寄り添う二人
皇帝は筆を走らせる。
本来なら内容を吟味して名前を記し、押印すれば済む作業であるが、白紙に文字を書く所から印を押すまでをウルハに言われてしている。
面倒だったり、忙しすぎたりと大変だが仕方がない。何しろ皇帝なのだから。
生きる為に二人で努力した結果が皇帝という地位だった。
幼いころから面倒をみてもらった幼馴染の言葉に逆らうのはどうも難しいが、幼馴染は変わらず側で支えてくれ、常時意地悪な物言いをして皇帝を顎で使いながらも、何よりも皇帝のことを考えてくれる大切な友人でもある。
皇帝に足りない知識を補ってくれ、ウルハがいなければ皇帝も今頃は屍となり大地の一部となっていただろう。
臣下であるが、大切な人だ。
意地悪だが、皇帝の為にならないことは決してしない、信頼している人物である。
「手習いの一つと思えばいいか」
武に長けてはいるが、こまごました作業は得意ではない。がさつでもないが、幼いころからじっと座って文字を練習するのは性に合わなかった。
しかし大人になって……というか、ギ国との戦いで生死の境を体験し、鬼神と恐れられ、生きる為に多くの血を流した結果なのか。心穏やかに過ごす時間が必要と知って、大人しく座っていることが出来るようになった。
下手糞な字……と、クユリにも言われた。
確かに誰にも真似できないミミズの這ったような文字だ。皇帝も分かっている。
こういった前書きはウルハの仕事だが、文字の上達の為にも丁寧に文句を言わず、ゆっくりと、徹夜してこなしていこうと筆を握っている。
不意に燭台の炎が揺れ、皇帝は手を止めた。
「リンかい?」
戦場で拾って以来仕えてくれる少年の名を呼べば、気配もなく背後に立たれる。
「ウルハ様がクユリ様に接触いたしました」
「接触?」
「例の部屋に二人で籠っています」
「何だって!?」
皇帝は墨のついた筆を放り投げ、冠を剥ぎ取ると一目散に走りだした。
目指すはクユリに許した昇竜の間。
クユリがゆっくり本を読めるようにと選んだ、滅多に人が来ない場所にある小さな部屋だ。
皇帝がしていることは後宮の約束事を破ることだが、国を治めるのに問題になるようなことでもない。ウルハに知られても見過ごされると思っていただけに、クユリの身が案じられ、皇帝は大慌てで髪を振り乱し夜の闇を駆け抜けた。
「クユリ!?」
力任せに扉を開くと、丸く見開かれた希有な瞳が皇帝に向く。他の何処にもない、乾いた土色の髪をしたクユリがぽかんと口を開けて皇帝を凝視した。そのクユリの傍らには、触れるほど近くに身を寄せるウルハの姿。ウルハの口角が面白そうににぃっと上がる。
触れるほど寄り添う二人の手には開かれた本。
日中リンに託した、クユリの為に探した本だ。
クユリとウルハ、互いに寄り添うようにして同じ本を覗き込んでいた様子が窺え、仲睦まじい様に皇帝の胸はぎゅっと締め付けられた。
クユリは幾度か瞬きをして皇帝を観察した後、少しばかり首を傾ける。
「陛下、そんなに乱れていかがなさいましたか?」
「あ、いや……その」
クユリとウルハは密会していた訳ではない。見た所、ウルハがクユリを辛辣な言葉で追い詰めている様子もない。自分はいったい何を慌てていたのだろう。皇帝は繕うように乱れた髪を撫で、衣を正して背後を窺った。リンは姿を隠して見当たらない。
「ウルハがここに入ったと聞いて。そなたが咎められはしないかと案じ、取り乱してしまった」
結局繕えずに本当のことを口にした。
「ウルハ様に咎められてはおりませんのでご安心ください」
「本当かい?」
言わされている可能性もある。
問うと、クユリは「はい」と頷いて、ウルハと仲良く見ていた本を掲げた。
「早速ありがとうございます。分からない所をウルハ様に教えて頂いておりました」
「ウルハがそなたに教えを?」
驚いた皇帝はウルハを見やる。
ウルハは女に学など必要ないと考える、何処にでもある一般的な思想の持ち主だ。女は子を生み育て、時に男の道具として役に立つべきと、ごく一般的な考えの……そのウルハが洗濯女であるクユリにいったい何を教えていると?
信じられない思いで皇帝はクユリが手にした本に視線を戻した。
間違いなく兵法書だ。
日中、探して見つからず、ウルハの懐から出て来た、リンに預けた兵法書。
無駄を嫌うウルハが、女に無縁の戦に関わる学を教えている???
「ウルハ、そなたいったいどうしたのだ。熱でもあるのか?」
皇帝はウルハの異変を心の底から案じた。
何か企んでいる可能性もあるが、女に知識を授けている時点でそれ以前の問題だ。
「陛下、彼女はなかなかに鋭い見方をする逸材です。興味がわかない方が可笑しい。陛下は邪魔です、さっさと仕事に戻って下さい。さぁクユリ、先ほどの続きを説明して差し上げますから、よそ見せずにしっかりと聞きなさい」
一言でも聞き漏らしたら酷いお仕置きが待っていますよ――と含みのある言葉だが、長年付き合いがある皇帝だからこそ理解できる裏の声。それにクユリが気付けるはずがなく。
「はい、ウルハ様。ご指導お願いいたします」
と、クユリはキラキラした尊敬の眼差しをウルハに向けていた。
何かムカつく……と、皇帝は意味の分からない感情が湧き起こり眉を寄せる。
「陛下、何を突っ立っているのです。早くせねば仮眠の時間も無くなってしまいますよ」
笑顔でさらっと酷いことを言ってのけるウルハに、クユリが「そんな!」と反応して皇帝を見上げた。
「こんな時間まで仕事ですか!?」
「そうですよ。陛下は仕事が遅くて、臣下は困っているのです」
余計な仕事を与えてくれたのはウルハだ。それも意地悪で。
しかしクユリを前に情けない言い訳はしたくない。皇帝だからではなく、男としての小さな意地だ。
「きゅ……休憩だ。ほとんど仕事は終わっているから案ずることはない」
本当は字の練習がてらゆっくりと書いていたのでかなり残っている。けれどクユリとウルハを二人のこしてこの部屋を去ることはしたくなかった。
皇帝は机を挟んで二人の正面に腰を落ち着ける。
「さぁ、私に遠慮なく続きを」
余裕を見せて微笑んだが、皇帝の頬は引き攣っていた。