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第21話 君に触れたくて

 冬の風は本土からの観光客をひと塊に押し流すように島へ連れて来ていた。港のフェリー便は朝のうちに満席となり、旧市街の石畳はキャリーケースのゴロゴロという車輪音でにぎわう。干物屋の軒には銀色のアジがずらりと吊され潮の香りと炭火の煙が空気を重くすると旅の空腹は否応なく膨らんでいく。その匂いの尾を辿るようにして人びとが行き着くのが階段の上にある「灯台ごはん」だった。 


 年末に澪と陽真が練り直した〈潮風キャラメル安納プリン〉は、新年限定で“ミニおしるこセット”と抱き合わせて提供されると、店の掲示板に書かれている。さらに親方特製の寒ブリしゃぶ、女将の牡蠣味噌鍋目当てに常連が押し寄せ予約は昼を待たずに埋まった。開店の十一時、暖簾を揺らして入った一組目の客が着席する頃には、すでに玄関先に十人近い列ができている。


 厨房には湯気が立ち込め、フードの吸気口が薄く白む。親方が出汁鍋をかき回しながら「ブリ追加!」と叫び、陽真が「はいよッ!」と返事し、冷蔵庫から節のようなブリのロインを抱えて走る。陽真はいつもの黒Tに店のロゴ入りエプロン。額には包バンダナがあるが、事故チュー事件から続く微妙な照れは賑わいの中でかき消えている。 


 一方、澪はフロアとパティシエ補佐を兼ねて、カウンター奥の特設デザート台に張り付いていた。丸底鍋でキャラメルをゆっくり飴色へ追い込み、藻塩のひとつまみで火を止める。仕上がったソースを口金でプリンに糸状に垂らすと、半透明の琥珀が厚みを作り冷気でわずかに縮む。その上から煮きり酒で伸ばした白餡を極薄に纏わせ、焼印で小さな波模様を押す。これが“潮風”の名を宿す証の作業で澪は筆を握るような手つきで印の深さを揃えていく。


 女将はホールでお客を捌きつつ、澪の背後をちらりと見ては「ナイス波打ち」と親指を立てた。澪は小さく会釈しプリンを木箱に並べて湯気の立つ配膳口へ滑らせる。その瞬間、湯煎に張った湯が跳ね澪の指に熱が走った。


「熱っ……」


 小声の呻きを聞きつけたのは陽真だ。親方にブリの皿を預けると、澪の横へ回り込み冷水のボウルを差し出す。


「指、浸けろ。」


 澪は驚いた表情を浮かべたが、逆らわずに言われるまま指を冷やす。


「やりがちなんだよな、俺も一昨日やったし。」


 息を吐く二人の間を牡蠣味噌の香りが抜けていく。澪は陽真と向かい合うと無意識に胸の中がざわめいたが、湯気と注文の声が押し寄せる厨房では感傷を挟む隙もない。けれど、ふとしたタイミングで陽真が指をかすめたり、オーブンのタイマーを受け渡すため手を重ねたりする瞬間、冬と油と出汁の匂いを突き抜けて、あの日の鼓動が蘇るのだ。


 午後二時。大鍋のブリは三度目の補充が終わり、プリンも残り一トレイになった。ホールの常連客が「おかわり!」と指を立てるたびに女将が笑い、陽真が「潮風セット上がり!」と声を上げる。澪は最後のプリンにキャラメルを落とし焼印を押しながら息を整えた。鍋の蒸気で額の髪が濡れ、首筋に滲む汗が冬の厨房の冷えで逆に冷たさを呼ぶ。


「夜の分仕込みながら休憩交代に入るってさ。」


 陽真が皿を戻しながら声をかける。


『先に休憩して』

「牡蠣の追加下処理あるから。澪が先!」

「澪くん、頑張ったご褒美に差し入れ」


 女将は湯飲みを掲げた。中には温かい甘酒。生姜が軽く利いて白い湯気が鼻腔を擽った。澪はタオルで手を拭き、ホール脇の小上がり席でほっと一息つく。ガラス越しに降りしきる雪が見え、客たちは窓の外を背景に写真を撮りながら笑い合っている。甘酒のとろみが舌に広がると身体の芯から熱が昇り指の火傷の痛みも薄れていく。陽真は厨房へ戻りざま、振り返って親指を立てた。その笑顔は半日中鍋の湯気を浴びても変わらず、澪の胸にかすかな痛みを残した。


