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碧玉の瞳  作者: ふとん
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 排気ガスのスモッグに霞んだ朝日を思う人もなく、その地下の駅はごった返していた。

 その面々は多種多様でしめられている。まるで何かのカーニバルでもあるのかというほどの混み合いだが、人々の表情は心なしか不機嫌だ。

 いつもの朝の光景だ。

 そんな人ごみの中で、彼女は小さく欠伸をした。カラスの濡れ羽色のごとく真っ黒な髪をおさげにした、今時珍しいほど質素な容姿の学生である。ブレザーとプリーツスカートよりも時代錯誤的なセーラー服が似合うだろう。肩に掛けた流行の鞄が辛うじて彼女を現代にとどめているようだった。

 プラットホームに立つ彼女は他の人々同様、少しつまらなそうにうつむいて、自分の足先だけを見ていた。

 ざわめきの中で女声のアナウンスが地下鉄の到着を告げる。

 苛立った雰囲気さえ含んだ群集が少し息をつく。その手前を耳障りな音とともに電車が通り過ぎ、風を撒き散らして漸く止まると、空気が抜けるような音とともにドアが一斉に開く。

 音に促されて人々の足はドア先へと集中し、箱に自らを積み込んでいく。

 彼女も足を踏み出した。サラリーマンの後をついて、電車の中へと入る。

 少しでも身じろぎすれば、他人の足を踏んでしまいそうになる車内に彼女も立ち入った――。


 ――そのはずだった。


 まばたきの瞬間。それは刹那の出来事である。

 彼女は車内を見回した。先ほどまで彼女の前を歩いていたサラリーマンの姿はない。それどころか、座席にいたっても誰の姿もない。後部車両へと続くドアも開け放たれて、トンネルが延々と続いているようでもある。

「な…なに…?」

 思わず声を洩らしたが、彼女は咄嗟に口を閉じた。自分の足元から、まるで沼から這い上がってくるように灰色の腕が伸びてきていたのだ。何かを求めるようにうごめくそれは、地獄の死者の腕にも見えた。

 その後ろでドアがゆっくりと閉じた。

 彼女は咄嗟にドアをこじ開けようと取っ手に手をかけるが開かない。

 地下鉄はそろそろと動き始め、徐々に速度を速めていく。

 彼女がドア脇にある緊急用の手動切り替えボタンを叩き押そうと手を伸ばした時には、電車は長いトンネルの中へと滑り出していた。

 暗闇の中で移り変わるトンネルの壁を見つめて、彼女は半ば茫然と脱力する。

 そんな彼女の足を引っ張るものがある。

 視線を落すと、彼女の足には床から這い出してきた灰色の腕が三本絡み付いている。

「っ!」

 彼女は声も出せずに顔を引き攣らせる。足首からふくらはぎ、そして膝まで這い登ろうとしている腕に体温はない。まるで氷だ。

 彼女は眩暈を起こしそうになったが、意を決してその腕をカバンで叩き払った。腕は驚いたようにふっと力を抜いて、床に落ちる。

 なおも這い登ろうとしていた腕を全て叩き落すと、彼女は後部車両に向かって走り出した。

 ふと彼女は走りながら振り返る。今までいた車両には床を埋め尽くすほどの腕が空を掴んでは何かを求めている。

 彼女は泣きそうになりながら、車両を走りぬけた。

 走り抜けていくと同時に、通り抜けた車内の電灯がガターンという奇妙な音ともに消えていく。音の余韻が彼女を追う。

 不気味な腕、謎の音、消えていく明かり。彼女は恐怖に顔を引き攣らせる。

 恐怖と連動するかのような膝からの震えで足がもつれて彼女は倒れこみそうになる。だが、彼女はかろうじて歯を食いしばり、走りつづけた。

 十二両編成の車両はあと少しだ。

 目の前に最後尾の車両が見えてきた、その矢先。ズゥンと腹の底から揺さぶる大岩を砕くような大音響が彼女の背後から響いた。

 かぶさってきた大きな影に彼女は思わず振り仰ぐ。

 それは、異様としか言いようのないものだった。電車の天井につかんばかりの上背の、床が沈み込みそうな巨体である。男とも女ともわからない、でっぷりと太った体は漂白したように白い。そしてその首のない顔についているのは、奇妙に笑った仮面だった。

 巨体に耐えられないのか、床はきいきいと軋み、今まで彼女を追うように這いつづけていた腕たちはいつのまにか姿を消していた。

 ただ不気味な仮面が彼女を見下ろしている。

 彼女はそれを見上げたままあとずさる。

 仮面は動こうとはせず、ただ彼女を見つめ続けている。

 彼女は素早く仮面に背を向けて走り出そうと、足を大きく踏み出した。だが、彼女は思い切り何かにぶつかった。

 勢いのまま跳ね返されて、彼女はしたたかに尻もちをつく。

「―――…っ!」

 意識が飛びそうになりながらも、彼女は自分に覆い被さった影に気がついて見上げる。

 仮面の巨体が腕を伸ばして、今しも彼女の首をもぎ取ろうかと言うように手の平を大きく広げている。

 彼女は絶望に襲われて目をきつく閉じた。





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