8
まばたきの瞬間さえなかったのかもしれない。
半瞬後の世界は、右半分が欠けていた。
左半分の視界にまず広がったのは、一面の空。
その深い蒼さは、宇宙から見えるという地球の蒼さにそっくりだった。
何者の飲み込む絶対的な蒼の光景がそこにあった。
浮かぶ雲はその蒼にわずかな抵抗を示すベトコンのように辛うじて支配を覆す。
長い回廊だった。
だが、足元の床面はガラスのように透き通り、その先はどこまでも空しか見えなかった。
地上のない空間に、この回廊は浮かんでいるのだ。
磨かれたガラス造りであるのは床だけではない。
等間隔に置かれた柱も複雑な光を反射する透明なガラスで出来ている。
ともすれば、水晶の回廊に見えた。
水晶のタイル張りの床は歩けば澄んだ音をたてた。
「ソフィア?」
呼ばれて顔を上げると、そこには見知らぬ男がいた。
長いブロンドに縁取られた姿は西洋画に見られる聖人を思わせた。
柔和に笑みを浮かべる姿は女性的ですらあるが、男性だと結論付けたのは肩から腹まで引き裂かれた服を着ていたからだった。
元は純白のきっちりとした詰襟の服だったのだろう。だが今は肩口から引き裂かれ、汚れている。
純白を汚すのは暗い赤の色だった。
肩から流れ落ちる赤は腕を伝って水晶の床へ点々と水溜りを作っている。
「どうしたの? ソフィア」
優雅とさえいえる男の笑みは、どこまでも澄んでいた。だが、それだからこそ、子供じみた純粋さが悪意にさえ見えた。
不気味さを覚えて身を引くと、腕をとられた。
「ソフィア!」
顔をあげると、見慣れた長身がこちらを見下ろしている。
驚きを隠せない仏頂面は、紅玉の瞳を湛えている。アズラエルだ。
しかし、いつもの眼鏡はなく、非常な瞳は幼く見えた。
きつく腕を取られた拍子に、抵抗すると軽く戒めは剥がれた。
床にもがく足音と、紅い滴が飛んだ。
うつむいた顔を、艶やかな床面がとらえる。
ダークブラウンの長い髪だった。
軽くウェーブのかかった髪は美しく、白皙の肌をひきたてている。
身に付けているのは純白のドレス。
花嫁のような姿には、似合わない赤の化粧が施されていた。
毎朝、鏡で見る制服におさげ髪ではない。
手を見遣れば、握られているのは鞄ではなく武骨な両手剣である。
鏡に映る人物が別人であることは一目瞭然だ。
硬く引き結ばれた紅唇、意思の強そうな瞳は左だけ。
何の因果か、瞳の色は新緑が留まっている。
左の瞳だけ。
右の瞳が何色だったのかは、もうわからない。
顔の右半分からは毒々しい赤が滴り落ちている。
頭の先から見て右半分は、頬の部分にかけて欠けている。
抉り取られたように。
砕かれた頭蓋骨が見える。
膨れた血管が見える。
断ち切れた脳組織が見える。
脳に到達した血液はその役割を果たせないまま、右から流れていく。
声をあげた。
辛うじて残っている声帯が最期の一滴まで搾り出すように甲高く震える。
床面に映った、化け物じみた顔も一緒に悲鳴をあげる。
我を忘れて、かつてはあったはずの顔の右半分をかきむしり、白い手を血で汚す。
そのたびに透明の床は無粋な水滴で汚染された。
誰かが誰かの名前を呼んでいる。
だが、その声に応えることもできず、震え出した足は体を支えきれずに座り込む。
床に手をつき、否応無く床面の顔と対面し、眼を閉じようと目蓋を動かすが、禍々しい翠の瞳は視線を真っ直ぐこちらに向かう。
貫くような眼光は、物問いたげに揺らめいた。
「ソフィア!」
子供の声が床面の瞳を打ち壊す。
瞬きすると同時に、深い森が一瞬視界に入った。
しかし、瞬きするには目蓋は予想以上に重く、再び視界は暗闇に閉ざされていった。