そして誰もいなくなった
空っぽになった後宮のとある庭園。
本来なら後宮に住まう妃それぞれが占有する領域に、他の妃や側仕えが許しなく出入りできないが、クユリは今、人の気配が消えたこの場所に、表情を硬くして立っていた。
皇帝に毒が盛られる事件を機に後宮の解体が行われ、残っているのはクユリだけだ。他の妃は全て後宮を出された。
ある妃は実家に不穏な動きがあったことを理由に、またある妃は話し合いによって。実家に帰っても恥をさらすだけ、後宮から出たくないと柱にしがみ付いた妃は相応の相手に下賜されることになった。
後宮解体に不満の声が上がったが、ギ国侵攻を二度も阻止した皇帝に毒が盛られた件が公表され、首謀者が元妃の実家であるとなれば誰もが押し黙るしかなかった。
後宮解体を告げた皇帝の冷たい視線は、『お前たちを疑っている』と告げていたのだから。
大なり小なり皇帝に不満を持っている妃の親や兄弟、連なる縁者は、それでも己の権力の為に縋り付いた。皇帝に後継ぎとなる皇子が生まれていないことをやり玉に上げ、国の安泰の為にと己の欲を隠して妃の必要性を訴える。
「妃ならおりますよ。皇帝陛下はただ一人、ファン家の後見を受けた妃を大変ご信頼されております」
ウルハの言葉に妃の実家は今しかないと、恐ろしい相手である皇帝からは視線を逸らして異議を申し立てた。
「恐れながら、陛下はファン家ばかりを贔屓しているのではありませんか!」
「ファン家には幼い陛下をお守りした功績がありましょうが、我が家は何代も前よりレイカン国の皇帝を支えてきた家系です。うちの娘を妃として残していただくのは当然かと!」
「うちとてそうです。謀反を働いたのはナハ家であり、我々ではございません。妃に陛下を惹きつける魅力がないのであれば、他の娘を献上する許可を頂きたいものです」
「もとより、私に連なる者に陛下を裏切る人間は一人もおりません。私の家系より新たな若い娘を妃に、なにとぞ今一度の機会を!」
皇帝には言えないが、ウルハになら訴えることができる男たちは饒舌だ。
次々に自分は別だと訴える男たちであるが、ウルハの調べによると彼らは、男色の噂に続いて、たった一人の妃を溺愛しだした皇帝に愛想を尽かし始めていた。自家の娘に通わない皇帝に見切りをつけ、他の皇族を皇帝にしようと画策する者は少なくなかったのだ。
クユリはウルハの傍らに息を殺して控え、いかに自分が皇帝の役に立つかと訴える男たちを『可哀想に』と思いながら見守っていた。
彼らの訴えも分かるのだ。
権力者は更なる権力を望むもので、清廉潔白な人間なんて奇跡のような存在であると分かっている。ナハ家のように実行しないだけましなのだと。
けれど次のナハ家になる輩は確実にこの中に存在しており、早々に芽を摘むことは残酷な罰を与えずにすむという点において、クユリは仕方がないことだと思っていた。
「これを皆様方に」
「はい、ウルハ様」
クユリはウルハに渡された書類を一つ一つ確認しながら、間違いないように渡して行く。
名前など書かれていない、全て内容が異なる書類だが、受け取った相手は訝し気に書類に目を通した途端、目をひんむいて貪るように読み始めた。
書類には受け取り手の悪事が事細かに記載されている。渡したのは一枚。小さな文字でびっしり書かれた者から、たった一行の者。ただし一つも漏らさず、多少大げさに。これが露見してちょっとした尾ひれをつければ首が飛び、一族路頭に迷うことになる。
ちなみに二枚に渡った者は早々に処分されているのでこの場にはいない。不在者の存在に気付いた者はかたかたと身を震わせる。
「更にもう一つ。これは皆様方に共通することですが、陛下が残すと決めたファン家の後見を受けた妃。彼女は妃の任を解かれる覚悟で後宮を飛び出し、毒で苦しまれる陛下の為に奔走されました。彼女の持ち帰った薬がなければ陛下のお命はなかったでしょう。毒が盛られたことは伏せておりましたが、私が後宮を捜索したことは妃たちよりご実家に報告済みかと。しかしながら大変残念なことに、陛下の身を案じる方は大勢いましたが、己の身を挺して何かをして下さった妃は彼女以外、誰一人としておりませんでした。陛下は彼女の勇気に大変感激され、唯一の妃とすることをお決めになられました」
妃が勝手に後宮を出れば処罰されるが、今回の件は皇帝が認め、大変感激していると告げれば文句は言えない。何しろ彼女が捨て身で薬を持ち帰らなければ皇帝は命を落としていたのだから。
クユリの件は巷で噂になっていた。噂を流したのはウルハだ。身分の低かった娘が妃となり、皇帝の命を救った美談は平民に受け入れられやすい。雄々しい皇帝に庶民への親しみが感じられる一因となったが、無言で威厳を放つ皇帝を前にする男たちには恐怖しかない。
「もし、陛下の命がない方が良かったと望む者がいるなら挙手を。その勇気に免じて例外なく、全ての妃を後宮から出すことに致します」
さぁどうぞと、ウルハの目が弧を描くが、手をあげる人間などいるはずがない。
