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第26話 解いて、結んで

 学年末テストがすべて終わった翌週の月曜日、薄雲を透かした朝日が教室の窓を淡く照らしていた。ピンと張った冬の空気の中、担当教科の先生は答案用紙を束のまま抱え重そうに教卓へ置いた。紙の角が机を打つ低い音が、まだ半分眠気の残るクラス全体を一瞬で静める。黒板には〈返却日〉と白チョークで書かれ、隣に朱色のラインで“順位掲示は水曜日”と強く下線が引かれている。


「名前を呼ばれたら大きな声で返事をしてくれ。」


 読み上げるたび答案が前から後ろへ行き交い、ページを捲る紙鳴りが波のように広がる。澪は自分の名前が呼ばれると回ってきた答案用紙を胸に置いた。


 91点。


 赤い数字が右上に教師の細かなコメントが余白に添えられている。陽真の答案が澪の机へ流れて来た時、彼はペンの尻で頬を掻きながら胸を張った。


「82!前より5点アップ」


 澪は親指を立てる。


「どうせ、古典でまた上がり下がりだろ。」


 その古典の答案は2時間目に配られ陽真の点は予想どおり大幅ダウンの66。だが助動詞パートはほぼ満点で、朱字の講評に「暗記が良くできています」と皮肉な称賛を受けていた。陽真は笑うより先に澪へサムズアップを送り澪は肩を震わせて笑いを飲み込んだ。


 昼休み、雪混じりの北風を避けて二人は美術室に集合した。凍える廊下を抜け、絵具の甘い匂いとストーブの芯が弾くチリリという音に迎えられると思わず肩の力が抜ける。澪は机の上に答案を広げ聞き忘れていた赤ペンの記号を指差しながら陽真へ促す。


『ここ説明して』


 陽真は「比較級のところか」と頷き、テキストを開く。高速で喋る陽真の口を追いながら、澪はふいに横顔のラインに目を奪われた。冬休みに何度も見た照れ笑いとは違う真剣な眼差し。答案用紙を挟む陽真の指先が、ほんの僅かに前のめりに震える。胸の奥の音叉が微かに鳴った。


 掃除当番を終えると空はすでに灰色で、校庭を吹く風は朝より一段と鋭さを増していた。昇降口で靴を履き替えながら会話している。


「弟が風邪ひいてるって。弟さ風邪ひくと重症化しやすくていつもばあちゃんちとかに隔離させられるんだよな……何故か俺がね?」


 なんて、ボケてる陽真を無視して澪はスマホに何かを打つ。


『今夜、家空いてるよ』


 母は町営ホールのコーラス練習、父は漁協の会合で遅い。


「じゃ、泊まっちゃっていい?テスト直しも一気にやろうぜ。」


 澪は頬を染めて頷く。コンビニでおにぎりとホットカフェラテを買い、坂道を上る頃には雪が細かな霰に変わっていた。暗い玄関前で鍵を探す指がかじかんで上手く回らない。陽真が手を覆い、「俺の手がヒーター」と冗談を言って鍵を回す。室内に入りストーブを点けると灯油の青い炎がひと息で膨らみ金属の外筒がカンと鳴った。


 澪の部屋には試験勉強用の参考書が積まれ、机の脇にはまだ乾かぬ油彩が二枚立て掛けられていた。


「この波のやつ文化祭のより色深くなってない?」


 澪は耳の後ろを掻き、『描き直した』と手でサインする。机を二人で挟み答案直しを始める。ときおり吹く風が戸を鳴らし、ストーブの炎が揺れた。古典単語の語源を論じる陽真の声が低く部屋に響くと澪の胸は暖房より高い温度を帯びる。答案に向かうふりをして澪はときどき陽真の横顔を目で追う。


 額にかかる髪、ペンを咥えて考え込む癖、ラインマーカーを握る指先の節。息を吸うたび胸の音が強くなり試験の点数や順位予想の話題が遠く霞む。七時を過ぎると澪母からこうメッセージが届いた。


『鍋の残り温めて食べてね』


 二人はキッチンへ降り、冷蔵庫から鰤しゃぶの残りと切り昆布を取り出す。陽真が鍋に出汁を足し澪が湯気を浴びながら野菜を切る。台所は狭く二人並ぶと肩が当たるほど。キャベツを刻む澪の手を陽真が上からそっと包み、「そこ皮ついてる」と指摘する。澪の頬が熱くなり包丁がキャベツの芯で止まる。


