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ご両親がやって来た



 真っ白な紙に筆を走らせる。

 子供のころから変化のなかった、ミミズが這ったような、ナメクジが立ち止まっているような文字であるが、筆を走らせる皇帝は、近頃はずいぶんと改善されたと思っている。

 勿論、素早く丁寧な字を書くクユリの足元にも及ばないが、大人になってからの技術の向上はかなりの努力が必要だ。

 その努力する時間が圧倒的に少ない皇帝にとって、人が確実に読める文字を書けるようになっているのはかなりの上達と言えた。


「我が子が手習いを始める前に少しでも上手くならなければ……」


 この春に生まれた我が子。

 次の皇帝となる男児が、愛らしい小さな手で文字を習い始める頃には一定基準には達したい。

 皇帝が古書殿に未来永劫保管される予定の記録を、手習い代わりに書き連ねていると、普段は顔を見せない大きな男が面会を申し出てきた。

 何かあったのかと筆を置いて待つと、大きな男が扉を潜って膝をついて深く頭を下げる。


「そなたがここに来るのは珍しい。何かあったのかい?」


 膝をつくのは皇帝が武の師と仰ぐコウヨウだ。

 幼少期に育った地で出会い、兄やウルハにも武器の使い方や戦い方を教えてくれた男だ。

 共にギ国侵攻を阻み、皇帝が帝位に就く時に都へ連れて来た。以来、兵をまとめる将軍の役目を担ってもらっているが、現場向きの彼が皇帝の前に自ら姿を現すのは何か事件があった時だけだ。

 武力を削いだが、まさか再びギ国が攻めてきたとでも?

 滅多にない武人の青褪めた顔に、皇帝は腰を上げて素早く歩み寄る。


「何があったのだ?」

「それが――」


 顔を上げた武人の頬には、猫にでも引っ掻かれたような三本の傷がついている。一対一の戦いでこの男に傷をつけられる人間は滅多にいない。何があったのかと眉を寄せた皇帝に、武人は床に額を擦り付けん勢いで頭を下げた。


「申し訳ございません!」

「コウヨウ、誰も見ている者はいない。顔を上げて何があったのか説明しておくれ」


 何かがあったのは確かだが、ギ国侵攻といった類いの国の窮地ではなさそうだ。態度からそのように感じ取ったが、そうすると武人が何を謝っているのか分からない。


「何があった?」

「実は……クユリ様のご両親が孫に会いたいと、我が家にお出でになられまして」

「クユリの両親が?」


 急な知らせに皇帝は瞳を瞬かせ、武人は再び「申し訳ございません」と謝罪して頭を下げた。


「子が生まれたことは、手紙で知らせるとクユリが言っていたが。親としては孫に会いたいと願う気持ちも納得できるが、遠くからわざわざお出でになるとは」


 これはしまった、すぐに迎える準備をしなくては。

 幼いクユリにつぶてを投げ、額に怪我をさせて謝罪した皇帝からすると、相手は怪我をさせた娘のご両親。妻に貰っておきながら身分が邪魔して挨拶すらできていない状態だ。これ以上の無礼があってはならないと、レイカン国を統べる皇帝にしては庶民的すぎる感情が頭の中で駆け巡る。


「陛下。実はクユリ様とご実家を訪問した際に、ご両親には私とクユリ様が夫婦であると勘違いされてしまいまして。あの時は急いでおりましたこともあり訂正せずにいたのです」

「承知しているよ」


 皇帝自身が人伝ではなく、武人の口から聞いたのだ。病床であったがしっかりと記憶している。祝宴まで挙げられてしまったと謝罪した武人は酷く落ち込んでいたが、クユリの判断ならと、皇帝自身は嫉妬や腹いせをしようなどとは露にも思っていない。


「それについては、私からでは驚くのでクユリが訂正しておくと言っていたが――まさか?」


 クユリは知らせていないのかと、皇帝は目を丸くして武人を見つめる。


「そのまさかで御座います。私の身分はご報告しておりましたので、我が家を訪ねて来られたのですが。その、なんと申しますか。色々と誤解が生まれてしまい――」

「誤解……誤解か。想像ができるが一応、念のために聞いても良いか?」

「私の妻と鉢合わせたお母君が、愛人に年嵩としかさの女を迎えていると驚かれ、年嵩と言われた妻とちょっとした争いが勃発し。妻は妻で、私が隠れて愛人を囲っていると、恐れ多くもクユリ様を隠された女だと罵りまして、二人の間で取っ組み合いの喧嘩が始まってしまいました。またクユリ様の夫が陛下であると薄々感じておられたお父君は、私の手を取って事実で良かったと安堵の涙を流される始末でして……」


