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碧玉の瞳  作者: ふとん
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「珍しいこともあるものだ」

 低く、しかし愉しげに黒髪の男は口の端を上げた。

「そ……そんな、彼の能力に人格なんてなかった……うぐっ……!」

 ラグエルはその整った顔を苦痛に歪めた。

「口の訊き方には気をつけろ。ママに教わらなかったか? ラグエル坊や」

 毒のある言葉と共に、黒髪の男はラグエルの腹を踏んでいた足に体重をかける。靴底の裏から、嫌な音が鳴った。

「ああ、そうか。アズラエルはお前に私のことを話していなかったな……」

 何気なく足を上げると、男は、つい先ほどまで、たとえ裏切られようと友人であり続けようとした相手を、ゴミを悪戯に弾くように顔を蹴り飛ばして階段の隅に追いやった。

 ラグエルは困惑のまま、否応なく床で昏倒した。

「……イブリース……」

「ソフィアか。久しいな」

 黒髪の男は真っ直ぐと、彼からは見えないはずのエメラルド・タブレットの中にいるソフィアを見遣った。

「ソフィア……彼は……」

 黒髪に非常識な赤の瞳。それは確かにアズラエルと呼ばれていた男だった。だが、今やその面影はなく、光すらも飲み込むような黒瞳以外の姿形は同じでも全くの別人となっている。

 問い掛ける歩美には向かず、ソフィアもまた黒髪の男、イブリースを睨んだまま口を開いた。

「彼はイブリース。能力を使うアズラエルは元々野生の獣のような理性しかなかった。けれど、彼は決して獣ではなく、生まれたての赤ん坊だったの。彼は言わばアズラエルの弟として成長して、一個の人格として存在するようになった」

「二重人格……?」

「乖離性の人格。赤の瞳のアズラエルと黒の瞳のイブリース。彼等は共に育ったのよ」

「君が元気そうで安心した。ソフィア」

 イブリースは漆黒の目を細めた。

「普段は決して私に体を譲ろうとしないアズラエルが、今日に限って呆気なく渡してくれるとはな。何かあると思っていたが、君がいたのか」

「彼はとても狡猾で、ラファエルにさえ自らの存在を気付かせなかった」

「―――ラファエルとは基本的に馬があわない」

 応答しないソフィアに、イブリースは肩をすくめてみせた。

「私を殺さなかったのも彼よ」

「殺さなかった?」

 歩美も思わずソフィアと同じようにエメラルド・タブレットの境界に手をついた。

「その気になれば、彼は私を、今ここにいる人格でさえも殺すことができた。でも、イブリースは私の肉体を壊すことでヘブンから追い出したの」

「君が死ぬと、アズラエルは自責で死にかねない。何処かでソフィアには生きていてもらわなければならなかった。私も彼女を殺すことは本意ではなかった」

「イブリース。アズラエルは?」

「君の質問の前に、私の質問に応えてもらおう。ソフィア、君の側には既に後継者が居るのだね?」

「……ええ」

「では彼女は私が殺そう」

 まるで料理を作ってやろうとでも言うようにイブリースは歩美に視線を向ける。こちらが見えている。歩美は確信した。

「後継者を殺せば、再び碧玉はソフィアの物となり、ソフィアは今の擬似人格から個の人格として昇華する」

「アズラエルは私がすでに死んでいると受け入れているわ。イブリース」

「これはアズラエルの考えだったとしても?」 

 ソフィアは境界から手を離した。わずかに震える手で自分の口元を押さえている。今にも泣きそうな、触れれば壊れてしまいそうな複雑な驚愕を隠すかのようだ。

「ソフィア。君は私を勘違いしているようだ」

 イブリースはソフィアを慰めるような声を口にしながら、獲物を追い詰める眼光でタブレットの中の彼女を見つめた。

「私は一度としてアズラエルの意向に背いたことなどないのだよ。私は私であると同時にアズラエルの一部でもある。ある意味、君の瞳と似ている。瞳は宿主の物でありながら、それ自身が時間を移動し、継承される。私という能力も継承されたものだ。そもそも、私はアズラエルに逆らおうとしたことは一度もない。むしろ、彼の願いを叶えようと尽力してきたつもりだ」