「皆様方。陛下の温情に感謝を。皆様方が手にされている内容、陛下は見なかったことにすると仰せで御座います。ですが、何かをきっかけに思い出されることもありましょう。一層の忠誠を、期待しております」
真っ青になる権力者たちを前にしてウルハは恭しく頭を下げたが、傍らのクユリにはとても楽しんでいる雰囲気しか伝わってこなかった。
異議があるなら手を上げろ、悪事を読み上げ即処刑だと言っているようなものだ。
それにしてもよくこれだけの悪事を調べ上げることが出来たなと思ったが、リンによるとウルハは多少のことには目を瞑って泳がせ、大きくなるのを待っているのだという。小さな芽を潰しても楽しくないのだろう。ウルハとはそういう人だ。
そうして後宮からはクユリ以外、誰もいなくなった。
宮殿の中に小川で仕切られ中洲のようになった広大な敷地。
女だけが住まい、何百年と絢爛であったこの場所も喧騒を失くしている。
新たな夏を迎え、蝉の鳴き声が聞こえていたがどこかに飛び立ったのだろう。夕暮れになり昼間の暑さが治まった足元には、固められた茶色の地面があった。
地面を見つめるクユリの隣に皇帝が立つ。
「後宮に通わない私の為にウルハが埋めさせたのだよ。溺れるのが怖くて近寄れないのだと思ったのだろうね」
後宮に通わない皇帝を何とか通わせようとしたウルハの命令で、幼い頃に皇帝が沈められた池は埋められていた。
皇帝が沈められ、ウルハの母親が死んだ池。
もしかしたらだが、ウルハ自身もこの池を潰してしまいたかったのかもしれないとクユリは思う。ウルハに恐れるものがあるとするなら、皇帝を失うことだろう。
ウルハにとって何よりも大切なことは、皇帝を生かすことだ。子供だったウルハが母親よりも大切にしたのは皇帝に対する忠誠心だったが、その後に付いて来たものにウルハは気付いているのだろうか。
敬いながらも意地悪に、楽しく接している。皇帝である人との強い絆にウルハは気付いているのか。クユリは隣に立つ皇帝の手を握った。
「この数年でわたしの世界は一変しました」
変わった色だからと、ミレイ妃の側仕えとして後宮に連れて来られ、洗濯女に落ちて、皇帝と出会って。交友関係など皆無だったのに、皇帝と再会してから大切にしたい人が途端に増えた。
成人して急激に身長が伸びたリンは女装が難しくなり、ウルハは間もなく父親になる。
後宮の解体が急がれたのはクユリを守る為でもあったが、いがみ合いであっても女たちの声が失われて寂しいと感じた。
「華やかそうで、現実には恐ろしい場所だ。後悔しているかい?」
手をつないだまま皇帝がクユリを見下ろした。クユリは夕日を背にする皇帝を見上げ、暫く見つめた後に「いいえ」と首を振る。
「生を終える時に看取り合う約束をしました。とても重く深い約束です。そのような方に出会えて本当に嬉しい」
クユリが笑うと皇帝も笑ってくれる。
何もかもが上手く行くわけではないし、万人が生涯に渡って幸せではない。けれどクユリはこれまでの出来事を何一つ苦しかったと思いはしなかった。
皇帝に毒が盛られた時は流石に辛かったが、幼い頃の記憶があったお陰で奈落に落とされずにすんだ。生きていればこれ以上に辛いことが起きるかもしれないが、かもしれないことに怯えても仕方がない。
「楽しい家庭を築きましょうね、ギョクイ様」
クユリが空いた手で腹を撫でると皇帝が嬉しそうに目を細める。
「そうだね、よろしく頼むよ。これからもわたしを見捨てないでおくれ」
皇帝を見捨てるようなことはないし、したこともない。けれど少しばかり自信のない発言をする皇帝は皇帝らしくない、ギョクイと言う名のクユリの夫だ。
「勿論ですよ。時を刻むごとに古書殿の蔵書も増えていることですし?」
冗談めかして言えば、皇帝は情けない表情を作って肩を落として見せる。
「そなたを逃がさない為にも、更に蔵書を増やさなくてはならないね」
「それは大変嬉しいです。寝る間もなくなります」
「これから秋に向かえば夜長になる。読書は止めさせないが、時々は私の相手もして欲しいものだね」
膝をついた皇帝がクユリの手を取った。
「どうかこれからも私の側に」
「ギョクイ様も。ずっとずっと、死ぬまで一緒ですからね」
クユリも皇帝の手を握る。
いつまでも大切な人たちに囲まれて、幸せになれるよう生きていこう。苦労をしても気持ち一つで気分は変わるものだ。
~おしまい~
もうちょっと続く予定ではありますが、
キリが良いので
これにて『本編完結』とさせて頂きます。
ここまで応援していただいてありがとうございました。
ポイントやお気に入り登録、
そして何よりも感想はもらう度に更新の励みになりました。
感想を頂戴する度に、読んでくれる人がいると実感できて
一人ではないと感じられ、とても心強かったです。
誤字報告もありがとうございます、感謝しています。
番外編として一つ上げる予定です。
ここまで読んで下さった皆様、
応援して下さる皆様、
本当にありがとうございました。




