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精神病棟の保護室は、いつも同じ匂いがする。消毒液と薄いプラスチックの混ざった、時間が消毒されていくみたいな匂い。
私はその匂いを吸い込みながら、床の円形の焦げ跡を見下ろした。直径三十センチ、灰色のリノリウムの中央だけが、指でなぞると粉になって崩れるほど脆く焼けている。円の外側には黒い斑点が星座みたいに飛び散って、焦げの中心には黒鉛で書かれた短い文。
やっと間に合った。次は君の番だ。
「また同じ文ですね、先生」
看護師の三ツ谷が言った。私は頷いて、壁に取り付けられた鉄製の内鍵を見上げた。外開きのドアには頑丈なノブと二重のシリンダー。その下に、内側からだけ降ろせるスライドボルト。
今朝の巡回で三ツ谷が見たとき、ボルトは降りたまま、シリンダーも回ったまま、つまり――内側から施錠された密室だった。
「監視カメラは?」
「深夜一時十三分から一時十七分まで、映像がノイズで。音声もホワイトノイズだけでした」
四分。わずか四分で、患者は消える。窓は鉄格子、天井点検口なし、通気口は手首も通らない。その患者――佐伯透、三十七歳。
彼は二ヶ月前からこう言っていた。「タイムマシンで世界線を移る。ここは誤差の大きい枝だ。観測で固定される前に抜ける」と。
あの時も私は同じ匂いを吸い込みながら、円形の焦げ跡を見下ろした。違うのは、あの時は佐伯の姿があった。
今はない。ただ、焦げとメモと、内側から閉じられた鍵だけがある。
警察が来て、写真を撮って、質問をした。
刑事の岩永は、病棟の構造図を広げて言った。
「隠し扉は?」
「ない。ここは隔離病棟だ。非常口は職員のカードがないと内側からも開かない。スプリンクラーは作動してない。臭いは焦げだけ。煙探知機も作動履歴なし」
「じゃあ、この焦げはなんだ。電子レンジを床に埋めた覚えは?」
私は肩を竦めた。そういう時に専門家は曖昧な言葉を使う。「高温の局所的な熱源による炭化」。意味は、分からないけど専門的に言っておく、だ。
「先生、またあったんです」
三ツ谷が、ビニール袋に入れたメモを差し出した。佐伯のベッドに隠されていたというノートの切れ端。そこには緻密な手書きの図と、奇妙に実務的な手順書が並んでいた。
[OFP:観測者固定プロトコル]
1.保護室の施錠を内側から行うこと(スライドボルト/シリンダー)。
2.室内の観測者を一名に限定すること。
3.床に円を準備すること(焦げは副産物)。
4.記述を残すこと(後続への誘導文)。
5.観測者が観測者であり続けることを保証するため、記録を完成させること。
6.四分以内に跳躍が起きる。起きない場合、記述の欠落を疑うこと。
記述、観測者、世界線――どこまでが妄想で、どこからが装置の設計図なのか。私は精神科医だから、答えを持たないまま、患者に寄り添う訓練を受けている。だが、密室からの失踪は、寄り添うにはやりすぎだ。
「先生」
岩永が私を見た。低い声で言う。
「彼はほんとうに消えたんですか。それとも、あなたが言葉で消したんですか」
「言葉で?」
「タイムマシンだの世界線だの、患者の言葉をあなたが記録して、記録が物語を作って、物語が密室に意味を与えた。そうなると、密室は記号になる。記号が人を消した。そういうことは?」
私は否定しようとして、やめた。
言葉は現実を変える。診断名ひとつで人は救われもするし、壊れもする。
だが私は、まだそこまで強い言葉を使っていない。まだ――。
二件目は一週間後に起きた。
夜中に廊下で叫び声、朝にはやはり焦げた円とメモと鍵。警察の出入りは増え、病院は世間から目をつけられ、院長は私に言った。
「もう一件続いたら、君の科は閉鎖だ」
私は頷いた。頷きながら、心の中で別のことを考えていた。
二件目の焦げ跡の位置。中央が微妙に揺れている。焦げの濃さが違う。
ノートに記された「焦げは副産物」という文が、急に現実味を帯びる。
焦げは熱の跡ではない。観測の跡だ。観測者を一名に限定した密室で、観測が完了した場所にだけ、円が焼き付く。
そんな仮説を私はなぞった。なぞっている自分に気づいて、笑ってしまった。精神科医が患者の妄想の上に仮説を積むなんて。
その夜、私は初めて病棟に泊まった。
二件目と同じタイプの保護室に椅子を持ち込み、ドアの内側から鍵を回し、スライドボルトを下ろした。
観測者を一名に限定――私は自分で笑い、床にチョークで円を描いてみた。焦げは出ない。代わりに白い粉が靴裏に付く。
私は滅多に喫煙しないが、その夜ばかりは紙巻きを一本だけ吸った。フィルターの甘さが、時間の速度を少しだけ遅らせる。
机の上には患者のノート、脇に私の黒革の手帳。私は手帳を開いた。
ケース#39:佐伯透。時間妄想。
密室失踪二件。共通点:円形炭化/メモ/監視カメラ4分欠落。
彼の言う「OFP:観測者固定プロトコル」。
観測者=? 記述=? 焦げ=? 跳躍=?
