ACT.6
翌週の朝。
ホームルーム前の教室。ざわめく中で、彩花は静かに席に着いていた。黒いタイツの膝の上に手を置き、深呼吸をする。
――今日は何事もなく過ごしたい。
けれど、運命はいつも少しだけいたずらを仕掛けてくる。
後ろの席の女子が、スマホを片手にひそひそと話しているのが耳に入った。
「ねぇ昨日さ、彩花がベビーカー押してるの見たって人がいたんだよ」
「マジ? それガチ?」
血の気が引く。指先が震える。
だが――その瞬間、美咲が椅子をガタンと鳴らして立ち上がった。
「それデマだよ。彩花、その時間、私と一緒に勉強してたもん」
周囲が一斉に振り向く。美咲は平然と髪をかき上げ、涼しい顔をしていた。
「てかさ、人のこと勝手に噂して何が楽しいの? そーゆーの、だっさ」
空気が一瞬にして冷えた。
噂していた女子たちはバツの悪そうな顔をしてスマホを伏せる。
彩花は息を詰めたまま、美咲を見る。
「……ありがと」
小さな声で呟くと、美咲は肩をすくめて笑った。
「作戦その1、“即座に話を断ち切る”。成功だね」
チャイムが鳴り、授業が始まる。彩花はノートを開きながら、胸の中で小さくつぶやいた。
――この学校で、生きていく。娘のために。美咲と一緒に。
放課後。
空の色は橙から群青へ移り変わり、校門前の風が少し冷たくなっていた。彩花は鞄を抱え、駅とは逆の方向に足を向ける。娘を迎えに行く時間。
「ねぇ、彩花」
背後から軽やかな声。振り向くと、金髪ツインテールが夕陽を受けて輝いていた。美咲だ。
「偶然だね。あたしもこっち方面帰りなんだ」
そう言って、美咲は自然な顔で並んで歩き出す。
彩花の心臓が跳ねた。まさか保育園まで――?
「……ちょっと、寄るところがあるの」
「うん、別にいいじゃん。付き合うよ」
軽い調子で言う美咲に、断る隙はなかった。
商店街を抜け、小さな住宅街へ入る。道端に並ぶ花壇、夕食の匂い。彩花は歩くたびに手汗を感じていた。
やがて、見慣れた白い塀が見えてくる。保育園の看板。
「ここって……」
美咲が言いかけたとき、門の中から小さな声が響いた。
「ママー!」
彩花の娘が駆け寄ってくる。まだ幼い足取りで、それでも全力で母の胸に飛び込んだ。彩花は思わずしゃがみ、抱きしめる。
柔らかな頬、ミルクの匂い。時間が止まったようだった。
美咲は、その光景を見つめたまま言葉を失っていた。
しばらくして、小さく笑った。
「……かわいいじゃん。その子が、あの時の“秘密”ね」
彩花は顔を上げ、目尻を潤ませながら頷いた。
「うん……この子が、私の娘」
娘は美咲を見上げ、少し人見知りしながらも「こんにちは」と小さな声で言った。
美咲はしゃがみ込み、優しく手を振る。
「こんにちは。ママの友達だよ」
夕暮れの光が三人を包む。どこか暖かくて、少し切ない時間。
彩花の胸の奥に、「この子を守るために生きる」と改めて決意が宿った。




