氷が歌う夜、渡し守は近道を売らない 〜きみの手だけは、間に合わせる〜
◆一 歌う夜
鏡の湖が凍りきる音を、ヨナスは足の裏で聞いていた。
湖の全面が氷になる冬のあいだだけ、ヨナスは渡し守になる。夏は舟を出し、冬は氷の上に道をつくる。北のティーボ海峡から吹き下ろす寒気がこの湖を凍らせ、対岸まで馬車で二日かかる道が、氷を踏めば半日になる。だがその半日は、氷の厚みを読み違えた者から順に、湖の底へ消えていく半日でもあった。
ヨナスは木槌を持って氷の上にしゃがみ、こつ、と一度だけ打った。返ってくる音に耳をあてる。乾いて澄んだ音がまっすぐ返れば、下の氷は厚い。どこかにこもって濁った響きが混じれば、そこは薄い。三代つづいた渡し守の家に生まれ、物心つく前から、祖父にこの音を叩き込まれてきた。氷の鳴る声で厚みと割れ筋を読む耳を、この土地の者は氷聴きと呼ぶ。
日が傾いて、湖面が薄い紅に染まりはじめていた。
その色を見て、ヨナスは眉を寄せた。今夜は紅の夜だ。二つの月のうち紅い月が満ちる晩は、魔素が濃くなると言われている。氷の下で何かが動くのか、それともただ寒さのせいなのか、確かめた者はいない。ただこの湖の氷は、紅の夜にかぎって、低く長く鳴く。祖父はそれを氷が歌うと呼んで、歌う夜は渡るな、と言い残した。
湖岸の桟橋のほうから、馬のいななきと車輪のきしみが近づいてきた。
そりを連ねた商隊だった。先頭のそりから、毛皮を着込んだ大柄な男が飛び降りる。商隊頭のダールだと、ヨナスはひと目で分かった。年に幾度もこの湖を渡る男で、氷の上での分別もある。だが、今日の顔は急いていた。
「渡し守。対岸まで、今すぐ渡してくれ」
「今夜はよせ」ヨナスは木槌を帯に差した。「紅の夜だ。氷が歌う」
「歌おうが唸ろうが、こっちは薬を積んでるんだ」ダールはそりのほろを平手で叩いた。「対岸の村で流行り病が出た。年寄りと子どもから、先に倒れてる。都で買えるだけの薬を買ってきた。一日遅れれば、それだけ、ひつぎが増える」
ヨナスは黙ってほろの内側の木箱を見た。薬。急ぎ。人の命。どれも正しい。正しいからこそ、断りにくい。
そのとき二台目のそりから、小さな影が降りた。
娘だった。年のころは十九か、それより下か。旅の外套の襟にあごをうずめ、凍えた頬を紅くして、それでも背筋だけはまっすぐ伸びていた。胸には布の包みを、両腕でかたく抱いている。その娘のまなざしがヨナスを捉えたとき、ヨナスは一瞬だけ、次の言葉を継ぐのを忘れた。
「お願いします」娘の声は寒さでかすれていた。「渡らせてください。今すぐ」
「……あんたは」
「ニナといいます。その薬を、都でわたしが仕入れました」娘は包みを抱く腕に力を込めた。「対岸の村の薬師は、わたしの祖母です。村でただ一人の薬師です。その祖母が、村でいちばん先に倒れました」
凍えた指が、包みの結び目を、しっかりと押さえていた。都から半日でも早く帰り着こうと、この娘はダールのそりに飛び乗ってきたのだろう。ヨナスの胸のうちで、薬という言葉が、急に重さを持った。ただの荷ではない。この娘の、たった一人の身内の命だった。
桟橋のたもとには、氷が渡れずに足止めを食った旅人たちが、湖岸の渡り鳥亭の軒下でたむろしていた。事の次第を聞きつけて、一人また一人と集まってくる。
「渡してやれよ、渡し守」革帯を巻いた太った男が声を張った。「病人が待ってるってんだろう。この明るさだ、風もない。渡し守が臆病でどうする」
どっと笑いが起きた。ヨナスは表情を変えなかった。臆病と笑われるのには慣れている。慣れていないのは、いちばん軽々しく笑う者ほど氷の下を知らないという、そのことにいちいち腹を立てずにいることのほうだった。