書いていると、胸の中の何かが形を持ちはじめた。
私は自分の書字速度を意識した。手が追いつかない。思考が走り、言語が追う。
手帳の最後の行に、私は書いた。
「次は君の番だ」の「君」は、誰だ?
自分だろう、と心のどこかが即答した。
観測者固定プロトコル。
私はその言葉を数十回、口内で転がした。
プロトコルとは、再現できる手順のことだ。科学が信じる唯一の魔法。
もしこれが本当にプロトコルなら、再現できる。
もしそれが妄想なら、再現しようとする私が妄想を悪化させる。
どちらにせよ、責任は私に来る。なら、選ぶのは私だ。
私はドアに近づき、内鍵をもう一度、確かめる。
ノブを握って回す。ガチャンと硬い音。
スライドボルトを上げ、下ろし直す。
扉の外の廊下は静かで、深夜二時。
個室の中には私だけ。観測者は一名に限定されている。
円を見下ろす。チョークの円の内側に、私は椅子を持ち込んで座った。
ノートの手順を頭の中で反芻する。
「記述を残すこと」。私は黒革の手帳を開き、書き始める。
[OFP:観測者固定プロトコル・試行1]
施錠確認:内鍵2/ボルト1。
観測者:城戸真(医師)。
円:チョーク製。
記述:本記録。
目的:跳躍の有無の確認。
ペン先が紙を走る音が、やけに大きく響く。
私は息を止め、時間の音を聴いた。
廊下の空調、遠くのナースステーションの椅子が引かれる小さな音、そして――
――ホワイトノイズ。
どこからともなく、砂を噛むような音が室内を満たした。
監視カメラのノイズと同じ。耳の後ろの皮膚が逆立つ。
私は手帳に書く。
ノイズ発生:02:13。
床の円の内側の空気が、少しだけ冷たくなった気がした。
見えない水面が降りてきて、私の頭上を通過する。鼓膜が内側へ押される。
空間が、すこし歪む。
私は、笑ってしまった。恐怖と興奮が同じ顔をして、喉の奥で混ざる。
02:14。ノイズ継続。空間の局所的圧迫感。
視界の周辺で微光――
書き終えるより早く、視界が白く弾けた。
一瞬、世界が反転した。
耳鳴り。吐き気。椅子の脚が床を引っ掻く音。
私は目を閉じて、開いた。
保護室。床の円。手の中の手帳。
同じ配置。同じ匂い。
違うのは――ドアの小窓の向こうにいる人間だった。
「さ、佐伯さん。落ち着いて」
ガラス越しに女性の声。見知らぬ看護師。
彼女の胸の名札には「三ツ谷」ではなく「三ツ木」とある。
私は反射的に名乗ろうとして、自分の名を忘れた。喉を鳴らす。声が出ない。
代わりにドアの外の誰かが言った。
「城戸先生、意識戻りましたか?」
私は立ち上がった。
ドアまで歩く。自分の手を見る。
白衣――ではなく、患者服。
左手首には柔らかい拘束帯。
私はガラスに映る自分の顔を見た。
青白い頬、乾いた唇、目の下の隈。確かに私の顔だ。だが名札はない。
ドアの小窓の外、男性看護師が私を見ている。彼は言う。
「佐伯さん、大丈夫ですよ。今、先生呼んできますから」
私は笑おうとして、唇がこわばるのを感じた。
世界がほとんど同じで、ほとんど違う。
ナースステーションの配置はそのまま、廊下のアートポスターが一本だけ違う。
三ツ谷は三ツ木で、岩永は「巌井」になっている。
院長の顔は同じ、名前は別。
私の机――があるべき医局の部屋には、私の椅子がある。しかし名札は別の医師の名「城島」。
そして、保護室のカルテフォルダには「患者:佐伯透/主治医:城島真」の文字。
