第13話 秋空とハチマキ
白い雲が千切れ抜けるような藍が校庭の上に広がっていた。
十月末、体育祭当日。半袖ではやや肌寒いほどの秋風が吹くのに、グラウンドの空気は人いきれと歓声で湯気立つように熱を上げている。大きな万国旗がロープに沿ってはためき、日の光を受けた布が空気の層を鳴らすたび砂ぼこりが細く舞い上がった。
午前の部が終わると、放送委員の軽快なアナウンスが昼休憩を告げる。競技ラインに描かれた白線はもう何本か掠れ、色鮮やかなゼッケンを着た生徒たちはそれぞれの家族席へ散っていった。植え込み近くに敷かれた大きなレジャーシートでは、澪の両親が、重箱と保冷バッグを丁寧に並べている。その隣には陽真の父と久々に出張から戻った母が折りたたみ椅子を組み立て、赤と白のラジオクーラーボックスを日陰へ移していた。二つの家族の荷物が、まるで一つのピクニックサイトのように自然に溶け合っている。
「お待たせしました!」
運動場を駆け抜けた土埃を背に、陽真がタスキを肩にかけたまま走って戻る。その少し後ろで、澪が笑顔で手を振りながら追いついた。二人とも赤組のハチマキを頭に結びっぱなしで額には汗の塩が白く浮いている。
「お疲れ。アンカーかっこよかったじゃないか。」
澪父がペットボトルの麦茶を差し出す。陽真はキャップを捻り、ひと口で半分ほど飲み下すと呼吸を整えた。
「綱引きこれからだろ?麦茶禁断症状出る前に補給だ。」
澪も番茶を受け取り『暑いね』と笑う。澪母はタオルで澪の首筋を拭う。
「ハチマキほどく?汗で冷えるわよ」
澪は首を振り、タオルでハチマキの結び目を押さえ直した。重箱の蓋が一枚ずつ外されていく。上段は澪母お手製の鯛の混ぜご飯を俵型に握ったもの、その上に刻み大葉と胡麻を散らし真ん中に小梅が乗っている。二段目には澪父が昨夜さばいたアジを南蛮漬けにし、島トマトとオレンジピーマンを彩りに添えたもの。三段目は陽真母の得意料理、甘辛の照り焼きチキンロールと栗の渋皮煮が並ぶ。陽真父は「肉系が足りないと腹がもたない」と言いながら、地元の精肉店で買った唐揚げと厚切りハムカツを別のタッパーから広げた。
「なんか豪華すぎない?」
陽真が笑うと、陽真母が腕を組んで胸を張る。
「せっかく二家族合同なのよ?豪華に振る舞わないと損でしょ。」
「それにお礼ですよ。澪が学祭の時に美術部の制作で陽真くんに手伝ってもらったし。」
そう言えば、澪父がこう言い出した。
「いつも澪がバイト先で、楽しくできてるのは陽真くんがいてくれるおかげだ。」
謙遜し両家の感謝が軽い握手のように往復する。陽真と澪は重箱の前へ並んで正座し、同時に箸を合わせた。海風がふっと吹き抜け、鯛の混ぜご飯に乗った小梅がころりと転がる。澪は俵を持ち上げ、一口食べると表情をほころばせた。《梅が爽やか》と指でサインする。澪母が「小梅の蜂蜜漬けよ」と嬉しそうに答え、陽真母は「チキンも食べて」と澪の皿にロールをのせた。陽真はアジの南蛮を頬張り眉を上げる。
「父さん、これ店出せる味じゃん。」
「朝の釣果は鮮度が違う。」と
陽真父は鼻を鳴らし、その横で澪父が「三枚おろしは圭介さんの方が上手だ」と太い声で笑う。大人たちの会話は魚の締め方から始まり、いつの間にか島の漁獲量や観光客向けの直売企画へと広がっていく。
澪は照り焼きロールを一口かじり、口元にソースが付いたまま陽真の肩を突いた。
『唐揚げおいしい?』
陽真は唐揚げを差し出し、「食え食え」と笑う。澪は遠慮がちに受け取り、サクッと噛むと衣の音と一緒に微かな笑い声が胸に震えた。陽真母はその様子を眺め「高校生、かわいいわぁ」と目尻を下げる。
澪はスケッチブックを膝に置き、目の前の小宇宙を描き始めた。鯛俵の断面、梅の赤、照り焼きの光、そして笑い合う六人の影。その線を追う陽真は、ふと親の声を背景にぼんやり考える。澪のことを。性別や恋愛感情と別のベクトルで、澪が自分にだけ見せる笑顔がある。それを守れるのなら、肩書は何でもいいと胸のどこかが答えている。
「そろそろ午後の競技、集合だって。」
アナウンスが鳴ると、陽真は空の重箱を重ね輪ゴムで留める。
「後片付けは大人でやるから、早く行きなさい。」
澪父と陽真父も同じように立ち上がる。
「ありがとう、じゃあリレー優勝持ってくる!」
陽真は宣言し、澪は《応援してて》と両手で大きく丸を作った。澪母は応援旗を振る練習をし、陽真母が携帯のカメラを構えた。秋の陽射しはもう斜めになり、校庭の砂は午後の熱をゆっくり手放しはじめている。白線の先にはリレーのスタートラインとカラフルなチームのテント。潮風が万国旗を高く揺らすたび、6人で囲んだ弁当の匂いがまだかすかに残る。陽真と澪はハチマキを締め直し、互いに手の甲で軽く拳を押し当てた。
「行こっか」
『頑張るよ』
六人の昼食はレジャーシートの上に温かな残像を残し、二人の背を押すように校庭の方へ吹く。風の向こうで太鼓が鳴り、放送委員の声がグラウンド全体にエコーをかけた。夏を越えた体温は、秋の競技場で再び鼓動と呼吸を速める。その熱は弁当の湯気よりも濃く澄んだ空へ立ちのぼっていった。