「―――……貴方はアズラエルの隠していた欲望を自らで体言しているだけよ……」

 震えた手を握り締め、ソフィアは境界に手をついた。

「イブリース……貴方のために、アズラエルがどれだけ苦しんできたと思っているの?」

「ソフィア。君には見えているだろう。私という存在がなければ、アズラエルは一生、アースから出ることはできなかった」

「……アース? アズラエルが……?」

「アズラエルは、元はアースに住んでいた」

 イブリースはソフィアから歩美に生徒を移した。

「彼はヘブンとソドムの混血だ。だから、どちらにも受け入れられず、アースで十七年間を過ごした。だが、ヘブンに能力を発見され、連れ去られた」

「彼は、ソドムの人でもヘブンの人でもなく、アースの人間でもない……」

「そういうことだ。それに私は戦争などに興味はない。平和主義のアズラエルも戦争には反対した。利害が一致すれば、協力ぐらい惜しまない」

 手をのばす。イブリースの長い指がエメラルド・タブレットの表面に触れた。

「瞳の後継者。君に恨みなどないが、この世から消えてもらう」

 指先がぬるりとタブレットに滑り込む。溶け込むように入り込んだ指先はすでに手首まで達し、歩美達が触れていた境界を突き抜けた。

「そんな……!」

 ソフィアは歩美を連れて後退る。彼女の驚愕を他所に、イブリースの手は境界を裂き、外側から食い破るように境界に人が通れるほどの穴を開けてしまった。

 イブリースは、にぃと口の端を上げて、闇色の双眸を細める。

「このエメラルド・タブレットはアズラエルが作ったのだぞ? システムの解除法を私が知らない訳がないだろう」

 ソフィアは歩美を庇うようにして立つが、彼女の体は、震えていた。エメラルド・タブレットのソフィアと歩美だけが共有していた暗闇の空間にイブリースが靴音を響かせるたび、ソフィアの肩が揺れる。

「ソフィア」

 イブリースの声を間近で聞けば、彼女の背中から体温が引いていく。

 イブリースの声は、アズラエルの声でもあるのだ。

「君が私に抵抗できるとでも思っているのか?」

 だが別人の口調は辛うじてソフィアをこの場に止めている。

 そう。

 彼女はまだ大切なことを忘れている。

「無駄よ」

 歩美はソフィアに並んで、イブリースと対峙した。

「私を殺しても、ソフィアは貴方の世界に帰れないわ」

 ほとんど歩美を眼中に入れていなかったイブリースは初めてこちらを見遣った。

「無駄とは?」

「貴方は碧玉の瞳が欲しいわけじゃない」

「そうだな」

 イブリースは面白がるように歩美に視線を移す。

「ソフィアという人が欲しいんでしょ? 私を殺して碧玉の瞳を彼女に返しても、碧玉の瞳の転生は止められないわ。いずれ第二、第三の私みたいなのが現れるだけよ」

「……そうか。君は既に瞳を半分、手に入れている。つまり、瞳は不完全な状態。定着した瞳を半分に分割するようなことになれば、均衡が取れず……」

「体を失っているソフィアは消滅するわ」

「当然、体が残っている方が有利、というわけか」

 イブリースは自分の応えを含むように顎を指でなぞった。

「アズラエルは、瞳を解放すればソフィアの人格も昇華されると考えていたが、それは後継者が完全に瞳を取得している時点で起こりうるであろう予測であって、不完全な場合は可能性が限りなく零に近くなる」

「だから、私を殺せば、逆にソフィアの方が消えてしまう可能性が高くなるの」

「……歩美……」

 ソフィアが不安げに歩美を見るが、歩美は構わない。

 自分には見えていて、ソフィアには見えていないものがある。

 それは今、ソフィアと歩美が瞳を共有していることが原因だ。ソフィアには見えないことが歩美に見え、歩美に見えないことがソフィアに見える。

 イブリースは瞳が不完全だと考えたが、その実はエメラルド・タブレットの中に二つに瞳が存在することで生じる反発の結果であって、瞳は二つで一つ、ソフィアの瞳も歩美の瞳も欠損はない。