 たまたま仕事が休みで家にいた武人は、突然やって来た二人に心底驚いた。

 二人の態度から誤解が解けていないと悟り、急いで皇帝に知らせなくてはと思ったが、クユリの母が武人の妻を愛人と勘違いし、年嵩の女が好みだと思ったことをそのまま口にしたのが争いの始まり。

 妻は妻で、夫が隠れて女を囲い、子供を産ませていると勘違いして夫の頬を引っ掻くと、クユリの母が『うちの高貴な婿に何をする!』と口では言えないような汚い言葉での罵り合いが始まり、瞬く間に取っ組み合いへと変化した。

 武人は二人を止めるものの、皇帝やクユリが秘密にしたままの事柄をここで露見させてしまってよいものかと迷い、妻とクユリの母を別々の部屋に閉じ込め、急ぎ宮殿に足を運ぼうとしてクユリの父に手を取られる。そして泣きながら『あなたが娘の夫で良かった。不敬ながら、もしかして皇帝のお手付きになったのではと案じていた』と目と鼻から大量の水を流して喜ばれてしまったのだ。


 事の顛末を知らされた皇帝は唖然として時を止めていた。

 昔ではあるが、当時のクユリの母親は気さくな人だった。恐らく悪気なく、思ったままを口にしたのだろう。また武人の妻も気が強く、世間では珍しいかかあ天下だ。武人はそんな妻を愛しており、まさか夫が自分以外の妻を持つとは思っていなかったにちがいない。

 そんな二人が顔を合わせたらどうなるのか。

 皇帝は申し訳なく思いつつ、深く深呼吸をして、武人の頬に刻まれた生々しい爪痕を確認した。


「それはすまなかったね。そなたの妻には手紙を書こう。私が手紙を書いている間に、そなたはウルハに知らせを。ご両親にはこちらに来てもらうとウルハに伝えておくれ」

「宜しいのですか。恐れながらクユリ様のお父君は、娘が皇帝の妻になることを望んでいないように思われますが」

「それが事実なのだから仕方がない。普通ではないが、異質と言う訳でもない。驚かれるかもしれないが今後を考え、心配させないよう、現状を見てもらうのが一番だろう」


 後宮の解体が済んでいてよかった。第二夫人や愛人をもたない両親だ。後宮の役目を理解しても、妻を数多もつ男に渋い顔をしておかしくない。それでなくても皇帝は、クユリの額に生涯消えない傷をつけて印象が良くないはずなのだ。さらに悪い印象は刻みたくなかった。


「陛下、恐れながらお母君はともかく、お父君が事実を知ったら心臓が止まるかも知れないと、かつてクユリ様が仰られておりましたが」

「そ、そうなのかい?」


 それは大げさではないだろうか。何しろ皇帝は二人に頭を下げた経験もある。あの時は恐縮がられたが、心臓を止めるようなことにはならなかった。


「大丈夫だろうが、念の為にクユリにも相談してみようか?」

「それが良いと思われます」


 最悪、妻から誤解されても皇帝を守る――身代わりになってもいいと武人は覚悟を決めていたが、他人からするとこんな馬鹿げた覚悟ないと思う。


 その後、武人は妻の誤解を解き、妻は夫の皇帝に対する忠義を誉め称えた。


 対するクユリの両親は、娘に起きた現実に揃って眩暈を起こして倒れてしまい、武人の屋敷で介抱される始末。

 父親など数日目覚めず、このままぽっくり逝くのではと多くの者たちが案じたものだが、腹の音を鳴らして目を覚まし、空腹を訴えると今度は食べすぎて腹が破裂するのではと案じるほど食べていた。

 両親が武人宅で迷惑をかけていると知ったクユリは、息子を連れて武人の屋敷に駆け込む。そして両親との面会を果たしたが、元気になった母から「宮殿ツアーがしたい」と強請られ、父親は無言で首を横に振り……母があまりに強請るので問い合わせるとウルハが許可してくれたはいいが、父は再び倒れ床に臥せってしまい、ツアーの実現は遠退いたのであった。








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― 新着の感想 ―
[一言] 楽しく読ませていただきました! 番外編。 ウルハ夫妻編も読みたいです!!
[一言] お父様…メンタル弱すぎ?(笑)
[一言] やっぱお母さんが一番悪いとおもうんだ。
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