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最後の観測者  作者: 小南
1/1

ZA


精神病棟の保護室は、いつも同じ匂いがする。消毒液と薄いプラスチックの混ざった、時間が消毒されていくみたいな匂い。

私はその匂いを吸い込みながら、床の円形の焦げ跡を見下ろした。直径三十センチ、灰色のリノリウムの中央だけが、指でなぞると粉になって崩れるほど脆く焼けている。円の外側には黒い斑点が星座みたいに飛び散って、焦げの中心には黒鉛で書かれた短い文。


やっと間に合った。次は君の番だ。


「また同じ文ですね、先生」


看護師の三ツ谷が言った。私は頷いて、壁に取り付けられた鉄製の内鍵を見上げた。外開きのドアには頑丈なノブと二重のシリンダー。その下に、内側からだけ降ろせるスライドボルト。

今朝の巡回で三ツ谷が見たとき、ボルトは降りたまま、シリンダーも回ったまま、つまり――内側から施錠された密室だった。


「監視カメラは?」


「深夜一時十三分から一時十七分まで、映像がノイズで。音声もホワイトノイズだけでした」


四分。わずか四分で、患者は消える。窓は鉄格子、天井点検口なし、通気口は手首も通らない。その患者――佐伯透、三十七歳。

彼は二ヶ月前からこう言っていた。「タイムマシンで世界線を移る。ここは誤差の大きい枝だ。観測で固定される前に抜ける」と。


あの時も私は同じ匂いを吸い込みながら、円形の焦げ跡を見下ろした。違うのは、あの時は佐伯の姿があった。

今はない。ただ、焦げとメモと、内側から閉じられた鍵だけがある。



警察が来て、写真を撮って、質問をした。

刑事の岩永は、病棟の構造図を広げて言った。


「隠し扉は?」


「ない。ここは隔離病棟だ。非常口は職員のカードがないと内側からも開かない。スプリンクラーは作動してない。臭いは焦げだけ。煙探知機も作動履歴なし」


「じゃあ、この焦げはなんだ。電子レンジを床に埋めた覚えは?」


私は肩を竦めた。そういう時に専門家は曖昧な言葉を使う。「高温の局所的な熱源による炭化」。意味は、分からないけど専門的に言っておく、だ。


「先生、またあったんです」


三ツ谷が、ビニール袋に入れたメモを差し出した。佐伯のベッドに隠されていたというノートの切れ端。そこには緻密な手書きの図と、奇妙に実務的な手順書が並んでいた。


[OFP:観測者固定プロトコル]

1.保護室の施錠を内側から行うこと(スライドボルト/シリンダー)。

2.室内の観測者を一名に限定すること。

3.床に円を準備すること(焦げは副産物)。

4.記述を残すこと(後続への誘導文)。

5.観測者が観測者であり続けることを保証するため、記録を完成させること。

6.四分以内に跳躍が起きる。起きない場合、記述の欠落を疑うこと。


記述、観測者、世界線――どこまでが妄想で、どこからが装置の設計図なのか。私は精神科医だから、答えを持たないまま、患者に寄り添う訓練を受けている。だが、密室からの失踪は、寄り添うにはやりすぎだ。


「先生」


岩永が私を見た。低い声で言う。


「彼はほんとうに消えたんですか。それとも、あなたが言葉で消したんですか」


「言葉で?」


「タイムマシンだの世界線だの、患者の言葉をあなたが記録して、記録が物語を作って、物語が密室に意味を与えた。そうなると、密室は記号になる。記号が人を消した。そういうことは?」


