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絵描きの君とのラフな関係。「先生、進捗どうですか?」  作者: 葵依幸
【8】ネトラレトライアングル

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ネトラレトライアングル(2)


「…………」

「……大丈夫か、絵麻」

「……だいじょぶ、です……」


 秀治の腕の中。結果的に押し倒されるような形になってしまった絵麻は秀治を見上げながら高鳴る鼓動に唇を震わせていた。


 秀治は右手に持っているタブレットを壊さないように掲げたままで、左腕は絵麻の肩に回して体を守っていた。


 結局はソファの上に転がったわけなのだから、秀治は絵麻が倒れていくのを眺めているだけでも怪我はせず、むしろ秀治が余計な事をして二人して怪我をする恐れすらあった。


 ……とはいえ、それも秀治に言わせてみれば『体が動いたから仕方がなかった』のであって、結果論でしかない。


 もしかすると絵麻が怪我をしていたかも知れないのだ。手の届く距離にいて、それを黙って見過ごすことなど、秀治には出来ない。それだけの話だ。


 閑話休題。


 問題は現在、秀治は絵麻を押し倒しているという状況である。

 秀治は絵麻のことが本当に好きだし、あんなことやこんなことをしたいと当然に思う。そんな健全な男子。歴とした男である。


 それでも秀治が一線を超えていないのは誓いを立てているからであり、それを守ることで現状を認めて貰っているという自負もあった。



「気をつけろよな」


 故に、呆れて見せながら秀治は絵麻の胸にタブレットを置き、背もたれに手をついて体を起こした。


 起こそうとしたのだ。

 絵麻に、シャツを掴まれていて、それが出来なかっただけで。


「……なんだよ」


 無言のまま、絵麻は秀治を見上げていた。

 タブレットを胸に抱き、少し怯えたような目で幼馴染を引き留めていた。


「……本当に寝とってくれても良いんだよって言ったら、怒る……?」


 絵麻は言った。

 シラフであれば顔から火が出そうなセリフではあるが、自分の置かれている現状を再認識し、絵麻は少しだけ焦っていた。


 いつ連れ戻されるかも分からないこの状況で。

 秀治が繋ぎ止めてくれただけの自分が、『自分の意思で』ここに留まる方法として、果たしてそれは、『本当に間違っていると言えるのだろうか』。


 ……間違っているに決まっている。


 冷静になって考えてれみれば分かることである。


 たとえこの場で秀治が絵麻に手を出したところで、それを祖母は認めないし、『そんなことになったら』秀治は二度と結城家の敷居を跨がせては貰えないだろう。


 しかしそれは『結城絵麻』として生きていく場合だ。


 このままずっと、秀治と一緒に、『伊藤絵麻』として生きていく事を選ぶのであれば――。


 そんな考えがよぎった絵麻は、つい秀治を引き止めてしまった。

 引き留めてから、少しだけ後悔した。


「……俺はお前を誰かから奪うとか、そういうの、考えた事ないよ」


 絵麻を見下ろす秀治が、とても寂しそうな顔をしていたから。


 秀治がそのような顔をする所を絵麻はほとんど見たことがない。困った顔はいつも浮かべるが、本気で申し訳なさそうにしたのは絵麻を連れ戻しに来た祖母から絵麻を独断で守り切り、引き留めた日の夜以来だ。


