が顔を見合わせる。


 藤堂が眉をひそめた。


「なんだ、あれ」


 篠原も耳を澄ます。


 どうやら、近藤たちのいる方角らしい。


「……沖田君の部屋だな。何かあったのか」


 鈴木の声が、少し低くなった。


 数日前から、沖田総司は流行り風邪をこじらせ、寝込んでいた。


 近藤勇が、珍しく声を荒らげている。


「医者はまだか!」


「もう呼びに行かせています!」


 土方も険しい顔をしていた。


 井上源三郎が、近藤をなだめるように声をかける。


「近藤さん、落ち着け。総司は大丈夫だ」


「でも……」


 近藤の声が震えていた。


 その様子を見て、篠原がぽつりと言った。


「大変そうだな」


「うーん。でも、近藤先生、総司のこととなると、いつもああですから」


 藤堂が答えた。


「大抵はたいしたことなくて……総司はもう、身の置きどころがないくらい恥ずかしがってます」


「ああ」


 篠原が頷いた。


「見た目だけなら、彼、すぐ月に帰る姫君みたいだからなあ」


「……近藤先生は、かぐや姫を月に返したくない翁だな」


 藤堂が苦笑した。


「でも、総司は見た目よりずっと丈夫ですけどね」


 そう言って、藤堂は立ち上がった。


「ちょっと様子を見てきます。何か手伝えるかもしれん」


 伊東たちも後に続いた。


 月見会の席には、冷めかけた酒と、手つかずの団子が残された。


 障子を開ける。


「総司……大丈夫?」


 返事はない。


 布団の中で、沖田総司が苦しげに息をしていた。


 いつもの血色のよい顔は、どこにもなかった。


 顔色は悪く、頬も少しこけている。


 布団からのぞく身体も、ひどく細く見えた。


 藤堂の顔から、先ほどまでの余裕が消えた。


 篠原も黙り込む。


 伊東は、しばらく何も言えなかった。


 つい先ほどまで、月を眺めながら、かぐや姫の話をしていた。


 その話が、目の前の沖田を見た瞬間、急に現実の重みを帯びてしまった。


「……随分と、細くなったな」


 伊東が小さく呟いた。


「何か、手伝うことはありますか?」


 藤堂が声をかける。


 井上が振り返った。


「総司は大丈夫ですよ、伊東さん。ちょっと風邪が長引いているけど、すぐ良くなりますから」


「そうか?」


「少し熱が上がったんで、今、医者を呼びに行かせたところです」


「……そうか」


 井上はそれだけ答えると、再び沖田の様子を確かめた。


 その手つきには、無駄がない。


 何度もこうして、沖田の世話をしてきたのだろう。


 一方、近藤は落ち着かない。


「源さん、総司は大丈夫か」


「大丈夫ですよ」


「でも、顔が真っ白だぞ」


「ああ、もう、うるさい。いつもいつも……」


 井上はとうとう、近藤を振り返った。


「若先生! 総司は大丈夫ですから、もう、あっちへ行ってください!」


「源さん……」


 土方が無言で近藤の腕をつかみ、部屋の外へ連れ出した。


 伊東は、もう一度、沖田を見た。


 白い顔。


 閉じられた目。


 布団の中の細い身体。


 先ほどの軽口が、ひどく場違いなものに思えた。


「……なるほど」


 小さく呟く。


「何がです?」


 篠原が尋ねた。


「いや……」


 伊東は、少し困ったように笑った。


「確かに、かぐや姫に見えなくもない」


 篠原が伊東の袖を引いた。


「そんなことは……」


 その先の言葉は、続かなかった。


 藤堂が沖田の枕元に座った。


「……帰るなよ、総司」


 ぽつりと呟く。


「月なんか行かなくていいからな」


「藤堂君」


 篠原が小さく声をかけた。


「余計なことを言うな」


 その時だった。


 沖田が、かすかに身じろぎした。


「……ん」


「総司?」


 藤堂が身を乗り出す。


 沖田のまぶたが、ゆっくりと開いた。


「……平助?」


「ああ、俺だよ」


 沖田は、ぼんやりと藤堂を見つめた。


 それから、かすかに唇を動かした。


「……今日、伊東先生たち、月見会だったんだろう?」


 その声は、あまりにも弱く、小さかった。


 藤堂の顔が強張る。


「総司……」


「うん。でも、月なんか、見なくていいんだ」


 沖田が、ほんの少し笑った。


「ちょっと風邪が長引いてるだけなんだ。大丈夫なのに、近藤先生、大騒ぎしちゃってさ」


 そこで一度、息をつく。


「うるさかった? ごめんね」


 藤堂は言葉に詰まった。


 いつもの沖田なら、こんな時でも、もっと飄々としている。


 近藤をからかい、土方に小言を言われ、しまいには自分から笑い出す。


 なのに、今は違う。


 弱々しい笑みの奥に、いつもの快活さはなかった。


「……そんなの、どうでもいいよ」


 藤堂が、ぽつりと言った。


「ずっと、ここにいろよ」


 沖田は答えなかった。


 ただ、苦しそうに息を吐いた。


 井上がそっと背中を支え、上体を少し起こしてやる。


「このくらいが、少し楽か?」


 沖田が小さく頷く。


「そうか。じゃあ、もう少し喉を湿らせような」


 井上は葛湯を用意し、沖田の様子を確かめながら、少しずつ口に含ませた。


 沖田はおとなしく、その世話を受けている。


 いつもなら、子ども扱いするなと文句のひとつも言いそうなものだが、今はそんな元気もないらしい。


 藤堂は、黙ってその様子を見つめていた。


 かぐや姫には、かぐや姫にしかわからぬ事情があり、帰りたくなくても、帰らねばならなかった。


 こちらがどれほど引き留めようとも、どうにもならなかった。


 伊東は、沖田から目を離せなかった。


 障子の隙間から、月明かりが細く差し込んでいる。


 白い光が、沖田の布団の端を照らしていた。


「さあ、総司。もう一眠りしろ」


 井上が、いつものようにおっとりと笑う。


「大丈夫だ。ゆっくり休めば、良くなるからな」


 沖田は安心したように目を閉じた。


 井上は、総司の額の汗をそっと拭いてやっていた。


 藤堂は、その枕元から動かなかった。


 伊東も、もう月の話をする気にはなれなかった。


 今宵の月は、見事だった。


 けれど。


 どうか、この若者だけは。


 まだ、ここにいてくれますように。


 先ほどまで、近藤勇の大騒ぎを笑っていた。


 けれど今は、もう笑う気にはなれなかった。


 伊東は、胸の内でそっと願った。


「ねえ、先生」


 藤堂が、ぽつりと言った。


「なんか、僕……井上さんの姿を見て、天女ってこういう人のことを言うのかなあって、思っちゃったんです」


 少し間を置いて、藤堂は続けた。


「全然、綺麗じゃないのに」


 そう言った藤堂を、誰も笑わなかった。


なお、沖田はその後、少し長めに養生することになった。


だが、やがてすっかり元気になった。


かぐや姫とはまったく違い、

月を眺めるより先に、団子に手を伸ばす男である。



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