22
きんと張り詰めた音が耳を劈いた。
その痛みで歩美は目を開けた。
暗闇ではない。
見上げれば蒼空、地上には廃墟が広がっている。
打ち壊されて数十年は経っているだろうか。
いや。
廃墟は劣化というよりも風化している。数百年の年月が経っているのだ。
穏やかな雲の運行の下で、歩美は茫然と地面に座り込んだまま辺りを見回した。
風化と砂漠化の進んだ廃墟に人の姿などない。それどころか生き物の気配すらない。
碧玉の瞳をもってしても、歩美以外の生物を感じられないのだ。
「……ここは一体……」
歩美の姿は制服のままだ。ブレザーにプリーツスカート。磨り減ったローファー。唯一、鞄が手にないだけ。
「……また、何処かに飛んだ……?」
「―――いいえ」
艶やかな声には覚えがあった。
見上げると声に伴った黒髪の美女が立っている。
「……ヘカテ……。秘密を知る魔女……」
「お久しぶりね。碧玉のお嬢さん」
ヘカテは廃墟にそぐわない清浄な空気を纏ったまま、歩美を見下ろす。
「タブレットに関わった者は皆、不幸になるわね」
彼女は少し憂いめいて目を細めた。
「レミエルのこと……?」
「彼はとても不幸だった…。来世での幸せを祈るわ」
でも、とヘカテは歩美に黒の瞳を向ける。
「貴女は見事に運命を変えた」
「私が?」
「そう。ソフィアとアズラエルをヘブンに帰すことができたわ」
「……無事に帰れたのね」
「でも、貴女自身の運命を変えられなかった」
「え?」
ヘカテは廃墟を見回す。
「ここが何処だかわかる?」
わかるはずがない。
首を振ると、ヘカテは憐憫を目に湛えた。
「アースよ」
「アース……? いつの時代……? 私以外に生き物がいない……」
「そうね。貴女以外、生きている者はないわ」
「そんな……。まさかまだヘカテの庭に居るの?」
「私の庭は鏡の庭。アースの風景に似せて姿を変えるのよ。―――――見てごらんなさい。貴女自身を」
そうヘカテに手の平を差し出されると、歩美の視界は一変する。
電車の警笛。
地下を貫くヘッドライト。
眼前では、歩美がホームから飛び出していた。
その彼女から声が聞こえる。
『壊れてしまえ』
「え……?」
『こんな世界は壊れてしまえ』
ヘッドライトと彼女の姿が重なった。
同時に、電車が横転した。
地下を支えていたはずの柱は外れ、尽く打ち壊れる。
陥没した地面から人々が逃れられるはずもなく、悲鳴もないまま地面に沈む。
大音響に耳を塞いだ歩美は地上に居た。
ひび割れた大地に廃墟が広がっている。
大地震が起こったのか。
大噴火が起こったのか。
歩美は困惑のまま周囲を見渡した。
人の姿はない。
『誰も、居なくなった……』
眼前には座り込んでいる歩美がいる。
『これで、私以外誰もいない……! 私は、自由だ!』
陶然と叫ぶ自分が居た。
「いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁああああああああっっ!」
頭を掻き毟る。
「お父さん! お母さん!」
「いないわ。そんな人。貴女は一人になったのよ」
「私は……わたしは……!」
「そう。貴女がアースを壊してしまったの。お父さんもお母さんもみんな殺してしまったのよ」
「私は悪くない!」
「そうね。悪いのは、貴女を苛めたクラスメイトと碧玉の瞳」
「私は悪くないのよ!」
「でも結果を求めたのは貴女よ」
いつのまにか、歩美の眼前に立っているのは、黒髪の魔女ではなく、いつかの歩美自身だった。
「貴女が望んだのよ。この何もない自由を」
「違う違う違う違う違う!」
声が枯れた。
だが瞳は冷徹に真実を告げる。
地下鉄に飛び降りた歩美は絶望していた。
そして願ったのだ。
ソフィアが、アズラエルにエメラルド・タブレットを託すことだけを願ったように、歩美は自分の嫌いな世界を壊すことを。
「嫌よ! こんな世界! こんなの……自由じゃない!」
「―――――じゃぁ、またやり直す?」
冷たい指先が歩美の頬に触れた。
泣いているのか。
否。
歩美は、子供が気に入らない玩具を取り替えてもらう時のように、笑っていた。