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第29話 閉じ込めた言葉

 桟橋のコンクリートにはまだ潮がまだらに染みていたが、海風にはわずかな塩気と共に菜の花の匂いが走った。その朝、陽真は母と並んでフェリーのデッキに立っていた。向かう先は、本土の港町にある「海坂メンタルクリニック」。耳鼻科で器質的異常が発見できなかったあと、勧められた心療内科だ。


 甲板を掠める波しぶきは夜半の雨で濁り、灰色のうねりがフェリーの白い舷側を汚す。陽真は分厚いマフラーで口元を覆っていたが、頭の中はまだ晴れない。声を失ってから二週間、学校ではスマホで打つのが常態化。仲間の励ましにうなずくことしかできず、澪が見せる心配の目もまっすぐ受け止めることができない。兄の影が重すぎた。


 クリニックは港から歩いて五分、潮風を避けるように裏路地に建つ白い二階建て。待合室には陽光が広く差し込み観葉植物から水の匂いが微かに立ち上る。壁には海をモチーフにした抽象画がかけられ、柔らかな青と緑が互いを溶かし合っていた。陽真は問診票の「主訴」欄に〈声が出ない〉と書き、ペン先を浮かせたまま次の行をにらんだ。〈理由・思い当たるストレス〉。何度かペンを宙に泳がせてから書いて母へ渡した。


 診察室は海を望む窓が一面に取られ、潮騒が遠い楽器のように聞こえた。カウンセラーの金井夏生は三十代前半の女性で、紺のパンツスーツに白衣を重ね、眼鏡の奥には穏やかな黒目があった。カーペットへローソファが二脚向かい合い、その間に低い丸テーブル。卓上に置かれた砂時計が細かな白砂をゆっくり落としている。


「こんにちは、金井です。答えたいときは紙に書いてね。」


 陽真は軽くうなずき視線を落とした。母が「よろしくお願いします」と深く頭を下げ、診察室の外へ下がる。部屋に二人きりになると金井は砂時計をくるりと回した。


「話せるときには話し、話しづらいことは無理に言葉にしない。それで大丈夫。まずは、ここへ来てくれたことが一歩目だから。」


 陽真は膝の上で拳を握り、深呼吸を試みた。だが喉の奥は塞がったままで、空気は漏れるだけ。金井は頬杖をつかず、背もたれにもたれず、呼吸を合わせるようにゆっくり胸を上下させた。


「声が出なくなった時のこと覚えている?」


 陽真は目を伏せ、〈はい〉と書いた。


「声が詰まる感じ苦しかったね。」


 拳がわずかに震え、床に落ちる自分の影が揺れた。金井は卓上の紙と太軸の鉛筆を差し出す。


「ここには好きに描いていいよ。字でも絵でも……」


 陽真は鉛筆を握り、紙の端に〈兄〉と書いた。次の瞬間、胸が灼けるように痛み鉛筆を落としそうになる。金井は声を上げず、目線だけで「続けてもいいし、やめてもいい」と告げた。陽真は震える手で〈死〉と書き添えた。


「ご兄弟?」


 陽真は〈うん〉と書いた。


「悲しい出来事があったあと、陽真くんはどんなふうに毎日を過ごしてた?」


 陽真は胸を押さえ姿勢を前に折った。喉が勝手に息を吸い込み声を押し上げようとするのにやはり音にならない。代わりに涙が込み上げ視界が滲む。金井はティッシュを渡し、砂時計が半分を指すまで黙って待った。


「家族の前でも、友だちの前でも、お兄さんの話しにくかった?」


 陽真は強く頷き肩が跳ねた。


『話すと家族が泣く。友達は「かっこいい」と言う』


 走り書きする。書いた瞬間、自分の字が波打って滲んだ。


「陽真くんは、そのどちらも苦しかったんだね。」


 金井は言葉を区切り、視線を合わせて頷く。


「家族を泣かせたくない。でも、兄を英雄みたいに語る言葉も重い。」


 陽真は胸骨を押すように手を当て、深く呼吸した。金井の静かなリズムが、喉の奥に少しだけ隙間を作った気がした。


「もし、『兄を助けてほしかった』って言ったら、いけないと思う?」


 陽真の瞳が大きく揺れた。紙に鉛筆が走る。


『言えない。自分だけ怒ってるみたい。』


 金井は身体を少し前に傾けた。


「陽真くん、怒りは自然な感情だよ。お兄さんを失った悲しみと同時に、『なぜ助けたの、なぜ残されたの』という怒りもあるかもしれない。それを持っていても構わないんだよ。」


