晴れた空を夢見て
__20xx年4月1日午後4時1分
そのときを境に我々は晴れた空を見ていない。
雨が降りしきる世界で、我々は生きていく他ないのだ。
神の泪と呼ばれる異常気象は、世界を水底へ沈めようとする。自然現象をどうにかする術は科学がどんなに発展しようと得られなかった。
それでも、人間が生きていける環境を整えようと人類は空一面に傘を差した。
ガラス張りのドームは避難所として指定された各町ごとに設置された。
旧約聖書の逸話に則り、方舟と名付けられたドームは雨止みを待ち続けている。
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民間組織:ノアの方舟
方舟を僅か半年で完成まで漕ぎ着けた天才 箱舟ノアが立ち上げた組織。主に方舟のメンテナンスを担っている。
立ち上げメンバーは、0227、61256353、61256354。
現在は3000人を超えるメンバーがいる。
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市民番号 61256354
他船葉乃
身長186cmの長身。腰まで伸びた白髪ストレートをポニーテールにしている。アクアマリンを思わせる切れ長の碧眼。その美貌は、人から青空の権化と称される。アセクシャルを自称する男。
民間組織「ノアの方舟」に所属している。財務担当で組織のナンバー3。
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「ノアの方舟」という組織は思いやりでできている。
それはリーダーたる箱舟ノアが掲げる組織の理念が「おもいやり」だからなのか、はたまた皆の人柄がもともと聖人並なのかは分からないが。
誰もが誰もに尊敬の念を抱く。
そうしていつか、
青空の下、海にでもバーベキューに行こう。
それが方舟の掲げる目標だ。
「ノアの方舟」に所属するメンバーはどの支部でも、懸命に人類の環境の維持改善へ努めている。
最近は方舟三番地と四番地の行き来が水中トンネル開通により可能になったが、未だ世界は混沌を極めている。
ガラス張りの世界から外を眺めても、スノードームのように頽廃した世界に水が満たされているのみだ。実際に見られているのはこの狭いドームの中なのだろう、神様が本当に存在するのならばの話だが。
人類はいよいよ天気さえ認識出来なくなっている。分からなくたってどうせ雨、と決めつけることは可能で、今日も今日とて水位は増しているらしい。
ここは方舟二番地。「ノアの方舟」本社が位置する元横浜。中華街は寂れ、在りし日の有名店の看板は傾いている。使われなくなった建物は別の誰かが入り、家や店へ改装している。その二番地の中央に柱のように位置している大きな建物が方舟の本社だった。
他船葉乃は方舟の本社に所属している。今日も部下を引き連れて、倒れた看板や倒壊した建物の残骸の撤去作業に追われていた。そういった粗大ゴミはドームの外へ出す。何れ元通りの世界を夢見ているとはいえ、限りある人間が生きられることが可能な地域はなるべく有意義に使用したい。
他船葉乃を含める立ち上げメンバーはファンクラブが存在する。誰もが誰もを尊敬し合おう、というキャッチコピーを掲げる方舟の中でも殊更メンバーからの敬愛が重い。恋慕の念を向けているメンバーも少なくない。
作業の合間の無駄話は専ら立ち上げメンバーの話なのだ。今日は葉乃が現場にいるからか、葉乃の話が多い。
「葉乃さんってほんとかっこいいよな」
「わたし、葉乃さんに憧れてここに入ったんだよね」
「他船先輩って何かに困ってるとこ想像できないよな、何ができないんだろ」
ノアから頂いた称号はオム・ファタール。魔性の男扱いに葉乃は納得いっておらず、その称号はノアにこそ相応しいと思っている。
もう10年も見ていない青空を冠する男。箱舟ノアの左腕。
その他数多の称号を大事に抱えて葉乃は生きている。実は、過度な期待も責任も自分が預かるには重すぎて、重圧に押しつぶされてしまいそうだと言い出すことができずに。
「今日はここで撤収しましょう。本社に戻るのならばいいのですが、直帰の方はお気をつけて」