ヨナスは木槌を手に、桟橋のそばの氷を数歩あるいた。厚い場所を、こつ、と打つ。乾いて澄んだ音が、湖の上を転がっていった。それから斜めに数歩ずれて、同じように打つ。今度は、こもった濁った音が返ってきた。
「聞こえたか」ヨナスはダールを振り返った。「同じ湖の、たった数歩の違いだ。まっすぐの道は、この濁った音の上を通る。夜のあいだに冷えて締まれば、朝には澄んだ音に変わる。俺はそれを待てと言ってるだけだ」
太った男は、もう笑わなかった。
ダールが腰の革袋から木の札を取り出し、ヨナスへ突き出した。渡し賃の木札だった。「先に払う。倍でもいい。だから今すぐ――」
「渡し賃は、対岸で受け取る」ヨナスは札を押し返した。「生きて着いてから、はじめて渡し賃だ。それが、この湖の決まりだ」
言いながら、ヨナスの視線が、ふと桟橋の左手の暗がりへ流れた。十六年前、まだ何ひとつ知らなかった一人の渡し守が、氷を割った場所だった。今も、そこだけは夜の色が濃く見えた。
「渡し守さん」ニナが一歩、前へ出た。「危ないのは、分かります。でも祖母は、今夜が山かもしれないんです。一晩が、遅いんです。お願いします、わたしだけでも――」
「だめだ」
ヨナスの声は静かだったが、揺るがなかった。集まった旅人たちがざわめいた。薬師の孫娘がここまで言っているのに、という非難の色が、空気に混じる。ヨナスは、その視線を全身に浴びながら、それでも首を横に振った。この娘の頼みを聞くほうが、断るよりも、よほど楽だった。楽なほうへ流れれば、明日この娘は、祖母の死に目にではなく、自分のなきがらを村へ届けることになる。
ヨナスはニナのそばへ寄り、ほかの誰にも聞こえない低さで言った。
「あんたを、あんたの婆さんのところに、死人で届けたくない」
ニナが息をのんだ。何か言い返そうと、開きかけた唇が、言葉を失って閉じた。
ヨナスは顔を上げ、桟橋のたもと全体へ声を通した。
「渡すのは明日の夜明けだ。まっすぐは行かない。父の線で渡す」
「父の線?」ダールがいぶかしげに眉を寄せた。
「遠回りの、蛇行の道だ。まっすぐ行く倍は歩く。だが、生きて着く」
ヨナスは湖に背を向けた。その背中で、氷がひとつ、低く鳴いた。
◆二 父の線
渡り鳥亭・湖岸店の夜は、足止めの旅人で込み合っていた。
湖のほとりに一軒きりのこの宿は、氷が渡れない旅人の、たまり場になっている。女将が大鍋の魚汁を椀によそって回り、暖炉の火が濡れた外套から湯気を立てていた。ヨナスは隅の卓でダールと向かい合い、木の匙で湯気の立つ汁をすすった。
「悪く思わんでくれ」ダールが低く言った。「あんたを臆病と笑う気は、俺にはない。ただな、あの村には俺の古い商売相手が幾人もいる。去年の秋、みつろうをまけてくれた婆さんもいる。その顔が浮かぶと、どうにも足が急くんだ」
「あんたの急ぎは、悪くない」ヨナスは椀を置いた。「急ぎ方の話をしてるだけだ」
ダールは苦い顔でうなずき、それきり黙って汁を飲んだ。悪人ではない。むしろ善い人間だ。善い人間が善い理由で氷を急ぐからこそ、止めるのは骨が折れる。
「一度な」ダールがぽつりと言った。「若いころ、別の土地の渡しで、歌う夜に無理を通したことがある。相方が渡れと言い張って、俺も止めなかった。……相方は、帰ってこなかった。だから俺は、止める渡し守の気持ちも分からんではないんだ。分かっていて、それでも今日は急ぎたい。人ってのは、勝手なもんだな」
ヨナスは黙ってうなずいた。この男の急ぎには、他人の命ふたつ分の重さが乗っている。悪人の急ぎより、善人の急ぎのほうが、よほど止めにくかった。
女将が魚汁のお代わりを鍋からすくいに来て、ダールの肩を無遠慮に叩いた。
「あんたも運がいいよ。この湖で渡し守がヨナスの代のうちは、まだましさ。先代のエーリクの時なんか、三日でも四日でも平気で足止めさ。氷が嫌がってる、の一点張りでね」女将は笑った。「でも不思議とねえ。あの爺さんが渡した客は、一人も湖に落ちてないんだ。この子も、その血さ」
