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第15話 沈む音、滲む線

 家へ戻る坂道は、潮風が吹き抜けるたびに石垣のススキを揺らし、ふわりと甘い金木犀の匂いを漂わせた。けれど澪には、その匂いがひどく遠いものに思えた。ハチマキをほどいた指は汗と砂でざらつき、体育祭の熱と、夕暮れの冷えと、陽真の掌の余熱がまだ皮膚に混ざり合って残っている。玄関を開ける音に母が気づき、「おかえり。」と笑ったが澪は玄関先で頷き返すだけで、靴を脱ぎ捨てるようにして廊下を抜けた。


 泥にまみれたソックスとTシャツを脱ぎ棄てるあいだに、喉の奥がむず痒い焦燥を帯びていった。汗も砂も流したいのに、肌に焼きついた「ずっと友達だし」の言葉だけが、湯を弾く油膜のように剥がれない。浴室の戸を閉めると、白いタイルがほんのり湿気を帯びシャンプーの残り香が鼻腔にひっかかった。シャワーをひねる。雨樋を叩くような湯の音が壁を打ち肩を伝い落ちて踵へ流れていく。


 熱い。けれど震えが止まらない。指を開けば陽真の骨ばった指が幻のように重なって見え、その感触を払うように腕をこすってみても皮膚の奥底へ沈んだ温度はびくともしない。湯の温度を上げる。蒸気が視界を白く曇らせ、涙が混ざったのか湯が頰か顎か判然としなくなる。叫ぶこともできないまま、澪は掌で口を塞ぎ堰を切った嗚咽をシャワーの轟音に紛れ込ませた。


 しばらくして湯を止めると、浴室の静寂が蝉の抜け殻のように空虚で心臓の鼓動だけが耳を叩いていた。タオルで乱雑に髪を拭き脱衣所の鏡をのぞく。濡れた瞳は赤く腫れ、唇は乾いて罅割れている。


 ――思えばあの瞬間まで、自分が陽真のことを「好き」だと認めるのが怖かった。友達でいられるのなら、それ以上を望まず横並びの位置に甘んじればいいとどこかで思っていた。


 寝室に入ると、夕暮れはすでに紺を深め窓の格子が畳の上に長い影を差している。勉強机の上には体育祭のプログラムと金銀の紙吹雪が入り混じって散らばり、スケッチブックが開かれたまま乾いたインク臭を放っている。澪は布団へ潜り込み、まだ火照りの残る身体を縛りつけるように膝を抱えた。毛布の繊維が濡れた髪に絡まり首筋に冷たい。腕の中でスケッチブックの角が肋骨に当たり、痛いのに離せず抱きしめる。


 掌の裏に蘇る、昼のリレーで渡されたバトンの硬い感触、ゴールに駆け込んで陽真と撃ち合わせた拳の震え。そして夕刻、握り返された指――陽真の声が鼓膜に溜まった潮のようにくぐもって響く。


『誰を好きになるかより、好きになった相手をどう大事にするか』


 なら、いまの自分はどうなのだろう。陽真を大事にしたい、その一心で胸が裂けるほど痛むのに「友達」という定規が線を引き、その先へ脚を踏み出すことを許してくれない。布団越しに嗚咽が漏れると畳に染みるほど涙が零れた。声が出ない喉が軋み、息を吸い込むたびに肺の奥が焼けつく。友達で満足していたはずなのに、掌の熱を覚えた身体はもう後戻りできない。


 友達のまま、好きでいるのは苦しい。けれど、好きだと告げれば横並びの距離は壊れてしまう。言葉は声にならず思いは紙にも映せず、ただ胸の内側で海溝のように深く沈む。


 時間が経ったのか窓の外に灯台の光が差し入り、部屋の隅を白く撫でた。潮騒は遠い。代わりに虫の声が秋のリズムで鳴き、時計の秒針が布団のなかで硬く刻んでいる。澪はようやく涙の湿った毛布から顔を出し、枕元のスケッチブックを無意識に開いた。白紙のページにペンを当て手が震えながらも線を走らせる。


 薄闇の中、現れたのは今日の校庭――優勝旗を掲げる陽真の背、その拳、その笑い皺、そして夕焼け色を映す髪。その輪郭を描きながら、澪は胸に残る熱を少しずつ紙へ流し出していく。線はところどころ滲み、涙の粒がインクを薄めた。描き終えたとき、月光が紙に射し、線の陰影が揺れた。そこに小さく鉛筆で書き添える。『好き』 ――声に出せないわずかな反逆。


 ペンを置き、額を絵に落とすように布団へ伏せる。瞼の裏には陽真の優しい笑顔が灯台の光みたいに回り、照らされるたび胸の奥が明滅する。泣き疲れた呼吸は夜の冷えを吸い込み、毛布の中に残る昼の陽射しと混ざり合う。眠れそうもない夜。それでも潮は引き、また満ちる。澪の波打つ胸は、壊れそうで壊れずに、そのたび静かに寄せて返した。

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