私は否定しようとして、やめた。

言葉は現実を変える。診断名ひとつで人は救われもするし、壊れもする。

だが私は、まだそこまで強い言葉を使っていない。まだ――。



二件目は一週間後に起きた。

夜中に廊下で叫び声、朝にはやはり焦げた円とメモと鍵。警察の出入りは増え、病院は世間から目をつけられ、院長は私に言った。


「もう一件続いたら、君の科は閉鎖だ」


私は頷いた。頷きながら、心の中で別のことを考えていた。

二件目の焦げ跡の位置。中央が微妙に揺れている。焦げの濃さが違う。

ノートに記された「焦げは副産物」という文が、急に現実味を帯びる。


焦げは熱の跡ではない。観測の跡だ。観測者を一名に限定した密室で、観測が完了した場所にだけ、円が焼き付く。

そんな仮説を私はなぞった。なぞっている自分に気づいて、笑ってしまった。精神科医が患者の妄想の上に仮説を積むなんて。


その夜、私は初めて病棟に泊まった。

二件目と同じタイプの保護室に椅子を持ち込み、ドアの内側から鍵を回し、スライドボルトを下ろした。

観測者を一名に限定――私は自分で笑い、床にチョークで円を描いてみた。焦げは出ない。代わりに白い粉が靴裏に付く。


私は滅多に喫煙しないが、その夜ばかりは紙巻きを一本だけ吸った。フィルターの甘さが、時間の速度を少しだけ遅らせる。

机の上には患者のノート、脇に私の黒革の手帳。私は手帳を開いた。


ケース#39:佐伯透。時間妄想。

密室失踪二件。共通点:円形炭化/メモ/監視カメラ4分欠落。

彼の言う「OFP:観測者固定プロトコル」。

観測者=? 記述=? 焦げ=? 跳躍=?


書いていると、胸の中の何かが形を持ちはじめた。

私は自分の書字速度を意識した。手が追いつかない。思考が走り、言語が追う。

手帳の最後の行に、私は書いた。


「次は君の番だ」の「君」は、誰だ?


自分だろう、と心のどこかが即答した。



観測者固定プロトコル。

私はその言葉を数十回、口内で転がした。

プロトコルとは、再現できる手順のことだ。科学が信じる唯一の魔法。

もしこれが本当にプロトコルなら、再現できる。

もしそれが妄想なら、再現しようとする私が妄想を悪化させる。


どちらにせよ、責任は私に来る。なら、選ぶのは私だ。


私はドアに近づき、内鍵をもう一度、確かめる。

ノブを握って回す。ガチャンと硬い音。

スライドボルトを上げ、下ろし直す。

扉の外の廊下は静かで、深夜二時。

個室の中には私だけ。観測者は一名に限定されている。


円を見下ろす。チョークの円の内側に、私は椅子を持ち込んで座った。

ノートの手順を頭の中で反芻する。

「記述を残すこと」。私は黒革の手帳を開き、書き始める。


[OFP:観測者固定プロトコル・試行1]