ヨナスは何も言わず、汁の椀に口をつけた。落とさない。その一事だけを、三代のあいだ守り続けてきた家だった。
ヨナスは椀を手に、宿の裏口から湖の見える桟橋へ出た。
紅い月が湖の氷を鈍く光らせている。ときおり氷が、遠くで長く尾を引いて鳴いた。歌だ、と胸のうちで祖父の声がした。あれを子守唄だと思うな。あれは、これから起こることの前触れだ。
背後で戸のきしむ音がして、ニナが出てきた。外套を肩にかけ、あいかわらず胸に薬の包みを抱いている。ヨナスの隣まで来て、同じように黒い湖を見た。
「眠れないのか」
「氷を見ていないと、落ち着かなくて」ニナは白い息を吐いた。「明日、ほんとうに渡れますか」
「渡す。ただし、俺の線で」
ニナはしばらく黙って湖を見ていた。それから、ためらいがちに口を開いた。
「渡し守さんは、なぜそんなに、まっすぐを嫌うんですか。近いのに」
ヨナスはすぐには答えなかった。この問いに答えたことは、これまで誰にもなかった。だがこの娘の、凍えてなお背筋を伸ばした横顔を見ていると、なぜか喉の奥のつかえがゆるんだ。
「俺が十二の冬だ」ヨナスは湖の一点を指さした。桟橋から左手、ほんの少し沖の暗がりだった。「親父が、あそこで氷を割った」
ニナが息をのむ気配がした。
「あの日も、村で病人が出ていた。親父は急いだ。まっすぐが速いと知っていて、まっすぐを選んだ。氷が鳴っていたのに、間に合わせようとして」ヨナスは静かに続けた。「音が、変わったんだ。低く歌っていた氷が、いちど、高く裂けるように鳴いた。次の瞬間、親父の姿が消えていた。空は、今夜みたいに紅かった」
ヨナスはそれ以上を言わなかった。言葉にできることは、そこまでだった。あとに残ったのは、割れた氷の縁と、紅い空の色と、二度と埋まらない穴だけだ。
「……だから、まっすぐは売らないんですね」ニナの声は震えていた。「近いほうを、売らない」
「近道は、まっすぐのことじゃない」ヨナスは言った。「生きて渡って、はじめて近道になる。渡りきれなかった道は、いちばん遠い道だ」
ニナは胸の包みを、ゆっくりと解いた。
布の内側から現れたのは、幾種類もの乾いた薬草と、小さな紙の袋がいくつもだった。どれも独特のかたちに結わえてある。ニナはそのひとつを指でなぞりながら、ぽつりと言った。
「祖母の口癖なんです。間に合う薬などない、間に合わせる手があるだけだ、って」ニナは薄く笑った。「わたし、小さいころに両親を病で亡くしました。祖母に育てられたんです。その祖母がいつも言っていました。薬はただの草だ。それを、間に合わせるかどうかは、運ぶ手しだいだって」
ヨナスは、その結び目をじっと見た。間に合わせる手。氷を叩いて音を聞き、生きた道を選ぶ自分の手のことを、言われた気がした。
二人のあいだに、間に合わなかった記憶が静かに並んでいた。氷にのまれた父。病にのまれた両親。どちらも、間に合わせられなかった手のことを、ずっと忘れられずにいる。
「明日は」ヨナスは言った。「あんたの後ろを歩かせない。俺のすぐ後ろを歩け。俺の足跡を、ひとつも外すな」
ニナは薬草を包みなおし、しっかりとうなずいた。
ヨナスは湖の氷にしゃがみ、ニナを手招きした。木槌でこつと打ち、耳をあてる。それからニナを見上げた。
「やってみろ。ここに、耳を」
ニナはためらいながら、外套の襟を押さえて氷に頬をつけた。ヨナスがもう一度、木槌を打つ。
「……聞こえます」ニナが目を見開いた。「低い、唸るみたいな音。湖が、生きているみたい」
「それが、渡っていい音だ」ヨナスは言った。「明日、この音が高くなったら、その場で止まれ。何があっても足を止めろ。高い音は、氷が泣いているんだ」
