絵描きの君とのラフな関係。(1)
灰被りの猫こと結城穂果のデビュー作『スカートの中の秘密を知った俺は生きては帰れない!?』は第五巻を以って完結となった。
決して人気低迷による打ち切りというわけではなく、作者本人のストーリー進行に合わせた結果であり、登場人物たちは概ねハッピーエンド。
作中で描かれていたテーマも綺麗に収まり、『十年に一度の傑作』と評される程度には重版も掛かり、完結と同時にアニメ化も発表される運びとなった。
完結後のインタビュー記事において灰被りの猫(先生)は次回作の構想はあるのかと問うたインタビュアーに軽やかに答えている。
「私は自由にさせて頂きましたから。近いうちに、また」
それ以降、灰被りの猫先生の新作の噂は流れてこない。SNSの更新も止まったままである。
様々な憶測が飛び交う中、ひっそりともう一つ、アカウントの更新が停止したものがあった。
大天使エマニエル先生。
結城恵麻の、SNSアカウントである。
結城恵麻と伊藤秀治の同棲にも似た同居生活は結局三年と半年で終わりを告げた。
穂果のデビュー作を完結まで伴走し、最後の半年はその仕事だけに打ち込んで、絵麻はプロイラストレーターとしての生涯に区切りをつけたのだ。
使用していたPCを手放し、液タブを処分し、間借りしていた部屋にあったものを少しずつ処分していって、何一つ、秀治が一人暮らしをする上で使うであろうもの以外を綺麗に片付けた上で、部屋を出ていった。
秀治は、絵麻を引き留めはしなかった。
別れ際、扉の向こう側へ消えかけた絵麻が一度だけ玄関の中にまで戻ってきて、お互いに一歩、手を伸ばせば届く距離にまで、意識の中では息の触れ合うところまで引き戻されはしたが、それで終わりだった。
絵麻と秀治は同居生活を終わらせることを決め、絵麻は結城家に戻った。
そうして半年、部屋の一つを持て余したままに秀治は仕事に没頭するように日々を過ごした。殆ど家には寝に帰るだけの生活を続け、半年。休日には読書や運動に精を出しはするものの、静まり返った部屋の中にいると息が詰まるような気がして出歩くようになった。
秀治にとって、絵麻のいない日常というのは思ったよりも穏やかなものであり、空気の抜けた風船のようであった。まるで手応えに欠けることの繰り返し、温度の感じない日常をただ必要なことに駆られて過ごしていく。
――思えば、秀治の視界には常に絵麻の姿があった。
小学校、中学校ぐらいまでは絵麻自身が秀治にベッタリだったこともあるが、高校に入ってからは自分から文芸サークルに身を置き、秀治から離れていった絵麻のことを、秀治は常に視界の端で捉え続けていた。
それを恋心と呼ぶか、下手な親心と解釈するかは人によるだろうが、秀治にとって絵麻は既に『あって当たり前の存在』であり、大学時代、『そろそろ絵麻にも絵麻の人生があるのだろう』と少し距離をとって失敗した経験から、一緒に暮らすようになってからは昔のような距離感で接することも増えていった。
そんな秀治にとっての、『絵麻のいなくなった日常』である。
三年半にわたる同居生活。
結局、二人の間柄は『家主』と『居候』のままであったし、本人たちにとっても『危なかった』と感じる局面は何度もあったのだが、それも互いの自制心と、その時々の外的要因によって有耶無耶にされて来た。
秀治と絵麻は、決して『幼馴染』と言う枠からははみ出すようなことはせず、暮らしを共にし、別れた。
秀治は秀治の人生を。
絵麻は絵麻の人生を、お互いに歩み始めた。
その選択を秀治は、
『ピンポーン』と鳴り響く、玄関のチャイム音。
慌てて玄関に向かった秀治は鍵を開け、扉を押して出迎えた先には、
「……そのような顔をなされるのであれば、最初から送り出しなどしなければよかったではありませんか」
コートを羽織った結城穂果が、立っていた。
「穂果、ちゃん……」
「お久しぶりです。秀治さん? 半年ぶりでしょうか、お元気でしたか?」