「火通れば食える」


 陽真は肩を揺らし澪は俯いて微笑む。鍋が煮えた頃には家全体が暖まり、窓に積もる雪が溶けて天井へ水音を跳ね返した。卓を囲んで鰤の切り身を薄くしゃぶしゃぶすると脂が湯面に輪を描く。ポン酢に薬味の柚子皮を落とし澪が一口運ぶと陽真は「うめーか?」と覗き込む。


『陽真も』


 陽真は箸で鰤をつかみ、ほんのり桜色になった身を頬張り満面の笑みをつくった。夕食後、炬燵で答案を広げると外は強い吹雪に変る。電線に雪が張りつき、時折空気が唸る。ストーブの灯油はゆっくりと減り静かな火花を吐く。熱気に緩んだ瞼をこすりながら陽真が「あー明日もテスト直しか」と伸びをすると袂が澪の手に触れた。


『今日はありがとう。遅いから布団準備する』

「じゃあ俺、風呂借りてくる!」


 陽真は立ち上がり、タオルと替えのジャージを抱えて廊下へ出た。布団を敷く間、澪の胸は止まない鼓動で揺れる。


 湯から上がった陽真は髪をタオルで拭きながら戻ってきた。澪は湯たんぽを二つ用意し布団に忍ばせる。吹雪の音が壁を叩き電灯がふっと瞬く。


「停電しなきゃいいけど。」

『大丈夫』


 二人で布団に入り、それぞれの湯たんぽで足を温める。天井の木目が幽かな灯りで揺れ、吹雪の遠吠えが島全体を包む。静寂の中、陽真が澪を呼んだ。


「俺さ。兄貴のこと今も納得できてない。でも澪が生きてて、今日みたいに笑ってくれるとさ……ちょっと救われるんだ。」


 澪の心臓が深い海で跳ねる。陽真の兄の死のこと、それが何かは知らない。でも陽真が抱える痛みを少しでも和らげられているのならそれだけでいい。澪は手を伸ばし両手で陽真の掌を包む。湯たんぽの熱と指先の震えが交じり布団の中に閉じ込められる。


『ありがとう』


 声にはならない。けれど唇の動きと指先がその二文字を何度も繰り返す。陽真は目を細め澪の指をそっと握り返した。吹雪が戸を叩くたび、布団の中で二人の掌が確かさを増し、外の凍える夜に対して小さな炎のように灯り続けた。その熱は答案の点数よりずっと鮮やかで、雪で閉ざされた窓の向こうに春の気配をかすかに感じさせるほど、静かで確かな温度を持って。


 布団の中で掌を重ねてから、どれほど時間が経ったのか分からなかった。陽真は枕元で目を開けたまま、ずっと思考の底をさらっていた。掌の中にある澪の指先は、ときおりかすかに動くだけで眠りに落ちているのか起きているのか判然としない。布団が触れ合うところがひどく熱いのに、背中は夜気の冷えでひやりとして温度差がどうにも落ち着かなかった。


 兄の死と澪の名を結ぶ糸を知ってしまったあと、澪に対して抱く感情は色を増すどころか陰影を深めて濃く沈んでいった。


 だからこそ確かめたかった。


 もし彼が覚えていないのなら、それはそれでいい。けれど、もし覚えていて、しかもそれが声を奪うほどの傷になっているのなら自分はどうしたらいいのか。胸に絡みつく海藻のような不安が陽真の呼吸をどこまでも浅くする。


「澪……起きてる?」


 囁くと、澪の睫毛が震え薄く開いた瞳が炬燵の灯りを反射。澪は小さく「ん」と声にならない返事をし頭をわずかに持ち上げた。まだ眠りの境界線にいるらしく、目の焦点は陽真の肩のあたりをぼんやり追っている。陽真は躊躇った。けれど肩越しに吹雪が去り静まり返った夜を見て今しかないと決める。


「澪さ、前に言ってたよな。小中学生のときの記憶あんまり残ってないって。……ほんとに何も覚えてない?」


 澪の瞳から一気に眠気が消えた。毛布を握る指が強張り陽真の掌を無意識に押し返す。


「その、もし辛かったらいい。無理に思い出さなくていいんだけど……。」


 陽真の言葉が途切れた瞬間、澪は胸を押さえた。ひゅっと空気を吸い込んだかと思うと次の呼吸が出てこない。眼の奥が鋭い痛みに射抜かれたように歪み眉間を抑えて身体を丸める。


