偽りの形4
「楓!」
深い思考の底に沈んでいた楓を引き上げたのは、耳に届いた愛しい人の声。
遠くから響いた音は小さくとも、その声がいったい誰のものなのか楓にはわかった。
声の聞こえた方へ視線を飛ばしてみる。
すると、グラウンドから楓のいる屋上を見上げているアキラとちょうど目が合った。
まるでそれが合図だったかのように、己を呼ぶ声の元へと楓は駆け出していた。
走り出しながら、速人にはしっかりとさよならを言って屋上を出る。
実際、声をかけてはいるものの楓の視界に速人の姿は映っていない。
たった1つ以外、他のものなどいっさい目に入っていないかのように階段を駆け下りる。
速人にはあいさつを返す時間もなかった。
ほんの一瞬だけ捉えることのできたのは駈け出した楓の横顔で、そこには柔らかな笑みが浮かんでいた。
先ほどまでの冷めていたはずの楓の心は、アキラの一言ですでに温かくなっていた。
楓は知らない。
何のためらいもなくあっさりと駈け出した楓の後姿を見ながら、速人が浮かべていた表情を。
「お前を滑稽だなんて、俺には言えないよ」
温かさを取り戻した楓の代わりに、熱を失ったかのような冷めた笑みを速人が浮かべていたことを。
「なんたって1番滑稽なのは、この俺だから」
風に乗った言葉は、楓が駆けて行った場所とは反対の方向へと流れて行く。
楓へと届かないままに。
肌寒い風と眩しい太陽の日差しが調和して外で遊ぶにはもってこいの天気。
グラウンドを駆け回る者も少なくはなく、その多くは男子生徒で、彼らは1つのボールを追いかけ回している。
右へ左へ、前へ後ろへ、息を切らして隣を通り過ぎて行く友人たち。
その姿を眺めながら、小さなため息が1つアキラの口からこぼれた。
ゴールを決めようと躍起になっている者がいる。
ボールを奪おうと呼吸を乱しながらも走る者がいる。
そんな友人たちを見たところで、アキラにはたいしたやる気も起きなかった。
無気力にただ周囲に調和しながら足を動かす。
それはすでに走るという動作とは呼べないお粗末なものだった。
ぼんやりと彷徨っていた視線が、ふと空へと飛ぶ。
日差しが強い。
照りつける太陽がうっとうしく、憎らしいくらいだ。
眩しすぎて視線を上げることさえままならない。
堪らず顔を逸らしたところで、視線が校舎を横切った。
ほんの一瞬。
それでも確かに捉えたものがあった。
照りつける太陽の近く、校舎の上に佇む2人の姿。
今この時も、だらしなく動くアキラの姿を彼らは見ていることだろう。
ならばここは己の勇姿を見せつけない訳にはいかないというものだ。
グラウンドに視線を戻し、すぐにボールを持った者を見つけ出すとすかさずボールを奪い取る。
風を切り、敵のディフェンスを掻い潜る。
あと少し、ゴールまで残り僅かの距離まで来ると、浮足立つ心が自然と笑みを浮かべていた。
ボールを奪い返されることもなくアキラはシュートを放った。
鋭いボールがゴールへと突き刺さり、ネットを揺らす。
喜びを浮かべるチームメイトの駆け寄りながらも、アキラは屋上を見上げた。
応援してくれただろう2人に手を振ると、しっかり振り返してくれた。
ここから彼らの表情を見ることはできない。
いくら目を細めたところでわからない。
すでに楓の視線はアキラから離れていた。
果たして彼女は喜んでくれただろうか。
彼女の笑顔を見たいと思う。
考えるよりも早く、遠くにいる彼女へと届くほどアキラは声を張り上げていた。
楓の姿はすぐに屋上から消え去った。
冷たい風が頬をなで、髪を揺らす。
運動直後のアキラにとってそれは心地よい贈りもの。
やさしい風はきっとすぐき彼女のこともアキラの元へと送り届けてくれるはずだ。