ニナは氷から頬を上げ、紅くなった頬を手のひらで押さえてうなずいた。その頬が寒さのためだけではないことに、ヨナスは気づかないふりをした。
ヨナスが渡し守の小屋へ戻ると、暖炉の前に祖父のエーリクが座っていた。
七十を越えた先代の渡し守は、近ごろ物忘れがひどい。昨日の飯を忘れ、ときにヨナスを死んだ息子の名で呼ぶ。だが暖炉の炎を見つめるその横顔は、氷のことになると別人のように澄んでいた。
「エーリク爺さん。明日、父の線で渡す」
「紅の夜か」祖父は炎から目を離さずに言った。「歌う夜は渡るな。歌が高くなったら、それは氷の悲鳴だ。……お前の親父は、悲鳴を聞いてから止まった。聞く前に止まれ」
息子の死のいきさつは忘れても、その教えだけは狂わない。ヨナスは祖父の骨ばった肩に、そっと毛布をかけた。
「今日は、誰か客が来たか」祖父がふいに訊いた。
昼間、商隊が着いて薬がどうと、ヨナスはもう三度は話していた。だが祖父の中では、その三度がきれいに溶けて消えているらしかった。
「来たよ、爺さん。明日、渡す」
「そうか」祖父はうなずき、また炎に目を戻した。「渡すなら、父の線でな。まっすぐは、あれをのんだ」
あれ、が誰を指すのか、祖父自身もう分からないのかもしれない。それでも、まっすぐを避けよという教えだけは、体の芯に残っている。昼のことは忘れても、氷の道だけは決して溶けない。ヨナスは暖炉に薪を足し、外套を着込んだ。
夜明け前、ヨナスが仕度をしに桟橋へ出ると、商隊のそりのひとつが空になっていた。
ダールの若い部下が一人、姿を消していた。
◆三 氷の悲鳴
「あの馬鹿が」ダールが青ざめて湖をにらんだ。「待ちきれずに、先に出やがった。まっすぐ、近いほうへ」
東の空がわずかに白みはじめていた。氷の上に、消えかけた足跡がひと筋、湖の中ほどへまっすぐ伸びている。ヨナスは舌打ちひとつして、そりに薬箱を積み直した。
「出る。ダール、あんたとそりは俺の真後ろだ。ニナ、その次を歩け。俺の足跡だけを踏め」
東の空の際が、鈍い金色ににじみはじめていた。湖はまだ夜の名残の紺色で、その上に薄い霜が白く光っている。ヨナスは一度、大きく息を吸った。冷えた空気が胸の奥まで刺さる。父が消えたのも、こんな夜明けだった。あのとき十二のヨナスは、桟橋で待つことしかできなかった。今日は、待つ側ではない。渡す側だ。誰ひとり落とさずに、向こう岸まで。
背後で、ニナが薬の包みを抱き直す、衣ずれの音がした。その小さな音が、ヨナスの背を押した。
ヨナスは先頭に立ち、木槌を握った。一歩進んでは膝をつき、氷を叩いて耳をあてる。澄んだ音。また一歩。こつ、と叩いて、澄んだ音。まっすぐなら十歩で済む場所を、右へ左へ大きく蛇行しながら、たっぷり五十歩かけて進む。父の線だ。父が死んだあとの十六年、ヨナスがこの湖の底を一冬ずつ叩いて描き直してきた、生きて渡るための一本の線だった。
ニナは言われたとおり、ヨナスの足跡を寸分も外さずについてきた。ときおり氷が低く鳴くたびに肩をこわばらせながら、それでも足だけは正確に、前のくぼみを踏んでいく。
一度、ヨナスは進みかけた足を止めた。前方の氷が、ほんのわずかに白っぽく見えた。木槌で打つと、澄んだ音のなかに、細い濁りがひと筋だけ混じっている。ヨナスは無言で右へ大きく折れ、白い氷を避けて弧を描いた。ダールが背後で息をのむ気配がした。まっすぐ行けば、いま、あそこを踏んでいた。
「……見えるのか、あんたには」ダールがかすれた声で言った。
「見えやしない。聞くんだ」ヨナスは木槌を握り直した。「目は、氷に騙される。耳は、騙されない」
湖の中ほどまで来たときだった。
氷の歌が、変わった。
低く尾を引いていた音の底に、細く高いきしみが混じった。ヨナスは足を止めた。全身の毛が逆立つ。この音を、ヨナスは十二の冬から一度も忘れたことがない。氷の悲鳴だ。
