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碧玉の瞳  作者: ふとん
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 廃墟の真ん中に、階段はあった。

 螺旋に伸びた古い金属の階段は、段と段の間に隙間があり、隙間から地上が見えるという高所恐怖症に最も嫌われる造りだ。

 五階分も登れば、落ちれば充分死ぬ高さである。

 ソフィアは手すりの隙間から廃墟を覗き込んだ。

 この階段、五階で終わっているのだ。

 そしてドアの向こうに建物はない。階段だけが塔のように建っている。

 空に見紛う天井は遥か先にあるが、目の前にはぽつんとドアがつけられている。古くもないが新しくもないドアの取っ手には看板が掛けられていた。

“占い師 ヘカテ ”

 草花を模った縁取りの小さな可愛らしい看板は、この廃墟にひどく不似合いだった。

 この五階からよくよく辺りを見渡せば、同じような階段が点在しているのが見えた。最長で二十階ほどの階段群が遠くに近くに、まるで墓標のように建ち並んでいる。建物だけが崩れ去り、その階段だけが残っているようにも見えた。

 アズラエルがドアをノックする。

「どうぞ」

 何もないはずの内側からくぐもった返事が帰ってきた。外から見る限り、ドアの向こう側は地上五階分の空間があるだけだ。

 アズラエルは無造作にドアを開ける。足を踏み入れる彼を見送って、ソフィアは顔を引き攣らせてその場に居残った。だが、ラグエルに急かされて、結局ドアを潜る。

 恐る恐る踏み出した彼女のローファーは床を踏みしめていた。目を丸くした彼女はラグエルに手を引かれるままドアの向こうへと進む。

 靴音が響いた。

 三人分の靴音が複雑に反響している。

 真っ暗な空間は神殿のように整然と静寂に満ちて、ただ正面に僅かばかり反抗的な光が灯っている。

 光に向かって進めば、やがて小さな机と三人分の椅子が見えた。机上にある小さなランプが晧々と闇に反発しているのだ。

「いらっしゃい」

 向かいに座しているのは、若い女だった。腰まで届く黒髪が魅惑的な服からはみ出している白い肩にかかる姿は娼婦を思わせるが、彼女の冴えた黒瞳が印象を払拭する。整った白皙の容姿に施された化粧は当然の如く彼女にあって、むしろ神秘的でさえある。

 彼女は手元にある人の頭ほどの水晶球を弄びながら、金のマニキュアを乗せた長い爪の指を椅子に向けた。

「どうぞ。お久しぶりね」

 囁かれれば甘い声だった。しかし、抑揚のない声は淡白にも聞こえた。

 彼女に席を勧められても、アズラエルは腰掛けようとはしなかった。ただ、彼女を見下ろして冷淡に視線を下ろす。

「仕事だ」

 応えはわかっていたのか、彼女は紅唇の端を押し上げた。

「ラグエルもお久しぶり」

「ヘカテ姐さん。おしゃべりはまた今度ね」

 アズラエルほどではないが、ラグエルまであしらいは冷たい。不思議に思って彼らを見比べるが、二人とも何処か緊張した面持ちだった。

「そう邪険にしないで。ソフィアも不思議がっているわ」

 ヘカテは鈴を転がすように笑うと、それ以上は勧誘せず水晶玉に両手を乗せる。

「運命にはいつも三つの道がある。それは枝分かれして無数の道となり、全方位を埋め尽くす」

 ランプが声に震えるように身震いした。

「運命は一つではないの。幾つもの可能性と偶然が重なって初めて事象となる。だから、それは世界の秘密。秘密を暴く役割を与えられた私を怖がるのは無理もない話なのよ」

 ヘカテは黒い瞳を少し伏せる。

「闇に綺麗な緑の光があるわ。それは私と同じく世界の秘密を暴く物。ただ、誰も扱えたことのない道具。生贄も懇願も、何一つ受け入れない完璧な道具。完全無比の機密性で書かれた文書を解読しなければ、目覚めることのない道具。これに悪戯をしかけている者がいるわ。恐れを知らない可哀想な子羊。憐れな彼は運命を知らない。高い木から落ちて死ぬ運命を」

 水晶に映る彼女の瞳がランプを反射して黄金の眼光を宿す。アズラエルは水晶玉に向かって言葉を落した。

「何処へ行けば運命を教えてやれる?」

「ここから南西へ。案内人が居るわ。それより、アズラエル」

 ヘカテは水晶から顔を上げると、三人を見上げて媚態を作るように机に肘をつき、頬を手の平に乗せた。

「ソフィアに話はしたの?」

「彼女は知る必要がない」

「それはソフィアが決めることであって、アズラエルが決めることではないわ。言ったはずよ。道はいつも三つある、と」

 急に視線を向けられて、ソフィアは少し息を呑んだ。

 何もかも吸い込んでいくヘカテの黒瞳が弓形に細くなった。

「ここへ来る途中、空を見た? ここは空のない世界よ。世界は三つある。運命と同じようにね。空のない世界、空ばかりの世界、空と海のある世界。それぞれ、ソドム、ヘブン、アース。世界に優劣はないわ。互いに干渉し、互いにせめぎあう一つの世界でもあるの。一つであって、一つではないもの。ソフィア、貴女はアースの住人。空と海に挟まれている人だから人間というの」

「……じゃぁ、あなた達は人間ではないの?」

 ソフィアはあとずさった。ヘカテの口ぶりでは、彼女達は人間ではないということになる。

ソフィアの怯えがわかっているはずだが、ヘカテは口元に薄く笑みを刻む。

「そう。人ではあるけれど、ソフィアと同じ人間ではない存在だわ。でも私も、アズラエルやラグエルも人であるし、人以外でもないの。優劣はないのよ。つけたがる人は大勢いるけれど、評価が正しく下されたことは未だかつてないわ」

 彼女の黒瞳がソフィアを捉える。


 意識が、吸い込まれる。


 ソフィアの腕が引かれた。見上げるとラグエルが彼女の腕を軽く掴んでいた。

「ありがとう、姐さん。俺たち仕事に行くよ」

 ヘカテは引きとめようとも追い払おうともせず、ただジッとソフィアを凝視している。

 それを返答と取ったのか、ラグエルとアズラエルは踵を返す。

「隠し事は良いことだわ」

 つられるように彼らについて歩き出したソフィアはふいにヘカテを振り返った。彼女は妖艶ともいえる笑みを浮かべた。

「でもね。他人にすぐ分かってしまう隠し事ほど、虚しく愚鈍な行為はないわ」

 ヘカテはすう、と金色の指先をソフィアに向ける。

「その目」

 ソフィアは顔を上げた。怯えてその瞳が見開かれる。

 彼女は、次の言葉を唐突に理解した。

「その目は隠しても無駄よ。――その綺麗な緑色(・・)はね」



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