「澪?」


 答えはない。澪は喉を鳴らすこともできず、代わりに急速に浅い呼吸を繰り返し始めた。口が開き、鎖骨が浮き、肺が空気を求めて泡立つように震える。頭を抱えた指先の節が白い。陽真は布団を跳ね上げ澪の肩を掴んで揺らした。


「澪、大丈夫か?息して、ゆっくり――吸って……吐いて……」


 澪の呼吸は早鐘のように乱れ額が汗ばんで髪が張りつく。目には焦点がなく黒目が泳いでいる。陽真の胸を鋭い棘が貫いた。――自分のせいだ。無理に話題を持ち出したせいで澪を過呼吸に追い込んだ。水の入ったペットボトルを掴み蓋を開けて澪の唇に当てる。まともに飲めず水は顎を伝って首筋へ滴る。それでも陽真は「少しでいい」と囁き、背を支えて数口含ませた。


「澪、ここ見て。俺の手を数えるんだ。」


 陽真は指を一本ずつ立て、澪の焦点が合わない目線を指に合わせるよう促す。


「一本。……二本。……三本。」


 澪は必死で指先を追った。ぎゅっと閉じた喉から細い息が漏れ、肩の震えがほんの少し収まる。陽真は澪の背中をさすりながら心臓が潰れるような痛みに耐えた。


 兄の死をかっこいいと思えなかった自分。

 それでも助けられた命に恋をした自分。

 そして今、澪を苦しめているのも自分。


 矛盾と罪悪感が波状に押し寄せ視界の端が滲む。


「ごめん……澪。俺が悪かった、もう言わない。思い出さなくていいから。」 


 澪は肩を震わせたまま、呼吸を整えようと必死に空気を吸い込み続ける。何度か浅い波が襲い、やがて長い吐息が喉を滑って出た。掌はまだ冷え切っているが、過呼吸の鋭いリズムは影を潜め代わりに鈍い頭痛が押し寄せたようで澪はこめかみを押さえる。陽真は毛布で澪を包み込み背中を撫で続ける。


 何分経ったか分からない。澪はようやく目を上げ震える手でスマホを探った。しかし、自分の部屋で充電しているので、代わりに答案用紙をひっくりかえして余白に書こうとする。しかし、ペン先が紙に触れても文字にならない線が震えるばかりだった。指で小さな“OK”の輪を作ろうとしたが半ばで止まる。


「OKじゃなくていい」


 陽真は澪の手を包み込み、そう囁いた。


「澪が辛いならもう聞かない。俺が勝手に悩んでただけだ。兄貴のこと、澪の記憶のこととか。全部、俺が自分で抱えきれなくて――ごめんね。」


 澪は唇を噛み、瞳に滲んだ涙が頬へひとすじ滑った。陽真はその雫を親指で払う。指が触れると澪の呼吸が再び速まりかけたが、今度は逃げずに陽真の腕を掴み返し震える体を預けるように抱きしめる。二人の体温が重なり合い、汗と涙とストーブの匂いが混じり合って冬の夜気を押し返すほど濃密な熱を孕む。


 外では吹雪が再び強まり、屋根を叩く雪音が高まった。陽真は澪の背に額を当て目を閉じる。兄の不在と澪の傷――そのどちらもが、いま毛布の中で重なり合っている。


 埋めようとしても埋まらない穴。

 守りたいと願う温もり。


 その矛盾を抱いたままでも、澪を離さずにいることだけは出来ると陽真は強く願った。澪の呼吸はようやくゆるやかな波のリズムを取り戻した。頭痛は残っているものの、背中に伝わる陽真の手の温度が痛みを少しずつ溶かしていく。澪は目を閉じ指でそっと陽真の手の甲をなぞった。その短い線に宿る「ありがとう」の代わりに陽真は手を握り返す。


 体育館の屋根は氷解けの雫をぽたりぽたりと落とし渡り廊下の鉄骨がその水滴を受けて低く軋む。だが、その下を歩く陽真の耳にはそんな音は届かないかのようだった。期末テストが全て返却され廊下の掲示板に順位表が貼り出された日。クラスメイトは自分の番号と点数を照らし合わせては歓声や悲鳴を上げる。