「伏せろ!」
叫ぶのと、前方で氷の割れる轟音が響くのとが同時だった。
まっすぐ先行していたダールの部下が、氷の裂け目に腰まで落ちていた。黒い水が噴き出し、割れ目が生き物のように四方へ走る。男が悲鳴をあげ、氷の縁にしがみつこうとして、その氷ごと砕けていく。
ニナがとっさに駆け出そうとした。ヨナスはその腕をつかんで、力任せに引き戻した。
「動くな!」
「でも、あの人が――」
「あんたが動けば、あんたの足跡がずれる。あんたの足跡は、この後ろ全員の線だ」ヨナスはニナの目をまっすぐ見て言った。「そこを、動くな。踏み固めておけ」
ニナの足が、その場に凍りついた。
ヨナスはそりの綱をつかみ、割れ目のほうへ体を低くした。近づくその場所は、十六年前に父が消えた暗がりと、ほとんど同じ一点だった。心の臓が、氷の悲鳴と同じ高さで鳴っている。ここへ腹ばいになれば、父と同じ死に方をするかもしれない。その恐れが、足の裏からはい上がってきた。
ヨナスは一拍だけ、氷に手のひらを押しあてた。
――親父。借りるぞ。
父の線に、父の湖に、手を置いて、ヨナスは腹ばいになった。割れた氷に体重を散らし、じりじりと綱を伸ばしていく。冷たい水に爪の先が触れる。男の腕へ、綱の輪を投げた。
「つかめ! 引くな、力を抜いて、体をまっすぐにしろ!」
男が震える手で綱をつかんだ。ヨナスは背後を振り返らずに叫んだ。
「ダール! 俺のかかとをつかめ! ニナ、ダールの帯を!」
三人が一本の線になった。ヨナスが綱を引き、ダールがヨナスを引き、ニナが後ろで踏ん張る。氷がきしみ、悲鳴の高さがひときわ増して――やがて、水を吸って重くなった男の体が、割れ目の縁を越えてずるりと氷の上へ滑り出た。
しばらく、誰も声を出せなかった。四人が氷の上に倒れ伏し、白い息だけが荒く上がっていた。
「……音が、変わっただろう」ヨナスは荒い息の下で言った。「あれが、氷の悲鳴だ。歌が高くなったら、もう遅い。歌っているうちに、渡りきるんだ」
助け出された若い部下は、唇を紫にして、何度も何度も頭を下げていた。ダールがその背を無言で抱き寄せた。ニナは踏み固めた足跡の上から動かぬまま、両手で口を覆って、ぼろぼろと涙をこぼしていた。
一行がふたたび父の線を歩きだしたとき、東の空はすっかり明けていた。氷の歌は、また低く、穏やかな唸りに戻っていた。
昼を待たずに、そりは対岸へ着いた。
薬は、間に合った。村の広場に運び込まれた木箱の前で、ニナは荷もそこそこに祖母の家へ駆けていく。ヨナスがあとから村へ入ると、粗末な寝台の上で、痩せた老婆が薄く目を開けていた。ニナが薬草をせんじて、その口もとへ椀を運んでいた。老いた薬師は、孫娘の淹れた薬を一口飲んで、深く息を吐いた。峠は、越したようだった。
「ニナかい」老婆がかすれた声で言った。しわだらけの手が、孫娘の手を探りあてて握る。「間に合ったのかい。……お前が、間に合わせたのかい」
「わたしじゃない」ニナは涙声で首を振った。「渡し守さんが、間に合わせてくれたの。まっすぐを売らない、あの人が」
老婆は薄く笑い、それきり安らかな寝息を立てはじめた。ヨナスは戸口からその様子を見届けて、そっと村へ戻った。渡し賃の木札は、まだ受け取っていなかった。
◆四 春の歌
その日の夕、村の広場でダールが深々と頭を下げた。
村じゅうの者が集まっていた。薬のおかげで、まだ倒れていない年寄りや子どもは、これで冬を越せる見込みが立った。ダールは村人の前でヨナスに向き直り、腰の革袋から渡し賃の木札を取り出した。
「受け取ってくれ。あんたがいなけりゃ、薬もあの馬鹿も、湖の底だった」
ヨナスは首を横に振り、木札を押し返した。
「受け取らない」
「なぜだ」
