7
朝、学校へ行くと真っ先に浴びせられるのは、朝日ではなく、嘲笑だった。
最初は翠の瞳。
次にこの頑なな性格。
その次からは理由が判然としない。
自分も応えられない。
誰も応えられない。
困惑。
焦燥。
混沌とした渦はどこか、この世界に似ている。
「父親がイギリスの人でね。眼が緑色なの。髪は日本人の母親譲りだけど」
みつあみにした髪はそれを特徴とするためだけに伸ばした。腰まで届こうかという髪はそれだけで人の印象を固定する。
「面白いように苛められたわ。黒髪に緑の目っていうのは子供だけじゃなくて、大人も嫌がって」
視力が悪くないのに眼鏡をかけているのは少しでも自分の目を隠すため。
「いっそのこと髪を金髪にしてやろうかと思ったんだけど」
両親はカラスのような黒髪をとても褒めた。母の髪は黒髪であっても少し茶色がかっていて、父の髪はブロンドだった。
その黒い髪がとても美しいと、とても褒めてくれた。
「――結局、染めるのやめたんだ」
隣を歩く、万国共通に指示を受けそうな端正な容貌の男はにっこりと微笑んだ。
「やめて良かった。髪、とても綺麗だよ」
卒倒しそうな甘い声で囁かれるが、ソフィアは悪霊でも払うように制服の肩を払った。
今、ローファーが踏みしめているのは瓦礫の街ではなく、緑の匂いが濃い森の中である。
年かさな木々が辛うじて開けた道を睥睨して、薄暗い道の先を不透明にする。
女占い師の指した先へと暗闇の中から出ると、この静寂の森に放り出されたのである。
異形の世界、ソドムに落ちてから休むことなく歩きつづけてすでに半日は経っただろうか。
「俺、髪はハニーブラウンだから、ブルネットには憧れがあるんだよねぇ」
ソフィアの反応にもめげることなく、美貌の男は色素の薄い髪を指で弾いた。
空のないこの世界には木漏れ日などなく、ただ周囲を確認できるほどの光が淡くあるだけだが、彼の髪はわずかな光も反射する。
「アズラエルもいいよなぁ。ブルネット」
前を歩いていた長身で黒髪の男は、応えを返さずただ溜息をついた。
ある意味で、ソフィアとこのアズラエルという男は似ていると言ってもよかった。
ソフィアはその黒髪に似合わない緑の瞳。
「案内人はまだ見つからないの?」
ソフィアの問いに、アズラエルは素直に振り返った。
黒フレーム眼鏡の奥の双眸が放つのは紅玉の光。尋常な人では持ち得ない瞳の色だ。
その眼を疲れたように少し細めて、彼は口を開いた。
「―――そうだな」
ヘカテは案内人がいると教えたのだ。それがすでに何キロも歩いたはずだが、いっこうに現れない。
「もうこんなトンネル歩くのヤになってきたんだけど」
ソフィアは驚いて隣をのんびりと歩く美形を見上げる。その様子に男は形の良い眉を驚いたようにあげてみせた。
「何言ってるの? ここは森じゃない!」
今、三人が歩いているのは、不気味な鳥の声こそ聞こえないが、いつファンタジックな魔物が出てきてもおかしくないほどの深い森だ。
だが、
「え?」
と閑麗な男は声を漏らして、首を傾げる。
「今、俺が歩いてるのは、暗いトンネルだよ。ほら、ちょうど地下鉄のトンネルみたいな」
声も反響して聞こえる、と彼はヤマビコを呼ぶように手でメガホンを作ってさえ見せる。
「ちなみに、俺には君が今、別人に見えてる」
「はぁ?」
「うん。わかってる。君は“ソフィア ”だ。でもね、今は“君”が俺のよく知ってる人物に見えるんだ」
「つまり……こうして喋っている “私 ”が、別の人が喋っているように見えてるってこと?」
「そう。“君 ”の言葉なのに、別の人物が俺に話しかけてきている」
「……じゃぁ、アズラエルも?」
前を歩く黒髪の長身は普段と変わらないように見える。
「多分。―――姐さんも厄介なところに俺たちを放り込んでくれたもんだ」
「……仕方がないだろう。ラグエル」
アズラエルは振り返り、溜息をつく。その様子にソフィアの隣で男は美貌を歪めた。
「そんな疲れた顔して言っても説得力ないって。全然、大丈夫じゃないんだろ」
確かに眼鏡の奥にある紅い眼光が少し鈍って見えた。
「―――そんな顔をするな」
不意にアズエルは眉を歪めた。
困ったような、怒ったような、
「……貴方も私が別の人に見えているのね」
泣きそうな。
ソフィアの言葉で、アズラエルは弾かれるように顔をあげ、眉間にシワを深く刻む。
「―――本当に悪趣味ね」
ソフィアはアズラエルから視線を外し、延々と続く森を見つめる。
「おいらにとっちゃ、ここは唯一無二の住み処なんだけどねぇ」
降って沸いた声は、ちょうどソフィアの右手から聞こえた。