そそくさと玄関に秀治を押しやり、中に入ってくると穂果は部屋に上が理、リビングで足を止めると周囲を見渡して秀治を振り返る。
「他の女を連れ込んでいる様子がなくて何よりです」
「驚いたな。今日はどうしたんだ?」
絵麻がこの家から引き上げていってから、秀治と穂果は連絡を取り合ってはいなかった。
秀治が遠慮していた、必要に駆られなかったと言うのもあるが、穂果自身、姉への後ろめたさから秀治とは距離を取ることを選択していたのだ。
秀治が穂果にコンタクトを取れば、間違いなく絵麻の話題は避けて通れない。そうなった時、双方ともに傷つくことになると、知っていたから。
「お姉様が、お見合いをします」
穂果の言葉は直球だった。
見やれば、確かに穂果の服装はよそ行きと言うよりもフォーマルな、どちらかといえばホテルやレストランでの会食に挑むようなものではある。
「お相手は都議会議員の岡田誠司さん。三十六歳。結婚歴はありませんが、まぁ、表に出ていない情報などいくらでもあるでしょうね。ゆくゆくは国政にも打って出ようとしている二世です」
「名前ぐらいは聞いたことあるよ。もしかすると演説も耳にしたことあるかもね」
「でしょうね」
穂果は極めて冷静に言った。
「議員としては若手の頃から精力的に活躍されている方であり、オタク文化にも明るいようです。若年層の政治参加をSNSで呼びかけ、人気VTuberとのコラボ動画などで人気を集めてもいます」
「なら、絵麻も安心だ」
秀治は心から、絵麻がイラストの仕事を続けられることを祈っている。
たとえそれが『エマニエル先生』の名前でなくとも、夫の、何かしらの選挙活動だとか、広報ポスターのイラストだとか、そういう方向性であっても構わないと。
「構わないと、本気で思いますか」
穂果は滲む怒りを押し隠すことなく、秀治を見つめていた。
「それがお姉様の本当の幸せであると、シュウ兄は本気で?」
「理解のある旦那に婿に来てもらって、結城家は安泰。絵麻も趣味でイラストを続けられるならそれに越したことはないだろ」
うずく痛みはある。
しかし秀治はそれをグッと飲み込んだ。
「都議会議員と証券マン、勝負にならないよ」
「職に貴賎はありません!」
穂果の願いは秀治にも痛いほど理解できたが、それでも秀治は穂果の想いをただ、受け止めるだけに留まった。
「ライトノベル作家は人に誇れるような仕事ではないから、お婆様には内緒にして欲しい。お婆様に知られたくないから、絵麻にも秘密にして欲しい。君が言った言葉じゃないか」
職に貴賎はなくとも、そこに付随するイメージを気にする老人というものは少なからず存在する。
だからこそ穂果は絵麻に正体を隠そうとし、秀治に相談すらした。
計五冊。
最初の一冊、続いての二冊目までは隠し通せたようだが、三冊目で担当編集が異動になり、引き継ぎのミスで献本が自宅に届き、『お婆様』の目にも触れた。
祖母、結城紗栄子は隠そうとしたことを叱りこそすれ、穂果に作家活動をやめさせはしなかった。穂果からの連絡を受けた絵麻が、祖母に話を通したからだ。
「結城家は私が継ぎます」と。
その時、秀治は同じ場所にいた。
料理を教えて欲しいと言った絵麻とともに、ロールキャベツを作り終えたところだった。
「絵麻が決めたことだ。俺にはどうすることも出来ないよ」
目の前の、絵麻によく似た少女に秀治は淡々と応える。既に終わったことなのだと。
「だけど……!」
「穂果ちゃん」
秀治は勤めて、平然を装って言葉を置いた。
「絵麻が決めたことなんだ」
「シュウ兄……」
秀治は、大人だった。
これがまだ、学生の頃であれば、高校生や、社会に出る前の、大学生の頃であれば、ガムシャラに絵麻の元へと走っていたかもしれない。
しかし、社会に出て、世代を跨いだ付き合いを経て、我が儘ではどうにもならないことを、秀治は知ったし、知っていた。
家を捨てる、などと言うことを、絵麻が決して喜びをしないと言うことを。