「あんたの急ぎは、正しかった」ヨナスは言った。「対岸の病人を思って急いだ。あれは間違ってない。間違ったのは急ぎ方だけだ。急ぎ方を直しただけの渡しに、賃はいらない」
広場のどこかで、聞き覚えのある声が小さく漏れた。桟橋のたもとで、渡し守が臆病でどうすると笑った革帯の男だった。あのあと足止めのまま夜明けの渡りを対岸から見ていたらしい。男はばつが悪そうに目を伏せ、それから黙って、かぶっていた帽子を脱いだ。まわりの旅人たちも、つられて一人ずつ帽子を取っていく。
ヨナスは何も言わなかった。ただ、小さくうなずいた。
助け出された若い部下が、人垣を分けて前へ出てきた。まだ顔色は青いままだった。男はヨナスの前に立つと、うまく言葉が出ないらしく、口を開いては閉じ、それを何度か繰り返した。
「……なんで」やっと声が出た。「なんで、俺なんかを助けた。俺は、あんたの言うことを聞かずに、勝手に先へ行った馬鹿だ。あのまま見捨てても、誰もあんたを責めなかった」
「氷の下に人がいたら、引き上げる」ヨナスは言った。「それだけだ。あんたが賢いか馬鹿かは、氷の知ったことじゃない」
男はくしゃりと顔を歪め、深く頭を下げた。ダールがその肩に手を置き、ヨナスに向かって、もう一度深く腰を折った。
人垣の後ろから、ニナが歩み出てきた。
祖母の枕もとから戻ってきた娘の手には、干した薬草の束が握られていた。その束は、あの薬包みとまったく同じ、独特のかたちに結わえてある。ニナはそれを、ヨナスの手のひらにそっと押しつけた。
「これは、お礼じゃありません」ニナはまっすぐにヨナスを見上げた。頬はもう寒さでなく、別の色に染まっていた。「また、渡してください。この村へ来る人を。まっすぐ売らないあなたの線で、生きて渡してください。……その約束の、印です」
ヨナスは結び目を見つめた。間に合わせる手の、結び目だった。
「湖が割れて、舟の季節になったら」ニナは早口に付け足した。「わたし、薬草を採りに湖へ行きます。祖母に教わった場所へ。……そのころ、あなたはまだ、あそこにいますか」
「いる」ヨナスは短く答えた。「渡し守は、逃げない」
ニナが、はじめて年相応の顔で笑った。
帰りの渡りのため、ヨナスが対岸の桟橋に立ったとき、湖のこちら側に人影がひとつ見えた。
祖父のエーリクだった。物忘れの進んだ老人が、供も連れず、たった一人で氷の上に立っている。ヨナスは思わず駆け寄ろうとして――足を止めた。
祖父は、迷いなく歩いてきていた。右へ左へ、大きく蛇行しながら。父の線を、一歩も違えずに。
昨日の飯を忘れ、孫を息子の名で呼ぶ老人の体が、生きて渡る道だけは、寸分たがえず覚えていた。渡し守の血が、頭ではなく足の裏に刻まれている証だった。
「爺さん」ヨナスは近づいて、その腕を支えた。「なんで一人で。危ないだろう」
「迎えに来た」エーリクは事もなげに言った。「お前の親父を、迎えに行けなかったからな。せめて孫くらいは、生きて渡ってくるのを、こっちの氷の上で待ってやろうと思ってな」
ヨナスは、言葉が出なかった。
二人はしばらく、紅くない普通の夕日の下で、氷の上に並んで立っていた。足の下で、氷が低く、穏やかに鳴いている。
「爺さん。この歌も、いつか止まるのか」
「止まるさ」エーリクは目を細めた。「春が来ればな、この氷はいちどきに割れる。ばりん、ばりんと、湖じゅうが割れて歌う。あれはな、悲鳴じゃない。よみがえりの歌だ」老人はヨナスの顔を見た。「氷の悲鳴を知っている耳はな、春の歌も、いちばん先に聞こえるんだ」
ヨナスは湖の遠くへ目をやった。
その耳の底に、まだ聞こえるはずのない春の音が、かすかに兆した気がした。氷が割れて舟が出る季節。薬草を採りに、あの娘が湖へ来る季節。ヨナスは手のひらの中の、間に合わせる手の結び目をそっと握りしめた。
春のいちばん先の音を、渡し守は、この氷の上で待っている。