「だから、そんなこと言わないで欲しい」


 秀治はそっと絵麻の手を解き、身を起こした。今度こそ絵麻の上から体を退け、台所に行って、冷蔵庫から麦茶を取り出すと二人分のコップを用意して、注ぐ。


「絵麻が描きたいなら止めないけど、俺はハッピーエンドの物語の方が好きだな」


 麦茶を飲み干すとカップを洗い、おやすみ、と言い残して秀治は部屋に引っ込んでいってしまった。


 絵麻は一人、ソファの上に残され、ダイニングテーブルに置かれた自分の分の麦茶に目をやる。


 少し、想像する。

 本当に、もし、自分が誰かの物になってしまったとき、秀治はそれでも『奪ってはくれないのだろうか』と。


 考えて、膝を抱えた。


 絵麻はタブレットで漫画の続きを捲り、『好きな人』と『婚約者』の間で揺れる主人公でありヒロインでもある女の子の想いに身を寄せ、苦笑してみせた。


 結城恵麻。二十四歳。

 未だ、その心の置き所に悩む夜である。



「なんて本を勧めてくれたんだ……穂果ちゃん……」


 その晩、部屋に引っ込んだタイミングでスマホが震えた秀治はその要請に応答した。

 着信相手として表示されるは『結城穂果』。絵麻の妹である。


「開口一番いきなりじゃないですか、秀治さん?」


 凛とした、絵麻とは違い『正統派』なお嬢様を地で行く穂果は軽やかに笑った。


「でも、電話に出て頂けたということは間違いは起きなかったのですね。残念です」


 コロコロと言葉を転がすようにして笑う穂果は言葉遣いだけ聞いていれば竜胆と思わせるような和製美人だ。


 身長も絵麻よりも少し高く、最近になっては穂果の方が姉の風格すら出てきていた。


「やっぱりそういう意図で勧めたんだな……」

「あら? わたくしは何も言っておりませんよ? 私はただ、『この本が面白いと話題ですので、ぜひ姉様も』と勧めただけですわ?」


 おほほほ、と芝居掛かった笑いは穂果の癖だ。


 結城家に生まれ、『令嬢然とした振る舞い』を仕込まれる中で、絵麻とは違う意味でそのしきたりに反抗し、『なら時代錯誤を体現して差し上げましょう』とばかりに古き良き家の女を演出しきっているのが『結城穂果』という女の子だった。


「あ、でも、隣の部屋で姉様が他の殿方に襲われているのを悔しがっている現在進行形という可能性もありますか。秀治さん、今はどのような状況で?」

「暴走気味の絵麻から逃げて来て一人になった所だよ」

「なるほど。姉様に『私を寝取って』と言われ、なんやかんやあったものの、一線は越えることが出来ず逃げてきたところ、ということですね」


 ぐ。


 秀治は思わず喉を鳴らした。


 一瞬の間もなく、微塵の動揺も感じさせることなく言い返したつもりだったのだが、絵麻と共に幼少期から秀治を見てきた稲穂だ。完全に秀治の動揺など見抜き切っていた。


「お婆様はああ言っておられますが、孫の顔でも見せれば懐柔できると思いますよ? そうでなくとも秀治さんは『それなりに』我が家では評価されております故」

「それなりじゃダメなんだよ。分かるだろ」

「健気ですわねぇ……? ま、そう言うところが素敵なのですけども」


 素敵、と言う言葉に若干引っかかるところがないわけではないが、秀治は話を進めることにした。

 声のトーンは落としているとはいえ、絵麻に話を聞かれる恐れもある。


「で、なんのようなんだ? 君が掛けてくるってことは要件があるんだろう?」

「私をなんだと思っておられるのですか? 寂しい夜、将来の義兄となられるであろうお兄様に電話をかけることになんの不都合が? それとも『その程度の覚悟も』お持ちでないと」


 ぎ、と今度は頬が引きずる思いの秀治である。


「冗談ですよ。……大学に入って、猫を被るのも若干疲れて来たんです。みなさんいい方ばかりなのですけども、なにぶん交友関係が広くて」

「猫被るのをやめたらいいだろ」

「それが出来たら苦労しません。それとも、秀治さんが私を貰ってくれますか?」


 沈黙。


「……冗談ですわ。秀治さんの姉様に対する気持ちは私が一番よく知っておりますもの。側室で我慢致します」

「我慢してないよね? 形としてはあまり変わってないよね、それ」


 冗談と言われたので秀治も話に乗るが、稲穂の言葉に『それほど』冗談は含まれていない。


「肩の力を抜いてお話しできる相手というのは良いですね。姉様が羨ましいです」

「稲穂ちゃん……」

「すみません。今のも冗談です。本題に入ります」


 まだ言い足りないことはあるようだったが、稲穂はこほんと咳払いを入れてから秀治に告げた。


「今度、ライトノベル作家としてデビューすることになりました。イラストレーターはエマニエル先生です」

「……は?」


 突然の話題性の変化に流石の秀治もついていけなくなった。


 しかし、構うことなく稲穂は続けた。


「来週末、編集部にご挨拶しに行くことになったのですが、どうやらエマニエル先生も同席したいと申し出があったらしくて……」


 待て待て待て、と思わず壁の向こう側に目をやる秀治だが、当然そこに絵麻の姿を見ることはない。


「助けて、シュウ兄……」


 子供の頃、一緒に遊んだ折、疲れて歩けなくなった時におんぶをせがんだ時のような声色で稲穂は秀治に告げた。


「姉様にオタクバレはしたくないのです……」


 伊藤秀治、二十四歳。

 順調にオタク街道を突っ走る姉・絵麻と、実は姉以上にオタク界隈にどっぷりな妹・稲穂に挟まれる夜の出来事であった。


《続く》


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