波乱の幕開け5
廊下を歩いていると昼休みの終わりを知らせるチャイムが鳴った。
午後の授業の始まりが近いため、生徒の姿は見られない。
閑散とした場所を足早に通り過ぎ、保健室の前で立ち止まる。
無言のまま保健室のドアを開けたが室内には誰もいなかった。
先生は不在のようで、鍵は空いていたものの室内は薄暗くひんやりとした冷気が漂っている。
手早く暖房を入れてから、そのまま真っ直ぐにベッドに向かう。
カーテンを閉める音がやけに耳についた。
楓は勝手にベッドに入り込み頭からすっぽり布団を被った。
カーテンと布団で2重に覆い、外の音を完全に遮断する。
今は何も聞きたくない。
ただ、ひとりになりたいと、そう思ったから。
目を閉じて真っ暗な世界にいた。
果ての見えない闇の中、楓は膝を抱えてうずくまる。
体を小さくしてできるだけ目立たないようにする。
誰にも見つけられないように丸くなって、真っ暗な海を漂う。
流れに身を任せて、行きつくところまで。
ふわふわ、ふわふわ。
遠くで小さな音がなった。
それはおそらくドアを開く音で、楓は保健の先生が帰って来たのだと思った。
声をかけられるのも億劫だったので寝た振りを決め込む。
カーテンが開かれても楓は動かなかった。
誰が寝ているのか確かめるためだろう、布団を頭から退けられる。
それでも楓は微動だにしない。
狸寝入りがばれやしないかと少し緊張しながらも、楓が眠っていることを確認して、相手が大人しく去って行くのを待つ。
しかし、いくら待ってもその時はなかなかやって来ない。
痺れを切らせた楓がこっそり確認しようとまぶたを開きかけた頃、ようやく相手が動いた。
楓は慌てて開きかけのまぶたを閉じる。
だが、離れていくものと思っていた気配は相変わらず動くことはなく、さらに、相手は楓の予想に反する行動に出る。
起こすつもりなのかは知らないが、寝ている相手に声をかけてきた。
多少ボリュームの抑えられた遠慮がちな声が降ってくる。
保健室の乾いた空気のためか、その声はかすれていた。
それでも確かに楓の耳に届いた声は、思いもよらない人物のものだった。
ずっと一緒にいたい。
だけど、今は最も会いたくない大好きな人。
「かえで?」
聞こえないふりをする。
「寝てるのか?」
黙ったまま動かない。
それでもアキラは繰り返した。
己を呼ぶアキラの声は甘くて、でも後に残ったほろ苦さが切なかった。
「なあ、かえで。・・・聞こえてる?」
最後にもう1度名前を呼んだ後、アキラはついに何も言わなくなった。
2人の間に沈黙が流れる。
ベッドの横に立ちつくすアキラも、まぶたを閉ざしたままの楓も、2人とも頑なに動こうとはしなかった。
保健室はまたも静寂を取り戻していた。
もうアキラは口を閉ざしてしまったというのに、何度も何度も、頭の中で彼の声がこだまする。
かえで、かえでと。
聞こえてるよと、声に出さずに返事を返した。
だから、もう私を呼ばないで。
不意にベッドが沈み込み、顔を隠すようにして置かれていた楓の手と、無造作にベッドの上へと置かれたアキラの手が、互いに触れ合いそうなほど近づいた。
その距離に楓は一瞬で身を凍らせた。
指先に緊張が走る。
そんな楓を嘲笑うかのように、さらに温もりは延ばされる。
直後、すぐに楓の髪をすくものがあった。
丁寧に髪の間を通される温もり。
くしゃりと髪をかき混ぜ、頭をなでる掌。
楓は最初、その正体がわからなかった。
だけど、それがアキラの手だと気付くのにさほど時間はかからなかった。
その手の感触が、大好きな彼の手と全く同じだったから。
バスケで鍛え上げられた大きな手で、アキラが触れている。
気付いた瞬間、涙があふれそうだった。