施錠確認:内鍵2/ボルト1。

観測者:城戸真(医師)。

円:チョーク製。

記述:本記録。

目的:跳躍の有無の確認。


ペン先が紙を走る音が、やけに大きく響く。

私は息を止め、時間の音を聴いた。

廊下の空調、遠くのナースステーションの椅子が引かれる小さな音、そして――


――ホワイトノイズ。


どこからともなく、砂を噛むような音が室内を満たした。

監視カメラのノイズと同じ。耳の後ろの皮膚が逆立つ。

私は手帳に書く。


ノイズ発生:02:13。


床の円の内側の空気が、少しだけ冷たくなった気がした。

見えない水面が降りてきて、私の頭上を通過する。鼓膜が内側へ押される。

空間が、すこし歪む。

私は、笑ってしまった。恐怖と興奮が同じ顔をして、喉の奥で混ざる。


02:14。ノイズ継続。空間の局所的圧迫感。

視界の周辺で微光――


書き終えるより早く、視界が白く弾けた。

一瞬、世界が反転した。

耳鳴り。吐き気。椅子の脚が床を引っ掻く音。

私は目を閉じて、開いた。


保護室。床の円。手の中の手帳。

同じ配置。同じ匂い。

違うのは――ドアの小窓の向こうにいる人間だった。


「さ、佐伯さん。落ち着いて」


ガラス越しに女性の声。見知らぬ看護師。

彼女の胸の名札には「三ツ谷」ではなく「三ツ木」とある。

私は反射的に名乗ろうとして、自分の名を忘れた。喉を鳴らす。声が出ない。

代わりにドアの外の誰かが言った。


「城戸先生、意識戻りましたか?」


私は立ち上がった。

ドアまで歩く。自分の手を見る。

白衣――ではなく、患者服。

左手首には柔らかい拘束帯。

私はガラスに映る自分の顔を見た。

青白い頬、乾いた唇、目の下の隈。確かに私の顔だ。だが名札はない。

ドアの小窓の外、男性看護師が私を見ている。彼は言う。


「佐伯さん、大丈夫ですよ。今、先生呼んできますから」


私は笑おうとして、唇がこわばるのを感じた。



世界がほとんど同じで、ほとんど違う。

ナースステーションの配置はそのまま、廊下のアートポスターが一本だけ違う。

三ツ谷は三ツ木で、岩永は「巌井」になっている。

院長の顔は同じ、名前は別。

私の机――があるべき医局の部屋には、私の椅子がある。しかし名札は別の医師の名「城島」。

そして、保護室のカルテフォルダには「患者:佐伯透/主治医:城島真」の文字。


世界線跳躍。

その言葉が、冗談でも戯言でもなく、最短距離で現実を説明する唯一の記号になった瞬間だった。


跳躍ののちの初日、私は黙って観察した。

この世界の私――城島真は、落ち着いた口調で患者(つまり私)に話しかけ、抗不安薬を処方し、四日後に面接を入れた。

私はうなずき、薬を飲むふりをした。

夜、病室の薄暗がりで、私は手帳を探した。枕の下。あった。

しかし手帳の内容は、私が書いたものではなかった。


ケース#39:佐伯透。時間妄想。

密室失踪二件。共通点:円形炭化/メモ/監視カメラ4分欠落。

「観測者固定プロトコル」なる記述。

彼の語る「記述が跳躍を引き起こす」という主張は否定困難。

次は、私の番だ。


最後の一行が、震えた筆圧で書かれていた。

私の書字癖と同じ、しかし別人の手首の迷い。

私は笑った。世界は私の冗談より悪い冗談がうまい。



三日目の夜、私は動いた。

保護室に侵入するのは難しくない。患者は知る。鍵の使い方を。看護師の歩き方を。カードの光の色を。

私は夜勤の看護師がトイレに立った隙に、スペアのピンを使い、保護室のドアの内鍵を開け、内側に滑り込んだ。

ドアを閉め、ボルトを下ろす。

監視カメラの向きを知っているのも、患者の特権だ。死角に身を寄せる。

床の円――あの焦げ。ここにもある。薄く、しかし確かに、誰かが前にここで跳んだ跡。


ノートは机の上にすでに置かれていた。

白紙に見えたが、斜めから光を当てると薄い跡が漏れ出る。

私は指先でなぞって、浮き出す文字を読んだ。


OFPのコアは「観測者を一名に限定」するための記述にある。

密室とは空間の隔離ではなく、解釈の隔離だ。

記述が完結すると、その記述を唯一の観測として世界が固定される。

固定が起こるとき、最小の修正で自己整合が満たされるように、観測者の状態が遷移する。

だから、出入りのない密室が成立する――観測者が入れ替わるだけだ。

残るのは鍵と焦げと、次の観測者への誘導文。


私は微笑んだ。

このプロトコルには致命的な欠陥がある――そして、その欠陥こそが動力だ。

観測者を一名に限定するには、観測者が観測者のままでいなければならない。

観測者を観測する別の観測者が現れた瞬間、世界は多重になる。

だからプロトコルは、観測者に記述を強いる。

記述を書いている間だけ、人は観測者であり続ける。

記述が終わると同時に、世界は収束を開始する。


私はペンを取り、書いた。


[OFP:観測者固定プロトコル・試行2(患者)]

施錠:完了。観測者:佐伯透(登録名)。

円:既存の炭化円使用。

記述:本記録。

目的:元の世界線への帰還――もしくは、別の位置への遷移。


ホワイトノイズが始まる。

私は笑って、円の中心に立った。

四分。四分で世界は入れ替わる。

私は待つ間、衝撃のラストについて考えていた。



跳躍。

砂が崩れる音。皮膚の裏側に電流。白光。

私は目を開けて、同じ匂いの中にいた。

違うのは、机の上のものだった。


そこには、私の黒革の手帳があった。

ただし、中身は――完成していた。


ケース#39:佐伯透。

結論:佐伯透=城戸真(初期世界線)=城島真(遷移世界線)

