ACT.10
放課後。
夕方の光が廊下の窓を赤く染めていた。生徒たちの足音が次第に遠のき、校舎は静かになっていく。
職員室の前で、彩花と美咲は並んで立っていた。
「呼び出しって……怒られるのかな」
彩花が不安げに呟くと、美咲は笑って肩を軽く叩いた。
「大丈夫だって。あの先生、怒るより心配してくれるタイプでしょ」
ノックの音。
「入りなさい」
柔らかい声に導かれて中へ入ると、教師は机の前に座っていた。
今日も落ち着いたスーツ姿。少しふっくらしたお腹を手で支えながら、二人を見つめる。
「来てくれてありがとう。少しお話があります」
二人が椅子に腰かけると、教師は資料を広げながら言った。
「彩花さんの家庭の事情、そして学業のこと。学校としてもできる支援を考えたいの」
彩花は驚いて目を瞬いた。
「支援……ですか?」
教師は頷く。
「例えば、出席日数や提出期限に柔軟な対応をすること。
それから、子育て支援センターと連携して、あなたが無理をしないようにサポートする仕組みを作れるかもしれません」
美咲が目を輝かせた。
「え、それってすごいじゃん! 彩花が安心して学校に来られるってことだよ!」
教師は微笑みながら美咲を見る。
「そうね。あなたのように、近くで支えてくれる友達がいるのはとても大きなこと。
でも、友達の善意だけに頼るのも限界があるから、私たち大人も動きたいの」
彩花は胸の奥が熱くなった。
「……先生、そんなふうに考えてくれてたんですね」
「もちろんよ。あなたが“生徒であり母親でもある”という現実を、学校が理解することが第一歩だから」
教師は一枚の紙を差し出した。
「これが“特別支援申請”の案。難しい言葉が並んでいるけど、要するに“無理をしないで学べる環境を整える”ための制度です」
彩花は紙を受け取り、丁寧に目を通す。
横で美咲が小声で囁いた。
「……よかったね、彩花。これで少し楽になるじゃん」
教師は最後に、少し笑いながら言った。
「ねぇ、彩花さん。子どもを育てながら学ぶって、本当に強いことなのよ。
でも、“強くなきゃいけない”って思いすぎないで。人に頼るのも、大事な力だから」
彩花は涙ぐみながら頷いた。
「……はい」
窓の外では、沈みゆく夕陽が職員室の床を金色に染めていた。
三人の影がゆっくりと重なり、やがて夜の光の中に溶けていった。
翌週の放課後。
校舎の一角、事務室前の廊下には、外から射す春の光が細長い帯のように伸びていた。
彩花は書類を胸に抱え、少し緊張した面持ちで立っていた。
「……本当に、これでいいのかな」
「いいに決まってるでしょ」
美咲は笑って彩花の肩を叩く。
「制度ってのは、必要な人がちゃんと使うためにあるんだよ。彩花が頑張ってること、学校だってちゃんと分かってる」
彩花は小さく頷いた。
紙の束には「特別支援申請書」「家庭支援プログラム同意書」と書かれている。
まだ慣れない言葉が並んでいるけど、もう怖くはなかった。
扉をノックすると、事務室の奥から担当の職員が出てきた。
「こんにちは。彩花さんと……」
「美咲です。友達で、付き添いです」
職員は柔らかく微笑んだ。
「どうぞ中へ。担任の先生から伺ってます。とても前向きな決断ですね」
彩花は椅子に座り、書類を一枚ずつ机に並べた。ペンを取る手が少し震える。
横で美咲が覗き込み、小声で言った。
「名前のところ、間違えないようにね」
「うん……」
書き終えた瞬間、胸の奥で何かがほどけるように軽くなった。
ずっと一人で背負っていたものが、少しだけ社会と繋がった気がした。
職員は書類を受け取り、確認の印を押す。
「これで手続きは完了です。来週から、授業出席の扱いやサポートの調整を始めますね」
「……ありがとうございます」
彩花の声は震えていたが、確かな安堵が滲んでいた。
事務室を出たあと、美咲が階段の踊り場で立ち止まり、にやっと笑った。
「ね、言ったでしょ? 彩花はもう一歩踏み出せるんだよ」
「うん……そうかも」
二人は窓から差す光の中に立ち、遠くでチャイムが鳴るのを聞いていた。
彩花は心の中でそっとつぶやく。
――これからは、娘のためだけじゃなく、自分のためにも強くなろう。
美咲の手が軽く彩花の背中を押す。
「さ、帰ろっか。今日もあの子、待ってるよ」
「うん」
二人の足音が廊下に響く。夕陽が校舎の窓を金色に染め、
その光が、二人の未来を静かに照らしていた。




