絵描きの君とのラフな関係。(3)
「ふふ、ふふふっ」と次第に聞こえてきたのは紗栄子の声で。
「あはははっ」
破裂したのは、まるで少女のような笑い声だった。
「いやぁ……、ごめんなさい? よろしいですよ? 秀治さんがそこまでおっしゃるなら、是非、この孫娘、可愛がってやってくださいな? いつまで経っても人に習った料理しか出来ないような娘ですが。覚えは悪くありませんからね?」
「えっと……、お婆ちゃん……?」
言葉を失ったままの秀治の代わりに声をかけたのは絵麻で、そんな絵麻に対し紗栄子はゆっくりと膝から体の向きを変えると微笑みを浮かべて言った。
「良かったではないですか、ここまで想ってくださる殿方はそうはおられませんよ?」
「え、でも……良いの?」
困惑も当然である。
結城家の女でアレ、将来は婿を取って結城家を継げというのが祖母の口癖のようなものであった。それを反故にするような決断を到底祖母が下すとは絵麻には思わず――、「まさか……!」
はっとしてそれまで黙り込んでいた穂果を絵麻は見つめたが、穂果は困ったように小首をかしげるばかりだった。
「ダメだよお婆ちゃん! 穂果は、」
「穂果も好きにすればよろしい。お相手が見つからないようであればお婆ちゃんが探して差し上げますけどね、こんなご時世です。政治家だっていつ小石に躓くやも知れません。心から想ってくださる方がいるのなら、その方と共に歩めば良いと、私は考えますよ?」
信じられなかった。
絵麻は呆然と祖母を、穂果を見つめ、最後に秀治を見つめてくしゃりと顔を歪めた。
「じゃあ、何で私は……」
「何でも何も、あなたが自分から家に戻ってきたんじゃありませんか。私が何度『本当に良かったのですか?』と聞いても『はい』と答えるばかりで。全く。秀治さんと何かあったのかと思いきやそういう事でも無さそうですし。……気を揉んで損しました」
「そんな……」
「……なんてね。嘘ですよ。穂果に頼まれたと言ったでしょう。秀治さんが絵麻を迎えに来て、絵麻も秀治さんを選ぶようであれば、認めて上げて欲しいと」
紗栄子は先程から何も言わず、じっと部屋の隅で静観し続けている次女を見つめ、肩の力を抜いた。
「それに絵麻。私は貴方が最初から、自分から進んで伴侶を選ぶというのであれば、引き留めなどしませんでしたよ? でなければ可愛い孫娘を、『幼い頃から見て来た』というだけの理由で、年頃の男の元に預けたりなどするものですか」
ピシャリと言い放たれ、絵麻は思わず秀治を見たが、秀治は困ったように眉を寄せるばかりだった。
「結城家の家を大事に思ってくれるのは嬉しい。……しかし、それで貴方が本当に大切な人と一緒になれないのであれば、家など残したところで何になりましょうよ」
そう語る紗栄子は絵麻の目に見ても普段の祖母と変わらず、淡々としていた。
「反対されても尚、それを選ぶというのであれば、家を出る覚悟で挑みなさい。それが出来ぬというのであれば、連れて帰ります。家とは、守るものであると同時に、守られるものでもあるのですから。……私の言っている事がわかりますね? 絵麻、穂果」
じっと二人を見つめる祖母の目は厳しかった。
しかし、それと同時に優しくもあった。
「何を大切に思うかで、道は選びなさい。私にとってそれは、家であったというだけのこと」
「おばあちゃん……」
絵麻はそっと紗栄子の手を握り、紗栄子はそれに笑みで答える。
「貴方にとって本当に大切なもの。手放したくないもの。胸を張って好きだと言えるもの。それがあるのでれば、気を使う必要はありません。後のことは老人に任せ、お好きになさいな」
「紗栄子さん……」
秀治は何か言いたそうだったが、それを紗栄子は首を横に振って遮り、腰を上げた。
「穂果? 私は先に戻りますが、あなたはどう致しますか?」
「付いていきます。あとは若いお二人に、という事で」
「では、秀治さん。絵麻?」
「「はいっ……!」」
腰を上げ、凛と見下ろす紗栄子に、秀治と絵麻は思わず背筋を伸ばし、見上げるばかりだった。
「恥じることのない生涯を、心がけてくださいね」
――はい。と祖母紗栄子を見送る絵麻の声は震え、秀治はぐっと頭を下げた。
紗栄子について穂果が障子の向こうへと消えていくとき、軽く手を振られ秀治は苦笑する他なかった。
どうやら、一杯食わされたようだと。
「……なんとかなったみたいだな」
呆れながらも、秀治は久しぶりに顔を合わせた絵麻に笑いかけ、絵麻はそんな秀治にムッと眉根を寄せた。
「何とかって何よ。作戦も何もない特攻じゃないっ。予定通りにお見合い中だったらどうするつもりだったわけ?」
「そんときゃお前をお姫様抱っこして逃避行だ。馬鹿馬鹿しい逃走劇でも繰り広げりゃ呆れられて向こうからお断りだっただろ」
言われて想像する絵麻であったが、あまりにもふざけた絵面に顔はより険しくなった。
「アホなの……?」
「アホだよ。アホじゃなきゃこんな真似できなかった」
秀治はそっと絵麻に近づき、少しだけ躊躇したものの、その体を抱き寄せた。
