第2話 呼んだら、笑った
次の日の朝、出席を取る担任の声がひときわ澄んで聞こえたのは耳が勝手にあの名前を待っていたからだ。
「――東雲。」
窓際、最後列の澪が顔を上げ静かに手を挙げる。返事はない。黒板の白い粉塵の向こうで明るい光を受けた横顔がわずかにほころぶように見えて、陽真は胸の奥を微かに締めつけられる。
(……澪)
頭の中では、容易く呼べる。二拍で落ちる、やわらかな音の並び。実際に声帯を震わせようとすると、舌がどこに触れればいいか分からなくなる。名前を呼ぶという行為が、こんなにも生々しい距離感を伴うものだと今更ながら思い知らされた。休み時間になって後ろから拓海が肘でつついてきた。
「お前、昨日さ美術室にいたろ。」
「なんで知ってんだよ。」
「あの廊下、通り過ぎたんだよ。扉の隙間から覗いたら、なんか穏やか〜な空気出して座ってた。あれは恋の匂いじゃないのか?」
「違うって。……手話教えてもらってただけ。」
「おっ、健全。でもさ、呼び方どうすんの?“東雲”って距離あるよなあ。」
図星を刺され、陽真は口ごもる。棚の上のプリント束に逃げ場を求めるみたいに視線を滑らせながら努めて冷静に言う。
「同じクラスだし、名前で呼ぶのが普通なのか?」
「普通かは知らんけど、呼びたいんだろ?」
返事の代わりに机の端でシャーペンの芯を軽く弾いた。かすかな音が胸のむず痒さを誤魔化すには足りない。
昼休み。物理準備室は今日もゆるやかな風が吹き抜け薬品棚のガラスが時折かすかに鳴った。大地はまたハイライトを流しながら「ここ見てよ」とひとりで盛り上がり、拓海は「今日のメニュー地獄〜」と白米をかき込む。陽真は相槌を打ちながらも、耳の奥が別の音階に傾いているのを自覚していた。
「午後の古典の小テスト、やべーな。漢文全滅の予感しかしない。」
「返り読み、昨日やったとこ出すって言ってたろ。」
「聞いてない聞いてない!てか、お前はどうせ九割いくんでしょ。いーなー万能型っ!」
軽口に苦笑しつつ、弁当を早めに片づける。今日は放課後、体育館へ行く前に美術室に寄るつもりだった。ノートの片隅に書いては破って丸めた、たった数文字の練習を実戦に移したい。呼ぶだけだ。簡単なことだ。脳内で繰り返すと簡単なことのように思えるのに、いざとなると喉が先に緊張する。自己暗示の言葉を胸の内で反芻しながら、チャイムが鳴る前に準備室を出た。
五時間目の古典をなんとかやり過ごし、放課後。南棟の突き当たりは、昼よりいっそう静か。扉の隙間から覗く美術室は、夕陽が斜めに射し込みイーゼルの影が長く伸びている。ジャズのピアノが今日も小さく流れていた。昨日とは違う曲だ。もう少し跳ねるリズム。軽やかな指の運びが部屋の空気をうすいオレンジ色に混ぜ合わせていく。ノックすると、澪が顔を上げた。細い指が行き場を探すみたいに宙を泳ぎ、次の瞬間、小さく手を振る。来訪を歓迎する合図。陽真は胸の奥で息を整えると歩み寄った。昨日の自分から一歩、踏み出す。喉を開き、できるだけ自然な声で。
「よ……」
一音目で舌がもつれて、慌てて言い直す。
「――よ、よっ」
何だその挨拶は、と内心ツッコみながら逃げ道を断った。
「東……」
滑り出しかけた二文字を、ぐっと飲み込む。ゆっくり丁寧に。
「――澪っ!」
言えた。ほんのそれだけのことなのに出し終えた瞬間、じんわりと汗がにじむ。澪がぱちぱちと瞬きをして唇がふわりと緩んだ。驚きのあとに、何かを理解していく色。澪は首をこてんと傾け、胸の前で両手を合わせてから、親指を立てる――“いいね”。そして、口だけでゆっくりと形をつくる。
「ハ・ル・マ」
音は出ないが、確かな輪郭で。陽真は、無意識に笑っていた。
「やっと言えた。……なんか、緊張して。」
照れ隠しみたいな独り言がこぼれる。澪は目を細めて近くの机から付箋とペンを取ると、さらさらと書いてこちらに掲げた。
『“はるま”って、呼んでいい?』
小さな文字は、ひらがなの丸みが可笑しいほど優しくて胸の温度が上がるのを感じる。
「もちろん。」
即答した自分の声が、少しだけ上ずった。澪は満足そうに頷き、ふと何か思い出したようにもう一枚、付箋に書く。
『昨日の続きやる?』
「あ、手話。うん、やろう!」
窓際の簡易テーブルに移り、椅子を向かい合わせた。夕焼けはまだ高い。澪は手を胸の位置に持ち上げ昨日の復習――“わたし”“あなた”“ありがとう”。陽真は同じ動きをなぞりながら、ふっと息が合う瞬間を何度も感じた。手と手の間に言葉が生まれる。声がなくても、そこにあるのは確かな会話。少し経ってから、澪が新しい動きを見せた。“名前”。続けて、“名札”のイメージぽいのをした。俺は、感心し同じ動きをゆっくり繰り返す。すると澪がもう一度付箋にペンを走らせる。
『名前を呼ぶとき、“ねえ”って声掛けでもいい。でも、手をこうしてくれたら嬉しい。』