 もっと、近づきたい


 心の中で呟いた言葉は蒸気のように溶け、甘酒の湯気へ混ざって消える。それでも視線は陽真を追ってしまう。親方から牡蠣を受け取る横顔、包丁のリズム、袖をまくった前腕の腱。照れ顔で俯いた日も、今のようにキビキビ動く背中も、どちらも自分だけの絵の具で塗り分けたくなる。休憩を終えた澪が厨房へ戻ると、陽真が剥き終えた牡蠣のボウルをタオルで覆っていた。


「ホールの追加なし!」


 女将がコールし、親方が鍋の火を弱める。ようやくピークを越えた。陽真は澪に気づいて「水分とった?」と尋ねる。澪はうなずき、『ありがとう』と微笑んだ。そのとき、店の戸が開いて冷たい風が入り込み、入り口の鈴がからんと鳴る。


「満席ですが、外でお待ちになりますか?」


 女将の声が聞こえる。その向こうで子どもの声がはしゃいでいる。陽真はひと息ついて澪の肩を叩き、「もうひと踏ん張り」と笑った。澪は深く頷きキャラメルソースの鍋を温め直す。日が傾き、店内の照明が夕焼けの代わりに温かな橙を放つ頃、厨房の奥では澪が最後のプリンを蒸し器へ収め陽真がカウンターを拭きながら口笛を吹く。外の雪は止まず、ガラスに広がる結露が街灯の光を柔らかく乱反射させている。


「予約分やりきったわね。」

「今夜は早じまい、店閉めたらおでんで打ち上げだ。」


 澪は背後に立った陽真にエプロンの紐をほどいてもらうと、肩が一瞬ぴくりと震えた。陽真はそれに気づき少し照れたように笑う。


『ありがとう』

「どういたしまして」


 陽真は大袈裟にお辞儀した。店内の片付けが終わる頃、窓の外は真っ白な闇。潮騒さえ雪に吸い込まれ聞こえるのは厨房の鍋が落とす湯の音だけ。おでんの湯気に囲まれながら席に着くと陽真は澪の火傷が治りかけの指をそっと見て言う。


「次の休み、色々買いに行こ」


 澪の胸に、またあの音叉が微かに触れ、甘酒の後を追うように静かな熱が灯った。大盛況の灯台ごはんで交差した視線と指先の温度は、外の雪がすべてを白く包むほど降り積もっても薄れずに胸の奥で火種を守り続ける。潮の満ち引きのように甘い湯気の立つ厨房の熱は夜の静けさへ引いていったが、二人の間にだけは、まだストーブの芯のように小さな炎が揺れていた。


 暖簾を下ろし女将と親方から差し入れの缶ホットココアを受け取ると、澪と陽真は連れ立って坂道を上がった。夜九時を回っても雪は細かい粒を舞わせ、街灯の光をつかの間反射しては闇に溶けた。吐く息はすぐ白く膨らみ、ふたりの靴底は氷を噛むようにきゅっきゅと鳴る。潮の匂いは雪に閉ざされ、かわりに鼻腔を擽るのは海が孕む鉄の冷たさだけ――その静けさが耳の奥に膜を張り、心臓の鼓動が鼓膜へ伝わるほどはっきりと聞こえた。


 港を見渡す高台へと続く小道は、観光客が途切れた夜更けにはめっきり人影がない。左右を竹林と石垣に挟まれた坂を抜けると、視界は一気に開け雪で縁どられた護岸灯がいくつも点々と港を縁取っていた。さらに五十段ほど上がれば、灯台下の展望柵――昼間は遠足の定番撮影スポット、夜は恋人たちの隠れ家になる場所――に辿り着く。澪はマフラーの端を握り締め、陽真は缶ココアを両手で温めながら一歩ずつ雪を踏みしめていった。


 崖の縁にある青錆びた鉄柵へたどり着くと、海は雲間の月を細長く映し銀色の道を不規則な波が途切れ途切れに遮っていた。雪は相変わらず舞っているが、風が弱いため真下の黒い水面に映る光の筋はゆらぎながらも途切れない。港の作業灯は遠くでわずかな橙を放ち、白と黒の世界に小さな焚き火のようにちらちら瞬いている。


 陽真は缶のタブをゆっくり引いた。ぱしゅ、と短い破裂音が雪の静寂に溶ける。温かな甘さが蒸気とともに立ちのぼり、冷えた鼻腔を柔らかくなでた。


「港、凍りそうだな。」


 陽真が息を白くしながら海を見下ろす。澪は頷き缶を抱えたまま柵へ寄りかかる。風が弱いとはいえ、崖の上の空気は刺すように冷たい。澪の頬は雪明かりに淡く照らされ、睫毛の先に小さな結晶が居座っていた。それが溶ける前に落ちると、陽真は思わず指で払ってやりたくなる衝動に駆られたが自制して視線を海へ戻す。