「奪い取るつもりで来たんだ。どうぞ貰ってくださいと言われたんなら、遠慮はいらないよな?」
耳元で囁かれ、耳まで赤くなる絵麻ではあるが、当然とばかりに唇を尖らせて見せた。
「私はモノじゃない」
「それもそうだな?」
絵麻らしいといえば絵麻らしい。
秀治は絵麻と改めて向かい合うと肩に手を置いたままに、見つめて言った。
「好きだ、絵麻。俺と一緒に居てほしい」
「……それってプロポーズ?」
「そう思ってくれて構わない」
見つめ合う二人の沈黙を、降り続く雪の静けさが埋めていく。
それもまもなく口付けに取って代わり、二人はしんしんと降り積もる雪の中を歩み始めた。真っ白なキャンバスの上に、新たな絵を描くように。
大天使エマニエルは、伊藤秀治の元へと再び舞い降りたのである。
*
「――なーんて、ちょっとクサいでしょうか?」
春である。
季節は巡り、見慣れた秀治と絵麻の部屋で穂果はノートパソコンから顔をあげ、微妙な顔をしている二人に小首を傾げた。
「え、何かおかしかったですか?」
穂果は灰被りの猫先生渾身の恋愛小説『恋の進捗どうですか?』の初稿の締めの文章を相談していたのだが、どうも二人の反応は芳しくない。
「まず、ネタに使ってもいいとは言ったけど、割とそのまま小説にされているのが恥ずかし過ぎるし、せめて登場人物の名前は変えて欲しい」と姉、絵麻。
「何で穂果ちゃん、部屋を出てった後の会話も知ってるの……?」とは秀治。
穂果は少しだけ考える素振りは見せたものの、答え自体はあっさりとしたモノだった。
「何でも何も、私もお婆様も隣の部屋で聞き耳立てていましたから」
「は?」「ひゃ?」
秀治は顔を青くし、絵麻は顔を赤くした。可愛い。
「お婆様も心配なさっていたんです。当然ではないですか」
当たり前です、と胸を張る穂果ではあるが、絵麻は言葉にならない悲鳴をあげているし、秀治は秀治で額を抑えて呻いていた。
「何にせよ、良かったじゃないですか。一応は認めてくださったんですから」
「まぁ、ね……」
事実、秀治と絵麻はある意味では勝利を勝ち取った。
結城紗栄子は二人の仲を認め、共に暮らすことを許した。
穂果との間に何らかのやり取りがあったことは秀治も察したが、そこに関して穂果は絶対に口を割ろうとはしなかったし、いざとなったら絵麻が紗栄子を説得すると言っているので今は忘れることにしている。
「本当にそれ、本になるの……?」
絵麻は『そんな企画潰れちゃえばいいのに』って気持ち半分で尋ねてみるが、穂果は自信満々で頷く。
「して見せます。二人の純愛を世界に知らしめる為に!」
「えー……?」とは絵麻。
「ぁー……」とは秀治である。
どこの世界に自分の実姉と義兄の馴れ初めを小説にして世に送り出そうとする妹がいるのか。
『ここにいるではないですか!』と穂果は言いそうなので絵麻も秀治も黙っておいた。
「当然、イラストはお姉様に!」
「いや、羞恥プレイがすぎる!」
どこの世界に以下略。
全くもってとんでもない妹である。
そう思う絵麻であったが、『自分のやりたいこと』に邁進し続ける妹の姿は微笑ましくもあり、誇らしかった。
「でもお姉ちゃん、ブランクでスケジュール空いてるんじゃないの?」
エマニエル先生の活動休止からおよそ一年。パソコンも液タブも手放してしまった絵麻である。
しかしそれも、秀治の部屋に再び引っ越して来てからすぐに、元通りとなった。
パソコンは嵐山桜が、液タブは躯乃柩が預かっていてくれたからである。
「当面はスケジュール埋まってま〜っす。残念でした〜」
「えぇー……? ほんと? シュウ兄?」
「本当だよ。最近は俺より忙しいぐらいだ」
「新婚ですのに!」
バッと身を乗り出した穂果の反応に絵麻はキョトンと目を丸くしたが、秀治はそっと視線を逸らしていた。
「…………」
穂果はそんな二人の反応に、察する。察してしまう。
二人はもう、『自分の知っている二人』ではないことを。
「……今夜は私も泊まってもよろしいでしょうか、お兄ちゃん?」
「え」
ただならぬ覚悟を感じ、秀治は頬をひきつらせたが殆ど本能的にその腕を掴むものがいた。
絵麻だ。
「秀治は私のだからダメだかんね!」
「まだ何も言っていません!」
「言わせないよ!?」
ぎゃーぎゃーぎゃーと騒ぎ始めた姉妹を横目に、『自由すぎる幼馴染の姿に』秀治はただ、呆れながらに微笑んでいた。
好きなものを好きだと言い、好きなことへ好きなだけ挑戦し続けられる。
その自由を少しでも長く、自分が守る事ができるように頑張ろうとあの日の誓いを胸に刻み直す。
「ねぇ、秀治!?」
何だよ。と秀治は喚く幼馴染の言葉に意識を戻し、掛けられる言葉に、ただ、絶句する他ないのであった。
「履いてない方が可愛いって言ってくれたもんね!?」
勝ち誇ったような幼馴染の笑顔にかつてと同じように、……けれど、その口元が緩んでしまうのは、もうどうしようもないことだった。
――伊藤秀治、二十六歳。
世界で一番可愛い幼馴染と、これから先も生きていくと決めた、春の昼の出来事である。
《了》




