18
扉を蹴破ったのは、一人の男だった。
黒髪に眼鏡の、紅い双眸。
アズラエルである。
彼はひとしきり、飛び込んだ部屋を警戒するように見回したが、やがて一つのドアを見つけて足を向けた。
そして、視線の先にあるものを見つけて愕然と顔をしかめた。
「―――やはり、これが……」
うめいた彼の目は確信と困惑で揺れた。
「貴女を探しに来たのね」
レミエルを見送った後、残ったのはただの暗闇だった。だが、目を凝らすだけで、瞳には何処の景色もテレビを見るように見渡すことができた。
その暗闇を唯一共有できるソフィアが歩美の隣で呟く。
「貴女が今の瞳の所有者だから…」
「ねぇ」
歩美はソフィアに向き直る。
「なぜ、アズラエルとラグエルは私を保護したの?」
「いいえ。保護ではないわ。ラファエルが出した指令は監視」
ソフィアは途端に目を細めた。
「彼等の元々の指令は、エメラルド・タブレットの奪還」
「ゲイリー……レミエルが盗んだ?」
「そう。意識体となって彷徨っていたレミエルが何故かソドムに落ちて別の人格として固有の存在となった。彼はエメラルド・タブレットのために生かされた」
「何のために?」
「それは……」
彼女達の眼前まで、アズラエルが歩み寄っている。
恐らく舞台にあるエメラルド・タブレットに近寄ったのだろう。歩美達はそのタブレットの内部にいるが、こちらから何かしない限り、アズラエルが気付くことはない。
「ああ、それがエメラルド・タブレットね」
もう一人の声が本の劇場に響いた。
薄暗い闇に立つ長身はお伽話のように端正な顔立ちで、肩までの茶髪にジーパン姿もさまになっている。
「……ラグエル」
アズラエルは不機嫌さを隠そうともせず低く呟いた。
「おいおい、そんなに怒るなよ」
「……お前、本当はここへ何をしにきた」
挨拶もせず詰問するアズラエルに、ラグエルは肩透かしをするように肩をすくめる。
「何って任務さ。アズラエルと同じ」
「―――……ソフィアを殺すように言われたのか?」
殺気を感じて、歩美の方が少し息を呑んだ。彼等には歩美が見えていないはずだが、彼女の背筋には鳥肌が立った。
当のラグエルはあからさまな敵視をものともせず、微風が吹いたかのごとく口の端をあげた。
「アズラエルこそ、任務を忘れたのか? 俺達の任務は、エメラルド・タブレットの奪還と破壊だぜ?」
「なら、彼女は関係ないはずだ」
アズラエルのいつもの無関心からは考えられないほど語気が荒い。
「それこそふざけるな。彼女は瞳の継承者だ。タブレットと関係がないどころか元凶じゃないか」
ラグエルはいつもの空っぽな笑みをアズラエルに返した。
「エメラルド・タブレットってのは、瞳が重要な鍵だろ? なら瞳がこれ以上転生しないようにすることも含まれているのは当然じゃないか」
アズラエルは言い返すことができないのか舌打ちをする。
「……ソフィア。これ、本当?」
事態を眺めていた歩美は不安になってソフィアを見遣る。彼女は、淡々と肯いた。
「瞳が目覚めた状態で、私と貴女の意識体が揃っている今なら、エメラルド・タブレットを完全に破壊できるわ」
「もう、転生しなくて済むの?」
「―――……そうね」
それが、幸福か不幸かはわからない。だが、ソフィアには転生したくない理由がある。
「そっか……。ソフィアには大切なことがあるからね」
暫く押し黙っていたアズラエルが口を開いた。
「……やはり、エメラルド・タブレットを盗んだレミエルがギに居ることを知っていたな? ラグエル」
「だとしたら?」
ラグエルは小首を傾げる。
「ヘカテの庭で襲ってきた鳥の意識体がレミエルのものだとわかっていたから、わざと鳥の呪縛を解かなかった」