葉乃は本社に戻り、そのままエレベーターの最上階のボタンを押した。最上階にたどり着くまでに何人かが乗って降りたが、着いた頃には中には一人だけだった。
目的地は突き当たりの部屋。ガラス張りの壁に一瞥もくれず、早足で向かう。ドアはこの時代には珍しく木製で、こだわりを感じる。金属のプレートを確認するまでもなく、ノックを3回。ガチャッとドアを開けて中に居るであろう友人を驚かすのもありかと一瞬考えもしたが、親しき仲にも礼儀あり。
「どうぞー」
中から間延びた声がしたのを確認し、ガチャリとドアノブを捻る。ドアは押すタイプで、鍵も掛かっていないのであっさりと開く。
幾ら人が寄り付かないといっても最低限昔を忘れるべきではないと葉乃は再三言っても聞き入れられないので最近忠告するのを辞めた。
木製のドアに似合うドアベルがリンリンと音を立てて、葉乃を出迎える。奥へ進めば、後ろから段々と小さくなるその音に混じってドアが閉まる音がした。
「失礼します」
親しき仲にも礼儀あり。礼儀を欠いて怒られることはあれど、礼儀を尽くして怒られることはあるまい。
相手は友人であると共に上司でもあるからして、執務室に入るのならこれくらいは妥当なのかもしれない。この間柄に上下関係はあってないようなものなので葉乃には無縁の話なのだが。
ふわりと花の匂いがした。葉乃にはこの匂いに覚えがあった。百合の匂いだ。方舟のナンバー2である仄馬深嶺が愛用している香水の香りだ。
「遅かったね」
深嶺は部屋の右側のソファに深く座っていた。どうやら、先に着いていたらしい。幾ら葉乃が入り口で時間を使っていたとしても、今日は深嶺の方が時間がかかると思っていたので驚いた。
「一ノ瀬さんにばったりあって」
葉乃は手に持っていた紙袋を持ち上げて揺らしてみせる。中身はクッキーであったはずだ。手作りの練習したのであろう整った形のクッキーにチョコペンめ少し個性的なイラストを描かれた可愛らしいクッキーだ。別の贈り物と勘違いをしていなければ。
送り主は一ノ瀬咲楽という葉乃に想いを寄せている少女で、まるっこい文字で紙袋の片隅に記名されている。
「まーた部下引っ掛けてる」
鈴の音のようにくすくす笑う深嶺を後目に左のソファに背を預ける。
執務室に設えられたふかふかのソファは入って右がナンバー2、机を挟んで左がナンバー3の特等席となっていて、奥が部屋の持ち主であるナンバー1の定位置になっている。
「そういう深嶺だって雨森さんに付きまとわれてなかった?」
深嶺は深嶺でメンヘラを引っ掛けやすい性質がある。もちろん、スタートラインは皆同じ尊敬なのだが想いが有り余りすぎた少年少女と大人が溢れている。
雨森遥斗も深嶺に人生を狂わされた一人である。
「ちゃんといいこでお留守番させてるからだいじょうぶ」
そして、深嶺はマインドコントロールでもしているのかメンヘラの管理が上手かった。だから、事案になるほどの問題は起きたことがない。葉乃もノアもそれを信用して放任している。
「モテ自慢終わった?」
やれやれと言うような呆れた様子の男がガチャりと部屋のドアを開け、手に取っていた本を本棚へと戻し、ゆったりとした動作で正面のソファへ腰掛ける。遅れたことへの謝罪などなく、それがさも当たり前のように振る舞う。そして、現に葉乃も深嶺も気にした様子は無い。2人が遅れても気にしないタイプなのか、それくらい間柄が近しいからなのか。本人たちもやらかすのか、理由は分からない。
現れたのはこの部屋の持ち主、またの名を1番のモテ男。
「メンヘラ製造機にだけは言われたくない」
口を尖らせる深嶺は不貞腐れた様子でくず籠を指さす。そこには雑に押し込められたラブレターがぎゅうぎゅうに詰まっている。
深嶺曰く、メンヘラ製造機。葉乃曰く、信者製造機。彼に惹かれたものは忽ち箱舟ノアを盲信する。一種の宗教かもしれない、とそろそろ笑えなくなるほど膨れ上がった規模はこの自棄になった世界で方舟が成り立っている最たる理由だった。
「ところで、今回の招集の理由は?」
こうも不貞腐れてしまうと、後が長い。葉乃は今までの経験からさっさと話題をずらした。丁度良い事に本題というメインディッシュが残っていたから。
にかりと満面の笑みを浮かべるノア。葉乃も深嶺も、その表情に良い思い出は無い。
これは、無茶振りをするときの顔だ。
「とある喫茶店に就職してもらおうかなって」