「絵麻は君にも幸せになって欲しいと言った。君は作家としての地位を築いたし、二作目を期待する声だってある。その想いに応える気は無いのかい?」
絵麻が守りたかったのは家族の幸せであり、そこに穂果も含まれている。
「助けて欲しいことがあるなら、力は貸すよ。俺に出来ることであれば、長い付き合いだし、絵麻の妹だ。……だけどね、絵麻の決めたことなら、俺はそれを尊重したい。俺は、……それにほら、俺は一度、絵麻を引き留めた側だから」
大学卒業と同時に、実家に連れ戻されそうになった絵麻を、連れ戻されそうになり、それを受け入れようとしていた絵麻を、秀治は自らの意思と我が儘でこの街に引き留めた。
「結論は出てるんだよ」
「……シュウ兄は、どうなんですか。シュウ兄は、秀治さんは、全然納得してない! 納得してたら、そんな顔、するわけないじゃ無いですか!」
穂果は初めて、秀治の胸ぐらを両手で掴み、睨んだ。
祈るように。
縋るように。
「俺は……」
「こちらを」
そう言って穂果が差し出して来たのは見覚えのあるタブレットだった。
「絵麻の……」
「ロックは解除してあります」
促され、秀治はそれを開く。
絵麻の、イラストレーターとしての生活の中に共にあったタブレットを。
使い方は知っていた。
絵麻はそれをパソコンのペイントソフトとデータを同期させ、机以外の場所でもイラストを描けるようにしていて、秀治が家にいるときはいつも、秀治のそばで絵を描いていた。
絵麻が普段使用していたアプリをタッチすれば、そこには結城絵麻がこの数年間で描き続けてきた絵が表示される。
既にこの家からは失われていた、絵麻の軌跡が。
「それを秀治さんに渡して欲しいと、頼まれました」
思い出の品に。絵麻はもしかするとそう考えたのかも知れない。
実際、それらを見つめ秀治に思い返されたのはここで過ごした絵麻との日々だ。
パンツを履いていないように見える女子高生のイラストや、猫耳カチューシャのメイド。
秀治の知らないイラストもあったが、その中でも目を引いたのはラブリーエンジェルのエンドカードとして納品した絵で……。『胸が、痛いんだよっ……』
――微かに、秀治の耳に絵麻の囁きが聞こえたような気がした。
いつか夢で、布団に入ってきた絵麻を抱きしめ、唇を重ねた日のことを思い出した。
絵麻は泣いていた。
泣いている絵麻に笑って欲しくて、秀治は絵麻の望むことを与え続けた。
そして、今、秀治の手元には絵麻の『絵を描くためには必要な道具』が収まっていて、絵麻はそれを、自ら手放してしまった。
――否、手放させてしまった。
無理矢理にでも引き留めて、これだけは、続けるように伝えなきゃいけなかったのだと、秀治は胸を握りしめる。
「……穂果ちゃん、俺……、」
「下に車を待たせてあります」
不意に、秀治の視線が穂果から逸れ、外へと向くのを穂果は見逃さなかった。
「参りましょう。姉様を救えるのはっ……、シュウ兄しか、いないからっ……」
秀治は思う。
何を選べば正解だったのかと。
秀治はただ、絵麻に笑っていて欲しかった。絵麻が好きなことに夢中で取り組める、そんな環境を作ってやりたかった。絵麻から『好き』を取り上げようとする絵麻の祖母に怒りを覚え、絵麻に『好きなこと』をさせてやる為に、この場所を用意した。
好きな人に、笑っていて欲しい。
好きな人には、好きに生きてほしい。ただそれだけだ。
恋心から発した気持ちではあったとしても、秀治はそこに一切の見返りを求めなかったし、そう言う関係を望んだわけでもなかった。
秀治はただ、絵麻に笑っていて欲しかった。その為になら、絵麻の気持ちを察しながらにも、その気持ちから目を背け、送り出すことさえ厭わなかった。
しかし、と込み上げたのは後悔の念と、この部屋を出て行った時の絵麻の横顔だった。
果たして絵麻は、笑っていただろうか……?
「……行こう」
穂果の言葉に、秀治は頷き返した。
窓の外では、大粒の雪が降り始めていた。