世界線跳躍。
その言葉が、冗談でも戯言でもなく、最短距離で現実を説明する唯一の記号になった瞬間だった。
跳躍ののちの初日、私は黙って観察した。
この世界の私――城島真は、落ち着いた口調で患者(つまり私)に話しかけ、抗不安薬を処方し、四日後に面接を入れた。
私はうなずき、薬を飲むふりをした。
夜、病室の薄暗がりで、私は手帳を探した。枕の下。あった。
しかし手帳の内容は、私が書いたものではなかった。
ケース#39:佐伯透。時間妄想。
密室失踪二件。共通点:円形炭化/メモ/監視カメラ4分欠落。
「観測者固定プロトコル」なる記述。
彼の語る「記述が跳躍を引き起こす」という主張は否定困難。
次は、私の番だ。
最後の一行が、震えた筆圧で書かれていた。
私の書字癖と同じ、しかし別人の手首の迷い。
私は笑った。世界は私の冗談より悪い冗談がうまい。
三日目の夜、私は動いた。
保護室に侵入するのは難しくない。患者は知る。鍵の使い方を。看護師の歩き方を。カードの光の色を。
私は夜勤の看護師がトイレに立った隙に、スペアのピンを使い、保護室のドアの内鍵を開け、内側に滑り込んだ。
ドアを閉め、ボルトを下ろす。
監視カメラの向きを知っているのも、患者の特権だ。死角に身を寄せる。
床の円――あの焦げ。ここにもある。薄く、しかし確かに、誰かが前にここで跳んだ跡。
ノートは机の上にすでに置かれていた。
白紙に見えたが、斜めから光を当てると薄い跡が漏れ出る。
私は指先でなぞって、浮き出す文字を読んだ。
OFPのコアは「観測者を一名に限定」するための記述にある。
密室とは空間の隔離ではなく、解釈の隔離だ。
記述が完結すると、その記述を唯一の観測として世界が固定される。
固定が起こるとき、最小の修正で自己整合が満たされるように、観測者の状態が遷移する。
だから、出入りのない密室が成立する――観測者が入れ替わるだけだ。
残るのは鍵と焦げと、次の観測者への誘導文。
私は微笑んだ。
このプロトコルには致命的な欠陥がある――そして、その欠陥こそが動力だ。
観測者を一名に限定するには、観測者が観測者のままでいなければならない。
観測者を観測する別の観測者が現れた瞬間、世界は多重になる。
だからプロトコルは、観測者に記述を強いる。
記述を書いている間だけ、人は観測者であり続ける。
記述が終わると同時に、世界は収束を開始する。
私はペンを取り、書いた。
[OFP:観測者固定プロトコル・試行2(患者)]
施錠:完了。観測者:佐伯透(登録名)。
円:既存の炭化円使用。
記述:本記録。
目的:元の世界線への帰還――もしくは、別の位置への遷移。
ホワイトノイズが始まる。
私は笑って、円の中心に立った。
四分。四分で世界は入れ替わる。
私は待つ間、衝撃のラストについて考えていた。
跳躍。
砂が崩れる音。皮膚の裏側に電流。白光。
私は目を開けて、同じ匂いの中にいた。
違うのは、机の上のものだった。
そこには、私の黒革の手帳があった。
ただし、中身は――完成していた。
ケース#39:佐伯透。
結論:佐伯透=城戸真(初期世界線)=城島真(遷移世界線)
プロトコルは、観測者を役割で入れ替える。
最小自己修正の原理により、世界は「医師が患者を診る」という構図を維持したまま、配役だけを差し替える。
だから密室は成立する。患者は消えず、医師になる。医師は消えず、患者になる。