「そうだね」
「真実の森でソフィアに俺の過去を見せた」
「それは偶然だよ」
「ギの国で殺せと命じられた時、俺の黒眼を呼び出した」
「そうでなきゃ、ソフィアが逃げられなかった」
「……そうして混乱を誘い、ソフィアを街へ逃がし、レミエルに発見させた」
「お見事」
すごいすごいとラグエルはおざなりな拍手を送る。
「どうして、彼女を逃がした!」
アズラエルは怒号で拍手を一蹴した。
「誰だって、死ぬのは怖いだろう?」
「彼女は、あそこでソドムでの意識体を亡くせば元の世界に戻れた!」
「!」
思わず息を呑み、ソフィアに目をやる。彼女はアズラエルとラグエルをじっと見たまま、口を開いた。
「……そうね。貴女の場合、アースに本体が残っているからこの世界では死なない。だから、その機を狙ってアズラエルは貴女を繋いでいるソドムの意識体を消した反動でアースに帰そうとした。それは、ギの国の姫も承知だったの」
「だから、私の首を刎ねると……?」
「彼女は瞳に関しては寛容よ。大局の一部として瞳の存在を考えているから、便利な手駒としても使えると判断したのね」
「要は、考えようってこと?」
「自然の摂理はとらえ方一つで、変化するの」
ラグエルは困ったように眉根を寄せた。
「驚いたよ。彼女が瞳の継承者だって、君が一番わかっていたはずなのに、ソフィアをアースに帰そうとするなんてね」
「―――……彼女はもう、アースに居るんだ。ヘブンの事情に振り回す必要はない」
「それじゃ困るよ。エメラルド・タブレットの破壊はソフィアと、もう一人のソフィアの抹殺が不可欠なんだから」
アズラエルは歩美達を、エメラルド・タブレットを庇うように立った。
「もう一度言う。……もう、ソフィアを解放してくれ」
ほとんど懇願に近いアズラエルの言葉に、ラグエルは目を細めて息を吐いた。
「アズラエル……。僕は君が嫌いではないよ」
でも、とラグエルは笑んだ。
「そういうところは嫌いだ」
同時に彼は両手を突き出していた。
手の平からは複数の光が文字となって溢れ出ている。
円陣を組むそれはアズラエルがラグエルに飛び掛るよりも早く彼を捕えた。
「………がっ!」
アズラエルの体に巻ついた文字は、次第に彼の体へと染み込んでいく。そのたびに、アズラエルは呻き声を上げた。
「ソフィア……」
「駄目よ。歩美」
ソフィアは歩美の口を押さえた。
「今は貴女自身のことを考えて」
歩美は何のことかわからず顔をしかめた。
「私は、忘れていた過去を思い出した」
あの、硝子の廊下の惨劇だ。
「歩美、貴女も忘れていることがある」
「……忘れていること?」
「そう。とても大切なこと」
「……大切なこと」
ソフィアの言葉に導かれて、歩美の視界からアズラエルとラグエルは消えた。
「貴女の小さい頃は?」
「普通よ。みんなと同じように幼稚園に行って……」
「いじめられていたわね」
「いじめは今まで付きまとっていたわ。でも何とか生きてきた……」
優しい両親と、いじめられてはいたが友達もいた。
「小学校の思い出は?」
「林間学校よ。四年生の」
「中学校の思い出は?」
「文化祭。みんなでバザーを開いた」
「高校は?」
「高校………」
そう。
あの日も地下鉄に乗って。
大切なこと。
「あの日は。いつもより遅く家を出た」
「ソドムに落ちた日?」
「そう。あの日」
「地下鉄に乗って学校へ?」
「………違う」
学校へ行こうとしていたんじゃない。
忘れていた。
「私は……地下鉄に乗ろうとしたんじゃないの」
本当は地下鉄が来る前に。
「線路に飛び降りようとしていたの」




