ACT.17
彩花は、ゆっくりと歩いていた。
胸の奥で、何度も自分の言葉を繰り返していた。
(「好き」って、どう言えばいい? 「ありがとう」から入る? それとも――)
制服の袖口を握りしめる指に、汗がにじんでいた。
このまま、拓海を呼び出すつもりだった。
美咲が背中を押してくれた今日だからこそ。
――と、角を曲がった瞬間。
「……あ」
「……よ」
拓海と、ばったり鉢合わせた。
彼は手にスーパーの袋を提げ、向こうから歩いてきたところだった。
「わ……」
「えっと、」
言葉が重なり、気まずい空気がふっと流れる。
でも、次の瞬間、拓海が小さく笑った。
「お前、なんか……らしくない顔してたな」
「え?」
「呼び出そうとしてたろ? 俺のこと」
彩花の顔が一気に赤くなる。
「……なんで分かるのよ」
拓海は、ぽりぽりと頬を掻きながら答えた。
「なんとなく。……お前って、顔に出るんだよ。ほんとは隠すの、下手くそ」
彩花は、立ち止まって、少しだけ空を見上げた。
夏の夕暮れ。少し前に降った雨の匂いが残っていて、蝉の声が遠くでこだましていた。
「……だったら、もう隠さない」
震えたけれど、言葉は確かだった。
拓海が振り返る。
彩花は、一歩、彼の方へ踏み出す。
「私、拓海のこと――好きだよ」
目をそらさずに言った。
照れとか、恥とか、全部飲み込んで。
母としてでも、誰かの“生徒”としてでもなく。
ただ、“私”として。
拓海は、しばらく黙っていた。
けれど、そっとスーパーの袋を持ち直し、彩花にだけ聞こえる声で言った。
「……なんか、変な感じだな。俺も同じこと、言おうとしてた」
彩花は目を見開いて、それから――ふっと笑った。
涙が出そうだったけど、泣かなかった。
「……もう、タイミングとか関係なかったね」
「うん。たぶん、これが一番“うちら”らしい」
二人の距離は、もう踏み出さなくても、ちゃんと近づいていた。
夏の終わりの空の下で、ふたりの“恋”は、ゆっくりと形を取り始めた。
夜。
部屋の片隅で、娘の寝息が静かに響いていた。
淡いランプの灯りの下、彩花と拓海は小さく円を描くように並んで座っていた。
「……ねぇ」
彩花が小さな声で切り出す。
「私たち、付き合い始めたって……この子に、なんて言えばいいと思う?」
拓海は少しだけ眉を寄せて考える。
「どうだろ……正直に言うのが一番なんじゃね?」
「でも、まだ小さいよ。『付き合う』って言葉の意味、きっとちゃんとは分からない」
「だからって隠しても、すぐバレるだろ。子どもって、案外そういうの敏感だし」
彩花は小さく笑った。
「……そういうとこ、パパっぽいね」
拓海はむずがゆそうに頭を掻いた。
「いや、まだ“パパ”って呼ばれたことないからな」
しばらく沈黙が流れる。
娘の寝顔を見つめながら、二人はそれぞれの胸の内に問いかけていた。
(家族って、なんだろう)
(どうすれば、ちゃんと“守っていける”んだろう)
「……陽菜には、どうする?」
彩花がぽつりと口にした。
拓海の妹。まだ幼さの残る中学生で、純粋で、勘も鋭い。
「陽菜かぁ……あいつは絶対、こっちが言う前に気づいてるよ」
「だよね」
「たぶん、“お兄ちゃん、やっと素直になったんだ”とか言い出す」
二人は顔を見合わせて、くすっと笑った。
その笑いに、ほんの少し勇気が混ざった。
笑えるってことは、“向き合える”ってことだから。
彩花はふと、娘の小さな手を取ってみる。
その温もりは、彼女の選択を、決して否定しなかった。
過去も、恐れも、戸惑いも全部ここにあるけれど――
それ以上に、「これから」のために選びたいものがある。
「……じゃあ、明日。朝ごはんのときに、言ってみる」
「俺も一緒にいる。逃げねぇよ」
彩花は、ゆっくりと頷いた。
そして二人は、同じ布団に入って眠る娘の寝顔を見つめながら、
“家族としての、ほんとうのスタート”を受け止めていた。