「プリン成功したな。今日、お客さんが“これだけは持ち帰れませんか”って聞いてきてさ。」


 澪は目を細めマフラーの隙間で微笑む。だが視線は横ではなく、潮騒が低くこだまする真夜中の水平線に注がれていた。胸の奥が、冬の海底で膨張する泡のように静かに浮き上がる。事故のキス以来、陽真と二人きりになるたび、心臓はあらぬ拍子で鳴り声帯を持たない喉が疼く。今日の陽真は、厨房の喧噪を思い出せば可笑しいほど普段どおりで――その普段どおりの優しさが、かえって胸を甘く締めつける。


 ふと陽真が柵へ肘をつき、海へ向けて片手を伸ばした。掌が夜空をすくうように広げられ月の光と雪片をまとめて掴もうとする仕草。澪はそれに釣られて柵へ歩み寄り、肩が触れる距離まで近づく。冷えた缶が鼻先で湯気を吐き、マフラーの裾に噛み付く北風をちょっとだけ緩ませた。


「なぁ、澪。」


 陽真の声は低く、潮騒よりも近い。


「あの日の事故、まだ気にしてる?」 


 澪は一瞬、鼓動が止まったように胸を押さえた。指で缶を滑らせ『少し』と書くように人差し指をくるりと回す。陽真は「だよなぁ」と苦笑を漏らした。心臓が缶の温度よりも熱く跳ね鼓動が外気に漏れそうだ。陽真も頬を少し染め鼻先で息を突く。


「……俺さ、あれ以来考えるんだ。もう1回って言ったのって俺に好意あるってことだろ。俺でも流石に気付くよ。それに、澪がもし“友達やめたい”って言ったら俺どうするんだろって。」


 澪は顔を上げる。月光が陽真の瞳を横切り、雪の粒が睫毛に乗った。陽真は冗談めかした笑みを作ろうとしたが、うまくいかず視線を彷徨わせた。


「今日厨房で澪の指火傷したの見たとき、一瞬で心臓ヒュッとなった。俺、たぶん……めっちゃ澪のこと気にしてる。」


 澪は唇で息を吸い、冷たい缶が手の中でわずかに震えた。『気にしてる』――その言い回しは告白ではない。でも事故のキスを否定してはいない。胸の内で熟れすぎた柑橘が弾けたように甘い疼きが滲む。澪はマフラーの端を触り、それを陽真の首へそっと掛けた。マフラーは大きすぎて二人の肩を包み、雪を払って柔らかな陰をつくった。


 缶が落ちる音が小さく雪に吸われたとき、距離は自然に縮まっていた。澪は陽真の頬へ指を伸ばす。震えが伝わり指先が頬骨に触れると、陽真は肩を竦めながらも逃げなかった。むしろ胸の前で手を重ね澪の指を包む。


「事故じゃなくなると怖いな。」


 澪は答えの代わりにわずかに背伸びをし、唇を近づける。陽真は呼吸を吸い込み、雪が落ちるような静けさの中で目を閉じた。しかし、唇が触れる寸前で澪は動きを止める。缶ココアの甘い香り、彼の吐息に混ざって届く。あと数センチ――その距離が澪には永遠にも感じられた。


「今は、ここまでにしとこ。」


 陽真がそっと囁き、指を絡めたまま額を寄せた。澪は驚きつつも頷き緩やかな安堵とほんの少しの焦らしが胸に広がる。マフラーが二人の呼吸を溜め込み、雪片が溶けては消えた。後悔はない。これ以上を急げば、温かな夜が破れそうで怖かった。しばらくして額を離すと、陽真は息を整え柵越しの海へ向き直った。


「好きになるって、まだよく分からん。でも俺、澪と一緒にいると楽しいし、澪が怪我したら焦るし。これって、大事ってことだよな。」


 雪は相変わらず降り続け、灯台の光は海へ白い弧を描く。マフラーの裾が風で揺れ二人の影は柵の下の岩肌へ重なる。波は月の光をかすめ取りながら寄せ、引き、胸の鼓動もまた似たリズムで打つ。


「帰ろうか。風邪引く。」


 陽真がそう言い、マフラーを澪に返した。二人は並んで坂を下りる。雪は首筋を冷やしながらも、マフラーと掌の温もりを奪いきれない。海は黒く凪ぎ灯台はその黒を裂いて光をめぐらせる。恋心は、雪と潮風に磨かれて白い結晶のように静かに積もった。足跡が二筋、坂道に刻まれ後ろから降り続ける雪がすぐ埋めていく。それでも胸の奥に生まれた火種は消えず、しんとした夜の海より深い場所で、ふたりの呼吸に合わせてゆっくりと育っていった。

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