見遣れば、道の脇に沿って並ぶ小さな土手の上に子供が座っている。
子供らしい半ズボン姿だが、巻頭衣で腰に荒縄を巻きつけたそれは古今を入り混ぜた奇妙な姿である。
だが、何よりも目を引くには子供の額にある眼だった。双眼と加えてもう一つ、額に開くその碧眼は子供の双眸と同じように瞬く。
少し眼を見開いたソフィアだったが、すぐに
「貴方は?」
問い返した彼女を見て、今度は子供が眼を丸くした。
「おいらはキュクロプス。ここに住んでる―――そうだな…」
子供は手慣れた様子で土手を飛び降りると、ソフィアの前に立って彼女を見上げる。
「しがない案内人だよ。この真実の森のね」
子供、キュクロプスはすっと右手を差し出した。
「よろしく。緑の目のお姉ちゃん。ヘカテに導かれてきたんだろう?」
「ヘカテ……さんを知ってるの?」
キュクロプスはソフィアの右手を握って、笑う。
「あの性悪占い師。こんな森に素人を寄越すなんて何を考えているんだろうね」
「素人?」
「そうさ。……そこのお兄ちゃん達。一度、きつく眼を閉じてごらん。次に眼を開いた時にはちゃんとこの森に居るはずだよ」
子供に言われて、半信半疑のままアズラエルとラグエルは眼を閉じる。そして次に瞬いたあと、驚いたように眼を丸くした。
「……うわ。こんなところ歩いてたんだ」
ラグエルは軽口を叩きながら、頭を掻く。
「な?」
子供はまだ茫然とする三人に向かってニカッと笑うと、暗い道を歩き始めた。
「さ、行こう。出口はまだ少し遠いから」
小さな案内人に導かれ、ソフィアはまた森に踏み出した。
「どうして、三人とも違う道に見えていたの?」
「お姉ちゃん、人間だろ? 人間なんて滅多にこないんだけど、どういうわけだい?」
質問を問い返されて、ソフィアは押し黙る。その様子に肩を竦めて、キュクロプスは頷いた。
「違う道なんかじゃないさ。みんな、それが自分にとっての本当の道だったんだ。それを、おいらがこの世界にある真実の森に案内した。それだけのことさ。だから、誰も間違った道なんて歩いちゃいないよ」
でもな、と子供はソフィアを見遣る。
「お姉ちゃんは別だ。お姉ちゃんは、おいらが住んでるこの真実の森を見ていた」
「どういうこと?」
「お姉ちゃんは他人の道を見ることができたからさ。なんたって、その眼を持っているんだから」
「……私の目はただの緑の眼よ」
「違うね」
キュクロプスは自分の額の眼を指差す。
「碧眼とは違う、緑色の眼ってのは特別な意味があるんだ。だからヘカテがここに寄越したんだろうけど」
「キュクロプスっていうのは名前じゃないでしょ」
ソフィアたちの会話に割って入ったのは、ラグエルだった。
「一つ目の巨人がこんな小さな小人になったとはね」
子供を覗き込んで、ラグエルは首を傾げる。
「おいらにも事情があるんだよ。名前は勘弁しておくれ。名が持つ意味はアンタ達の方がよく知ってるだろう」
キュクロプスは細い指で頭を掻いた。
「そういえば、どうして名前が意味を持っているの?」
ラグエルは質問したソフィアに振り向く。
「名前というのはね、いわば命に刻み付けられた識別番号みたいなものなんだよ。ソフィアの住んでいた世界じゃ知らないけど、少なくともここでは、名前を知れば相手を殺すことだってできる」
ソフィアは思わず顔をしかめた。だが、ラグエルは普段通りの笑顔で続ける。
「方法はたくさんあるけれど、名前を知ることイコール生殺与奪を握ったも同然なんだ。それなのに、軽々しく本当の名前を他人に教えるなんてできないだろう? だから、そのために君にはソフィアって名前があるんだ」
「じゃ、ラグエルやアズラエルの本当の名前じゃないのね」
ラグエルはにっこりと微笑んだ。
「そのとおり。やっぱりソフィアは飲み込みが早いね」
「関係ないことを喋るな」
キュクロプス、ソフィア、ラグエルの後ろを歩いていたアズラエルが重苦しい声を挟んだ。
「だって、知らなきゃならないことでしょ?」
ラグエルは宥めるように笑うが、アズラエルは無表情にソフィアを見遣る。
「今、聞いたことは忘れていい」
ソフィアは口を歪めて、息を呑んだ。
「忘れていいって言われても、もう聞いちゃったんだから忘れられないわよ」
彼女の様子に、アズラエルは深く溜息をつく。
「……余計な質問をするからだ」
「言っておくけど」
ソフィアはアズラエルを下から睨みつけた。
「私は被害者。貴方達は加害者。立場をわかってくれる?」
自分とアズラエルを交互に指差し、ソフィアはアズラエルの胸をトンとついた。
たったそれだけの仕草。
その瞬間、ソフィアの視界は一転した。