風邪ひいた
天高く馬肥ゆる秋。
澄んだ青空のもとミレイ妃が住まう後宮の一角では、庭に集った女達の楽しげな声が響いていた。
「ほぅれ!」
「命中!」
「さすがはミレイ様!」
「ほれ、お前達も。命中したら褒美をあげるわ」
きゃあきゃあと、年若い侍女達が楽しそうに声を上げ、主を習って的めがけて卵を投げる。
爽やかな秋の空のもと、中庭に立つ的は鶯色とは名ばかりの、乾いた土色の髪をしたクユリ。
人形ではなく、生きた人間のクユリだ。
クユリに向かって投げられるのは生の卵。
今朝クユリが鶏小屋から集めた、産みたての二十個。
ミレイ妃の投げた卵がクユリに命中すると歓声が上がり、続いて侍女達が卵を礫変わりにしてクユリに向かって投げつける。
一つ、二つ三つと、体にあたった卵が割れて、べっとりと纏わりついた。
もったいない……
食べ物を無駄にするなんて罰当たりだと思うが黙っている。
意見しても結果は同じか、更に悪化するだけだ。
次は鶏本体が飛んでくるかもしれない。
ここは黙って耐えるのが正解と、クユリは真っ直ぐに立って的に徹する。
最後の卵はクユリの額にあたって割れた。
「まぁなんて酷い的かしら。見ていると目が汚れてしまう」
ミレイ妃は沢山の侍女を引き連れ奥へと消えた。
残されたのは生卵を浴びたクユリと、砂に落ちた割れた卵たち。
「勿体無いことを……」
このままにしておくと叱られるのはクユリだ。
クユリは衣を一枚脱ぐと垂れる卵液を拭い、落ちた卵の殻を拾って砂を剥いだ。
卵の残骸は畑にまいて、服を着たまま小川に浸かる。汚れた服を脱いで裸になると、そのまま川で洗濯を始めた。
「後宮で良かった。陛下も来ないし」
後宮に出入りを許された唯一の男は皇帝だが、女性が苦手らしく訪れはない。二度、盥に乗って流れてきたが、クユリの知る限りあれ以来は流れてきていないので、裸でも男に見られる心配はなかった。
「さすがに冷たいなぁ……」
夏の盛りと異なって、秋を迎えた小川の水は冷たくなっていた。
衣に纏わりついた卵液を流すと、汚れた髪を洗う為に頭を小川に浸す。ぬるっとした感触がなくなるまで、丁寧に、かなりの時間をかけて洗い流した。
「それにしても、食べ物を無駄にするのは許し難いわね」
クユリは裕福な家庭に育ったが、畑で育つ野菜や家畜の世話も経験済みだ。どれだけの労力をかけて生み出されるか分かっているし、食うに困る人が大勢いるのも知っている。
領主の一人娘として蝶よ花よと育ったミレイ妃はともかく、仕える侍女の誰かが諭すべきだと思うが、追い出されるのを恐れてなのか、誰一人としてミレイ妃の暴挙を止める人間はいなかった。
そのうちの一人にクユリも含まれる。
いつ追い出されても文句はない場所だったのに、皇帝に会ってから書物という甘い汁を吸わされるお陰で、ここから出たくなくて沢山の卵を無駄にさせてしまった。
クユリは鶏が頑張って産んでくれた二十個の卵より、己の欲求を取ったのだ。
「わたしも同罪だなぁ……ごめんよ鶏」
皇帝の通いがなくて苛立っているのは分かるが、皇帝が通っていたとしても同じだろう。人に卵を投げつけて喜ぶような人は、ほんの少しのきっかけで同じことをやるに決まっている。
後宮という狭い世界で同類たちが集まった。
大人として恥ずかしいだけでなく、白い目で見られるような悪戯をしていると気付けない憐れな者ばかりだ。
卵を投げた侍女の中には、そうしなければ自分が標的になると恐れている者もいるだろう。
クユリにとって最も怖いのは……嫌なのは、追い出されて貴重な本を読めなくなることだ。
それに比べたら、冷たい小川に浸かって体を洗うことくらい何とも思わない。真冬でなければ日常にしても構わないが……卵を無駄にするので駄目だな。
クユリは張り付いた卵液を流し終えると、長い髪から水を滴らせながら、洗った衣を抱え裸のまま与えられた自室へと引き上げた。
乾いた布で濡れ髪を拭い、鏡の前で櫛を入れて梳かすと、これまでとは明らかに手触りが異なる。
驚いたクユリは鏡に乗り出し、髪を片側に集めて幾度か撫でた。
「つやつや?」
乾いた土色の髪が、椿油を塗っても大して艶が得られなかった髪が、どういう訳か艶やかに輝いているではないか。
色もまさに鶯色と例えられる、ほんのりと緑を帯びた土色に変わったように思えた。
「卵のお陰だ!」
髪だけでなく眉毛まで艶々だ。こんな風に髪が輝いたのなんて生まれて初めてですっかり嬉しくなった。荒れていた手や爪の先まで艶が蘇っている。
「思わぬ効果がでた」
ちょっと嬉しかった。
機嫌よく仕事を終え、暗くなると小川に沿って上流に進み、小さな門をくぐって許された道を少年の先導で進む。
部屋に入るときに少年が何か言いたそうにしていた。
うんうん、艶やかな髪に驚いているのだろう。
学ぶことに強い興味があるが、クユリも女だ。
過去に一度も艶やかになどならなかった髪に艶が生まれると嬉しい。
聞いてくれて構わない、いくらでも訊ねてと笑顔を作ったが、少年は眉を寄せただけで扉を閉めた。
「もしかして生臭かった?」
丁寧に洗ったので卵臭くはないはずだが、もしやと心配になって鼻を鳴らして自分の匂いを嗅いだ。
「卵の臭いは残ってないけど……まぁいいや」
ここに来るのは艶のある髪を披露して誉めて欲しいからではない。
机に置かれた本に手を伸ばしたクユリは、昨夜の続きに目を通し読み進めたが、しばらくすると悪寒が走り始める。
「なんだか寒い……」
風邪でもひいたのだろうか。
体が丈夫なのが自慢だったが、冷たい川に長く浸かり過ぎたようだ。
翌日目を覚ましたクユリは、体のだるさに加え熱っぽさも感じるが、洗濯女としての仕事を一日こなすと、運よくミレイ妃からの呼び出しを受けず早々に自室に戻ってそのまま床に就いた。
「駄目だぁ、風邪ひいてる」
無理しても本を読みに行きたかったが、熱も高くなってきて体の節々まで痛くなった。
これは出歩けない、でも本が読みたいと唸っているうちに、いつの間にか眠りに就いて――再び目が覚めると、愛らしい少女が傍らに座って、クユリの看病をしてくれているのが目に入った。
朱色を基調とした上等な衣を着た少女は、顔には白粉をはたき、口には紅を引いて、目元にも赤い線を入れている。
少女なのに、何処となく妖艶だ。
見覚えがあるような、ないような……
「……誰ですか?」
濡らした手ぬぐいを額に当ててくれる少女に訊ねると、少女はにっこりと笑う。
「私で御座います」
「え……?」
少女から洩れた声は鈴を転がしたような愛らしい声ではなく、声変わりを始めた少年の、たまに耳にする、リンと呼ばれる少年の声だった。