 陽真は唇を噛み、つづけざまに文字を重ねた。


『兄を嫌いなわけじゃない。でも、死に様を褒められると苦しい。』


 文字は歪み鉛筆の芯が折れた。替えの鉛筆を差し出し砂時計をもう一度回す。


「褒め言葉が陽真くんの胸を締めつけたんだね。それを今ここで吐き出せたこと、すごい一歩だよ。」


 陽真の肩が震え嗚咽の代わりに荒い呼気が漏れる。喉はまだ声を拒むが、胸の奥から何かが少し動いた気がした。


「もう一つ、大切な人のこともいい?問診票に書いてくれ人のこと。」


 陽真は顔を上げる。金井の視線は優しく揺れた。


「陽真くんのお友だちで、美術が好きな子。お兄さんを助けられた子と同じ名前の子だよね。」


 陽真は大きく瞬きをし〈澪〉と書いた。鉛筆の芯が震えで破片を飛ばす。


『助けられた子と同じ。覚えていないみたい。』


 一息で書き連ね、手首が止まった。金井はパッドを読み取り静かに息を吸った。


「澪くんを好きだと思う気持ちと、お兄さんの死に結びついて感じる罪悪感。その二つが陽真くんの中でぶつかって、声を閉じ込めてしまったかもしれないね。」


 陽真は首を垂れ拳で目を押さえた。涙が紙にぽたりぽたり落ち文字を滲ませる。


「感情は言葉にしないと身体のどこかを圧迫し続ける。声を失う代わりに、胸や喉が代わりに叫ぶ。陽真くん、ここはその叫びを安全に吐き出す場所だよ。」


 陽真はゆっくり息を吸い、はじめて声帯にわずかな振動を感じた。かすれた空気音が喉を震え、金属が擦れるような小さな声が漏れた。


「……っ、あ」


 それは言葉にならず消えたが、金井は握り拳にそっと手を重ねる。


「大丈夫。焦らないで。」


 陽真は涙でにじむ視界の中、紙を掴み直した。


『兄に怒ってもいい?』


 金井は強く頷く。


「いいんだよ。怒ったって、悲しんだって、愛してることは変わらない。」


 その瞬間、陽真の喉から押しつぶした叫びのような息が漏れた。まだ声にならない。けれど胸の奥で凝り固まっていた鉄塊が少し溶けた。


「兄ちゃんに……怒ってる……助けたいのに……。」


 かすれた、でも確かな言葉が喉の隙間から滲みでた。陽真は驚きと恐怖で肩を跳ねさせたが金井は手を離さず頷いた。


「言えてるよ。そのまま続けてみよう。」

「残された……俺たち……」


 声は砂を噛むようにひび割れ、すぐ呼気へ変わる。それでも陽真は口を開け息を絞り出した。


「澪……助かった……よかった、でも……。」


 喉が震え涙と一緒に言葉がかすれる。


「――兄ちゃん、いない……」


 金井は時計を見ず、砂時計の砂が落ち切るまで頷き続けた。


「その感情に名前をつけるとしたら?」


 陽真は息を吸い、声の代わりにパッドへ一字書いた。


『空』


 金井は静かに微笑み、砂時計を止めた。


「空っぽになるほど悲しい。……でもね、空は満ちることもできる。お兄さんへの怒りでも、澪くんへの優しさでも、陽真くんの声でも。ここから少しずつ空を満たしてみよう。」


 診察が終わり、母が待つロビーへ戻ると陽真はまだ喉の痛みと熱を抱えていたが、胸の真ん中に小さな空洞が生まれていた。鉄塊が溶け冷たい空気が流れ込む空洞。それは痛みと同時に新しい呼吸の幕開けのようにも感じられた。母は息子の目元を見て涙を堪え、金井と次回予約を話し合った。


「発声リハビリも併用します」


 金井は説明し、帰り際に陽真へ小さなメモカードを手渡した。そこには波打つ青のグラデーションが印刷され裏に手書きでこうあった。


『どんな感情も海。波が高くても、深くても。必ず岸に還ってくる。』


 誰かの偉人の言葉だろうか?


 外へ出ると、海坂の港には夕陽が差し水面が熔けた金を散らすように揺れていた。陽真はマフラーを巻き直し深く息を吸う。肺に入る空気はどこか淡く甘かった。潮と桜の先触れの匂いが混ざり、春が遠くないことを告げている。フェリーのデッキに立ったとき、陽真は澪へ一行だけメッセージを送った。


『少し声が出たよ。また話す。』


 送信ボタンを押すと沈む太陽が船の航路を真紅に染めた。潮風はまだ冷たいが胸の中には小さな火種が灯り続けている。声にならない日々は終わらない。言葉を取り戻す旅はここから始まる。金井のメモカードを握りながら、陽真は遠く灯台の光が周回するのを見つめ兄の影に「待ってろよ」と小さく唇を動かした。梢のようなかすれ声が、風に溶けて海へ流れた。

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