「陽真、英語伸びたじゃん!」

「まぁね」


 陽真は、いつもの調子で親指を立ててみせたが頬の筋肉が引きつり笑い皺までもが硬質な線を描いていた。


「目が笑ってねえぞ。」

「寝不足なんだろ。」


 拓海と大地は肩を抱いて冗談を飛ばしたが、陽真は「プリンの仕込みが連勤でさ」とはぐらかすばかり。兄の話題が聞こえてこなくなったのは誰の耳にも明らかで、以前なら雑談に混じって自然に溢れた「兄貴のシュート真似したら外れてさ」などの回想が、すっかり姿を消していた。


 放課後。バスケ部は試験明けの調整メニューでシューティング練が組まれていたが、陽真は遅刻してきた。コートへ入るなり、目標を定めるようにフリースローラインに立ち寡黙にボールを放つ。フォームは正確だが、弾道は微妙に短くリングに前縁で弾かれる。


 ボールは転がって戻り拾い上げまた放つ。


 何度も、何度も。額の汗が顎を滴り床に小さな水紋を落とすたび、拓海が「今日は無理するな」と声を掛ける。陽真は「大丈夫」とだけ答え視線を合わせない。シュートの軌道がずれるたび、胸中では兄の影と澪の影がせめぎ合っていた。


 兄の死を澪への想いで上書きしようとすることに自責を覚え、しかし澪の笑顔が兄の不在を僅かに和らげてくれる事実に安堵する自分がいる。その二つの感情に優先順位をつけられず、口を開けばどちらの名も裏切るように思えて言葉が喉に張り付いた。


 灯台ごはんは観光客で満席。澪は厨房でキャラメルを焦がし、女将さんは新作の苺大福ぜんざいを蒸し上げる。陽真はフロアに出て給仕をこなしながらも、客の質問に返す声がどこか上擦り皿と手の間に緊張を滑らせた。閉店後の賄いの席。


「ブリかま食え!」


 親方が皿を差し出す。


「あとで食べます。」

「陽真くん、具合悪い?」


 女将さんが眉を寄せる。


「平気っすよ。」


 笑顔をつくるが、視線がぼんやり柱を彷徨う。澪は隣でこっそり肘をつつき、スケッチブックを開いた。


『大丈夫?』

『寝不足。』


 嘘ではない答えを書き込む。澪の横顔は心配で揺れていたが深追いはしなかった。あの日の過呼吸以来、陽真は兄の話を口にしない。澪は触れないようにしているが、陽真の目から光が抜けたことだけは見逃さない。


 その夜、島に小さな地震があった。寝室の照明が細かく揺れ、棚の瓶がかすかにカランと鳴った。陽真はベッドで跳ね起き、暗闇の中で胸の奥が氷水を浴びたように冷えるのを感じる。地震はすぐ収まったが心臓の鼓動は戻らない。枕元の写真立て――兄の遺影と並ぶ四人人家族の写真を掴み額を閉じた。


「兄ちゃん……俺、どうすりゃいい?」


 声は震え闇の中で溶けた。陽真は両手で顔を覆い布団を頭までかぶる。兄の名を口にするたび、自分が澪を好きだという事実が罪に変わる。


 だから言わない。親にも、友にも、澪にも。


 言えなければ痛みは小箱に収まると思った。実際は、胸の奥で鈍い塊となり日が経つほど重さを増して体を内側から沈めた。週が明けると、クラスは3年生への卒業準備の装飾作業に追われ始める。陽真は木工作業でリーダーを任され、のこぎりを振るいながらも終始無口だった。澪が色彩設計の相談で近づいても、「いいと思う」「任せる」と短く頷くだけ。昼休みにバスケ部仲間が恋バナを始めても、陽真は笑うだけで相槌を打たず眼だけが抜け殻のように虚ろだ。


「陽真、最近マジで笑ってねぇよな。」


 ナッツーがナオに漏らす声が廊下で反響するのを澪は偶然耳にした。胸がざわめき、スケッチブックを握る指が白くなる。


『陽真』


  ……呼び止めたいが言葉が見つからない。悩みを引き出せるとも思えず教室の窓際に立ち尽くした。外では雪の粒が細い斜線を描いて屋上へ消え雲の切れ目から瑠璃色の海がほんの少し覗く。その日の帰り、かじかむ指で澪はスマホに短いメッセージを打った。


『プリンの新作アイデアあるから、放課後また灯台で』


 送信済みの画面がわずかに震え、既読がつく前にスマホをポケットに沈める。胸の奥で音叉が鈍い音を残した。陽真の空虚を埋める術は分からない。それでも、隣にいることだけは手放さないと決めた。

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