プロトコルは、観測者を役割で入れ替える。

最小自己修正の原理により、世界は「医師が患者を診る」という構図を維持したまま、配役だけを差し替える。

だから密室は成立する。患者は消えず、医師になる。医師は消えず、患者になる。

焦げは、唯一の観測が行われた座標に焼き付く。

メモ「次は君の番だ」は、観測者を次の観測者に変える呪文であり、誘導である。

これを読む君は、いま観測者だ。

君が読み終えると、観測は完了する。


私は手を止めた。

手帳の紙は私の汗で柔らかくなっている。

ノイズはすでにやみ、保護室の外は静かだ。

私は笑った。

笑いながら、机の上のもう一枚の紙に気づいた。

白い紙に、太い黒のマーカーで、たった一文。


観測者固定プロトコル:最終段階――記録を「物語」にすること。


私は息を呑んだ。



物語。

私は理解した。

プロトコルは、報告書ではまだ弱い。報告書は複数の読者を前提にする。複数の解釈が入り込む。

だが、物語は違う。物語は、読者ひとりに向かって閉じた空間を作る。

紙面という密室。ページという扉。

読者はその部屋に入って、ひとりで結末まで歩く。

それは完璧な「観測者の一名限定」。

だから、物語こそがもっとも強い跳躍装置だ。


私は椅子を引き、机に向かった。

ペンを持つ。

書き始める。


この出来事の記録を、「報告」から「物語」に変換する。

誰か一人のために書く。

その誰かは、いまこの文字を読んでいる。

そう、あなた。

あなたは、いま観測者だ。



ここからの記述は、あなたのためだけに書かれている。

あなたは病棟の匂いを知らないかもしれない。焦げた円を見たことがないかもしれない。

それでも、あなたはページという密室にいて、私の言葉しか見ていない。

他の誰の解釈も、いま、この瞬間には入り込めない。

それが観測者固定だ。


私は最初の保護室で笑った自分を思い出す。

円の内側に座ったとき、私は自分がまだ医師だと思っていた。

跳んで、私は患者になった。

次に跳んだとき、私は作者になった。

世界は最小の修正で、医師が患者を診る構図を保存した。

では、作者の構図はどう保存される?


作者は物語を読者に届ける。

読者は物語を読む。

構図は「作者→読者」だ。

世界はこれを最小自己修正で維持する。

つまり――


読者が、次の作者になる。



私は手帳の最後のページを破り、あなたに宛てて書く。


この文を読み終えたら、あなたは私になる。

いや、正しくは「あなたの世界線における私」になる。

その世界線で、あなたは精神病棟の医師かもしれないし、患者かもしれない。

どちらでも構わない。プロトコルは役割を交換する。構図だけが維持される。

あなたはドアの内側に鍵をかけ、円の内側に座り、記述を物語にする。

あなたが物語を書き終えたとき、あなたは読者を得る。

その瞬間、あなたは作者ではなくなる――観測が完了するから。

そして世界は入れ替わる。

次は、君の番だ。


ホワイトノイズ。

皮膚の裏で、砂が流れる。

四分。

扉の向こうで、足音。ナースシューズの軋む音。

私はペンを置き、紙を整える。

ドアの内側の鍵に手を伸ばす。

ボルトを上げ、下ろす。



あなたは気づくだろう。

この物語自体が、観測者固定プロトコルの実行であることを。

あなたはいま、最後まで読んだ。

密室は成立した。観測者は一名。記述は完了。

世界は最小の修正で、構図を保つ。

だから――


背後で、鍵がかかる音がする。

あなたは振り返る。

そこには、円がある。焦げた円。

円の中心に、一冊の手帳。

手帳の最初のページには、たった一行。


ケース#40:あなた。


そして、机の上の白紙に、あなたの手が――書き始める。

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