今、この瞬間、楓に触れるアキラの手は確かにそこにある。
その事実が嬉しくて、だけど、悲しくて。
その手はもう楓のものじゃない。
アキラはもう中井愛美のものなんだよね。
温もりが去って行く。
引き止めてはだめだとわかっている。
それでも、離れて行く手をとっさに楓は掴んでしまっていた。
同時に、閉ざされていたまぶたも開けられて、視界が解放される。
己の取った行動を認識できず、楓はぼんやりしながら開けた視界にアキラの姿を収めていた。
突然手を掴まれて、アキラは驚いたようだったがすぐに表情を緩めた。
苦笑いにも似た穏やかな笑みを浮かべている。
「ごめん」
「アキラ?」
謝られた意味が理解できずに、楓は困惑してしまう。
なんと言っていいのかわからず、無意識に彼の名前を呼んでいた。
「せっかく寝てたのに、邪魔した」
「?」
「起こしてごめんな」
本当に申し訳なさそうに謝りながら、アキラは掴まれた手を握り返した。
楓の顔には安堵の色が映る。
「ううん、いいの。アキラの手、温かくて気持ちいい」
告げられた言葉に、アキラの顔には本物の笑みが広がる。
謝罪ではなく今度はお礼を言ってから、アキラの手は離れて行った。
そして、楓も再びその手を引き止めたりはしなかった。
離れて行く手を見ないようにして、ベッドに寝転んだままアキラの顔を見上げている。
「それより」
「ん?」
「アキラこそどうしたの?保健室に来るなんて、具合でも悪いの?」
「いや、この通り元気だけど」
「だって、5限はアキラの好きな体育なのに・・・もしかしてさぼったの?」
アキラはちょうど楓の腰付近に座り直している最中で、楓のさぼり発言に顔をしかめる。
目に見えて動作が荒っぽくなったが、ベッドは小さく音を立てただけだった。
「さぼったなんて人聞きの悪い」
「だってそうじゃない。元気なのに保健室にいる」
「もっと大切な用事があったんだ。俺だっていくら体育が好きでも他に優先するものだってあるんだよ」
「体育より優先順位が上なの?嘘、なあに、それ?」
皆目見当も付かないという様子で首をかしげる楓に、アキラはため息をついた。
「楓」
本人を見ることなくぼそりとつぶやく。
「かえでって・・・私のこと?」
「お前以外に誰がいる?」
予想外の言葉に茫然としてしまった楓をアキラは呆れた様子で見返した。
「教室から出て行った時、すごく辛そうだった。
あんな顔をされたら気になって体育どころじゃないに決まってるだろ」
「えっと、それって・・・心配してくれたってこと?」
「当り前だろう」
遠慮がちに言葉にされた問いにためらうことなくアキラは肯定してみせた。
楓の顔に笑みがこぼれた。
先ほどとは違い、ただ純粋に嬉しさだけが映る。
単純だと思う。
アキラのたった一言で、こうも笑顔になれる自分が。
アキラの言葉は、楓にとってまるで魔法のようだった。
「ありがとう、アキラ。心配してくれてありがとう」
嬉しさのにじみ出る楓の笑顔につられてアキラも笑う。
「なんだか元気が出てきたかも。アキラが側にいてくれるからかな」
「じゃあ、ここにいるからもう少し寝てろよ」
己がめくった布団を肩まで掛けなおして、子どもを寝かしつけるようにその上からとんとんと優しく叩く。
「眠るまで子守唄でも歌おうか?」
「アキラの音痴を聴いてたら逆に眠れなくなっちゃうよ」
「俺は音痴なんかじゃない」
「自分では気づいてないだけでしょう?」
「よし、わかった。今から俺が音痴じゃないって証明してやるからよく聴いてろよ」
「やーだよ」
2人の間には自然と穏やかな空気が広がっていた。
笑顔のあふれる心地よい会話が楽しくて、眠りたいだなんて思えない。
彼が笑って、私が笑う。
楓の望んだものがそこには確かに存在していた。