焦げは、唯一の観測が行われた座標に焼き付く。
メモ「次は君の番だ」は、観測者を次の観測者に変える呪文であり、誘導である。
これを読む君は、いま観測者だ。
君が読み終えると、観測は完了する。
私は手を止めた。
手帳の紙は私の汗で柔らかくなっている。
ノイズはすでにやみ、保護室の外は静かだ。
私は笑った。
笑いながら、机の上のもう一枚の紙に気づいた。
白い紙に、太い黒のマーカーで、たった一文。
観測者固定プロトコル:最終段階――記録を「物語」にすること。
私は息を呑んだ。
物語。
私は理解した。
プロトコルは、報告書ではまだ弱い。報告書は複数の読者を前提にする。複数の解釈が入り込む。
だが、物語は違う。物語は、読者ひとりに向かって閉じた空間を作る。
紙面という密室。ページという扉。
読者はその部屋に入って、ひとりで結末まで歩く。
それは完璧な「観測者の一名限定」。
だから、物語こそがもっとも強い跳躍装置だ。
私は椅子を引き、机に向かった。
ペンを持つ。
書き始める。
この出来事の記録を、「報告」から「物語」に変換する。
誰か一人のために書く。
その誰かは、いまこの文字を読んでいる。
そう、あなた。
あなたは、いま観測者だ。
ここからの記述は、あなたのためだけに書かれている。
あなたは病棟の匂いを知らないかもしれない。焦げた円を見たことがないかもしれない。
それでも、あなたはページという密室にいて、私の言葉しか見ていない。
他の誰の解釈も、いま、この瞬間には入り込めない。
それが観測者固定だ。
私は最初の保護室で笑った自分を思い出す。
円の内側に座ったとき、私は自分がまだ医師だと思っていた。
跳んで、私は患者になった。
次に跳んだとき、私は作者になった。
世界は最小の修正で、医師が患者を診る構図を保存した。
では、作者の構図はどう保存される?
作者は物語を読者に届ける。
読者は物語を読む。
構図は「作者→読者」だ。
世界はこれを最小自己修正で維持する。
つまり――
読者が、次の作者になる。
私は手帳の最後のページを破り、あなたに宛てて書く。
この文を読み終えたら、あなたは私になる。
いや、正しくは「あなたの世界線における私」になる。
その世界線で、あなたは精神病棟の医師かもしれないし、患者かもしれない。
どちらでも構わない。プロトコルは役割を交換する。構図だけが維持される。
あなたはドアの内側に鍵をかけ、円の内側に座り、記述を物語にする。
あなたが物語を書き終えたとき、あなたは読者を得る。
その瞬間、あなたは作者ではなくなる――観測が完了するから。
そして世界は入れ替わる。
次は、君の番だ。
ホワイトノイズ。
皮膚の裏で、砂が流れる。
四分。
扉の向こうで、足音。ナースシューズの軋む音。
私はペンを置き、紙を整える。
ドアの内側の鍵に手を伸ばす。
ボルトを上げ、下ろす。
あなたは気づくだろう。
この物語自体が、観測者固定プロトコルの実行であることを。
あなたはいま、最後まで読んだ。
密室は成立した。観測者は一名。記述は完了。
世界は最小の修正で、構図を保つ。
だから――
背後で、鍵がかかる音がする。
あなたは振り返る。
そこには、円がある。焦げた円。
円の中心に、一冊の手帳。
手帳の最初のページには、たった一行。
ケース#40:あなた。
そして、机の上の白紙に、あなたの手が――書き始める。