そこには、掌を軽く二回揺らす絵が描かれていた。視界の端で小さく合図を送るような仕草。声が飛んでくる代わりに視線をやさしく引き寄せる印。
「いいな、それ。」
陽真が頷くと、澪は嬉しそうに肩をすくめて笑った。口角の上がり方が丁寧で笑い方にも静かな品がある。見惚れかけた自分を咳払いでごまかしつつ、意を決して尋ねる。
「その……今更だけど、澪って呼んでも大丈夫なんだよな?」
返ってきたのは、真っ直ぐな頷き。そして、唇の形だけの言葉。
「だいじょうぶ。」
彼は耳が聞こえる。だから陽真の声は届く。でも、彼自身の返事は声では返らない。その事実が、どこかで少し怖かった。自分は彼の沈黙に、どこまで触れていいのか。境界を探りあぐねる指先で、付箋の角をいじっていると澪がふわりと首を振った。
『分かっているよ』
そう言うみたいに、ゆっくり“ありがとう”の手話をする。光が指先を透かし、やわらかな影を机に落とした。それから小一時間、2人は言葉と手を行き来させる。澪は終始、声ではなく筆と手話と表情で応じる。音のない返事を陽真は最初ぎこちなく、やがて呼吸を合わせるみたいに受け取れるようになっていった。会話のリズムは想像以上に軽やかで、むしろ息継ぎの要らない音楽のようで。
『この海、昨日より朝になってる?」
陽真が、澪のキャンバスに目をやりながら言う。青は薄くなり遠くの地平線がわずかに紅い。澪は頷き、パレットの上で青と白とごくわずかな橙を混ぜる。筆をとり海面に走らせた。絵の中で小さな波の稜線が光る。そのとき、陽真のスマホが震えた。
『おーい、集合十五分前。今日はストップ&ゴー地獄。』
陽真は、画面を見て青ざめる。
「そろそろ行かなきゃ。」
椅子から腰を上げた陽真に、澪が首を傾げる。陽真はポケット越しにスマホを軽く掲げ、口で「練習」と言いながら、両掌でバスケットボールをドリブルするジェスチャーをした。澪は「なるほど」と笑って親指を立て持っていた付箋に走り書きする。
『がんばって』
「ありがとな」
それを受け取り、胸ポケットにしまう。出口に向かいかけて足が止まった。振り返り、彼はキャンバスに視線を戻している。横顔の陰が長い。今、練習前に一度だけ、ちゃんと言いたい。喉の奥に、ほんの少し勇気を込めた。
「また、来るよ。じゃあな、澪!」
その一音の手前で短く掌を揺らした。澪の視線がすっとこちらへ寄る。驚いて、それから満面の笑みで、“またね”の形を作る。扉の向こうの廊下に出たとたん胸が軽くなった。走り出した足は、今日に限って床との反発がよく返ってくる気がする。
体育館。輪郭のはっきりした声が飛び交う空気の中に身を置くと、さっきまでの静けさが遠い。笛の音、バッシュの擦れる音、ゴールネットの揺れる音。どれも身体の中心を通って反響する。練習は予告通り、ストップ&ゴーに始まり、トランジションの反復、シュートメニューへと続いた。
「椎葉、切り替え速く。声出せ!」
顧問の檄に返事をしながら、陽真は声を張る。叫ぶほどに体内の空気が入れ替わり、澪のいる静かな部屋と対照をなす。汗に濡れた額を腕で拭ったとき、胸ポケットのふくらみが手に当たった。付箋の紙の感触。そこに潜む丸い文字。
『がんばって』
喉の乾きの奥で不思議と新しい水が湧くように力が返ってくる。最後のスリーメンの往復が終わる頃には、脚は鉛みたいに重いのに心だけは軽かった。
夜、シャワーの湯気が引いたあと窓を少し開ける。湿り気のある風が机の上の付箋を揺らした。胸ポケットから取り出したそれを、ノートの表紙に静かに貼る。薄い黄色の紙片に、ひらがなのやわらかい線が並ぶ。スマホが震えた。グループチャットに、拓海がなにか書き込んでいる。
「椎葉、今日なんか機嫌よかった?スリーの確率エグかった」
続いて大地が「恋だな」と意味のないスタンプを連投。思わず笑ってしまい打ち返す。
『違う、ただの気合いだ。』
『へいへい。で、澪って呼べたの?』
一拍置いてから、指を動かす。
『呼んだ。』
既読がみるみる付いて、すぐに返信。
『おおおおお』
『尊』
『ええやん!!』
落ち着けと打ち込みながら、心のどこかで同じように叫んでいる自分を認める。机の引き出しから鏡を出し、椅子の背にもたれて口の形をそっとなぞる。
「み・お」
二拍。簡単なようで、重心の置き方一つで響きがまるで違ってしまう。たった2文字に自分の距離感が全部にじむ。ふと、窓の外で虫の音が濃くなる。小さな生の振動は、静かな夜をやさしく満たして陽真は鏡を畳みノートの新しいページに今日の復習を書いた。
『また明日、澪って呼ぶ。』
灯りを落とす前に、机の端の色鉛筆を一本手に取った。青、柔らかい海の色。紙の上に、ごく浅い波を一本だけ引く。今日、彼のキャンバスで見た光の輪郭を真似るが上手くいかない。けれど、それでいいと思う。不器用な線の上に、名前の音がやさしく落ちる。