「ソフィア。思い出して」

「何を……?」

 焦げ茶の髪に縁取られた小さな顔を彼女は傾げる。

「このエメラルド・タブレットを貴女が作った、本当の理由を」

 タブレットに大きな穴が開いた。

 窓と言ってもいい。

 外は蒼い空が広がり、それは暗闇の空間を覆った。

「イブリース、アズラエル」

 呼びかけると辺りを見回していたイブリースは眉根を寄せた。

「何をした?」

「ヘブンと繋いだのよ。元々、エメラルド・タブレットはヘブンで作られたから時間は繋がっている」

「まさか……」

「私は元の世界に帰るわ。だからこれでお別れよ」

 歩美は思い切り、ソフィアをイブリースに向かって突き飛ばした。突然のことに体のバランスを崩した彼女をイブリースは難なく受け取る。

「ラグエルも連れて帰ってあげて。アズラエルが悲しむわ」

「―――――君は、瞳を手に入れていたのか」

 険しい黒の瞳に睨まれようと、歩美は笑ってみせた。

「ハズレ。そもそも瞳は二つで一つなのよ。能力が分割されることはないの」

 ソフィアの肩を抱いたまま押さえつけているイブリースを確認すると、歩美は二人から離れる。

「ソフィアを連れて帰るのね。今しか無いわよ。私が瞳を継承したこの時しか、ソフィアに触れることなんてできないもの」

 既に体を失い、碧玉の瞳の影響で転生すらできないソフィアを得るなら今しかないのだ。いかに死の認識がないソドムといえど、意識体にも寿命がある。

「駄目よ。歩美!」

 ソフィアがイブリースの腕の中でもがくが、彼がしっかりと彼女を捕まえてくれている。

「帰れるのよ。ソフィア」

「違う……違うの!」

 必死にソフィアは腕を動かすが、イブリースの腕を振り解くことができない。

「確かに今回(・・)は(・)、いつもと違う…! でも、このままでは、貴女が壊れてしまうわ! 歩美!」

「私は正気よ」

 確信があった。

「このまま戻れば、私は無事、電車に轢かれるわ」

「違う!」

 ソフィアはイブリースの腕を掴んだ。

「お願い! アズラエル! 起きて! イブリースは知らないのよ! 彼女の未来を!」

「大丈夫よ。ソフィア。アズラエルとお幸せにね」

 エメラルド・タブレットを作った本当の理由は碑文に刻まれている。

 一つのものの驚異を成し遂げるにあたっては、下にあるものは上にあるものに似ており、上にあるものは下にあるものに似ている。

 三世界を知る者。

 そして万物は、一つのものの仲立ちによって、一つものから成ったように、万物は順応によって、この一つのものから生まれた。

 三世界の血を引く者。

このものの父は太陽で、母は月である、風はこのものをその胎内に持ち、その乳母は大地である。

このものは全世界いっさいの仕上げの父である。その力は、もし大地に向けられれば、完全無欠である。

 知られてはならない秘密。

汝は、土を火から、精妙なものを粗雑なものから、円滑に、極めて巧妙に分離するがよい。それは大地から天へ上昇し、再び大地へ下降して、優れたものと劣れるものの力を受け取る。かくて汝は、全世界の栄光を手に入れ、一切の不明瞭は汝から去るであろう。

このものは、すべての剛毅のうちでも、いやがうえに剛毅である。なぜなら、それはあらゆる精妙なものに打ち勝ち、あらゆる個体に浸透するから。

 かくて大地は想像された。したがって、このものを手段として、驚異すべき順応がなされるであろう。

 ソフィアの全ての秘密を知る権利を彼に譲った。

このため私は、全世界の哲学の三部をもつ三重に偉大なる者と呼ばれる。私が太陽の働きについて述べたことは以上で終わる。

「ソフィアを連れ戻せるのは、アズラエルしかいないのよ。―――ソフィアが唯一、心を残していった貴方しか……」

 エメラルド・タブレットはソフィアがアズラエルに託したものなのだ。

 空間に広がった大空はラグエル、ソフィア、イブリース共々収縮を始めた。瞳の力で広げたヘブンへの道である。元ある場所へ引き返す力が彼らを収束しているのだ。

「ソフィア!」

 イブリースが歩美へと手を伸ばした。

 その瞳は赤い。

「アズラエル……」

 彼らの足元は既に空にあり、アズラエルが伸ばす腕は歩美には届かない。

「これで私も帰れるわね」

「違う! 君はもう、帰れない!」

 空色に巻き込まれながら、アズラエルとソフィアは必死に歩美の腕を取ろうとする。だが、歩美は彼らからわざと離れた。

「そうね。私は元の生活には帰れない。安心して。この瞳は私が大事に持って逝くわ」

 ソフィアから瞳を奪い、瞳を持ったまま歩美が死ぬことで瞳の転生は歩美で止まる。それは、瞳の影響を受けた者が世界に二人存在したことによる副作用だ。

 これから死ぬために帰るというのに不思議と震えはなかった。

 電車が来るあの時に帰るのだ。

「行くな!」

 既にソフィアもラグエルも空に帰った。最後まで残っていたアズラエルも上半身を残すのみとなっている。

「それは誰を呼んでいるの?」

 応えて笑うと、アズラエルは伸ばしていた腕の力を緩めた。

「さぁ、帰って」

 空がアズラエルを飲み込む。

 彼は無言で歩美を見つめた。

「そんな顔をしないで。ソフィアが待っているわ」

 三人を飲み込んだ空はすぐにエメラルド・タブレットを修復する。だが、

『―――……また、迎えに行く』

 空が無くなる数瞬前に、アズラエルの声が暗闇に響いた。

「……いいえ。アズラエル。貴方が迎えに来たのは、ソフィアよ」

 そしてソフィアは既に彼の手に。

「エメラルド・タブレット。私はもう元の世界に帰るわ」

 呟いた歩美の声に従って、タブレットは移動を始めた。

 時間と空間をほぼ一瞬のうちに遡り、歩美は目を閉じる。



 手に鞄の感触が戻っていた。

 目を開けば電車の警笛が聞こえる。

 明るいヘッドライトが全身を打った。

「あ」

 また、遺書の入った鞄を持ったままだ。

 歩美は苦笑しながら、踏み外した足をそのまま投げ出した。

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