毒
それは夜明け前に起こった。
東の空が白み始めるころ、何やら騒がしい気配を感じてクユリは目を覚ます。ぼさぼさの髪を手櫛で梳きながら様子を窺っていると、呼びかけもなく寝室の扉が開かれ、武装した男たちがわらわらと入って来た。
後宮にどうして男がいるのか?
寝起きの頭で考えていると、武装した男に続いてウルハが姿を現した。これは何か大きなことがあったのだなと思い、着崩れた寝衣の合わせを閉じながらさらに様子を窺っていると、入り口をふさぐように立っていたウルハを押しのけ、男の子の姿をしたままのリンが姿を現し、クユリの前に陣取ると守るように両手を広げた。
「クユリ様ですよ、ご寵妃です。ウルハ様でもこんなこと許されませんよ!」
「権限は私にあります。皆、突っ立っていないで遠慮なく、徹底的に調べてしまいなさい」
ウルハが声をかけると、兵士たちは寝室をひっかきまわす。何かを探しているようだが、いったい何だろう。荷物は少ないので、目的のものがあればすぐに見つかるはず。
クユリは、成人したばかりのリンの背に守られながら、冷静に頭を働かせていた。
「リン、どきなさい」
「駄目です。クユリ様が犯人なわけありません!」
兵士はクユリには手を出さないが、ウルハは違ったようで自ら調べるとばかりに寝台に歩み寄り、リンが静止をかける。
恐ろしいウルハにリンが盾突くとは。クユリとリンの間に忠義や上下関係はないのに感動だ。
「リン様、大丈夫ですよ。陛下に何かあったのですよね?」
「クユリ様……」
振り返ったリンは今にも泣きそうだった。クユリは大丈夫と頷き、膝を立てて脇を緩める。普通の妃なら暴挙に怒りを覚えるだろうが、クユリには何が行われているのかきちんと理解できていた。
皇帝に何かあって、一人一人を調べているのだ。なにも出なければ一応の潔白は証明される。
「失礼いたします」
丁寧に声をかけたウルハが寝台に膝を乗せ、クユリの腰紐を解いて寝衣を剥ぎ取った。下着姿になったクユリの体に迷いなく触れるウルハを至近距離で観察する。
「陛下はご無事なのですよね?」
後宮に武装した兵が土足で立ち入ったのだ。しかもウルハにはその権限があるという。皇帝に何かあり、一時的にウルハが権利を引き受けている状態だが、いつまでも権利を主張できる訳ではない。ウルハが辺境に追いやった、役立たずの皇族たちがしゃしゃり出てくる前に解決したい事柄なのだ。
クユリの問いにウルハは答えなかったが、体を調べ終えると寝台から膝を下ろして身を引く。リンがすぐに衣と羽織を着せ付けてくれた。
暫くすると兵から何も出なかったと報告がありウルハが深く頷く。
「大変な失礼を致しました、どうぞお許しください」
ウルハが床に膝をついて深く頭を下げた。クユリは寝台から降りると、ウルハに飛びつく勢いで膝を突き合わせる。
「何があったんですか?」
「陛下に毒が盛られました」
「ご無事なんですよね!?」
そうでなければウルハがこれほど落ち着いている訳がない。そう、ウルハは意外にも落ち着いている。最悪が起きていれば、ウルハ自らが後宮に足を運んで妃を己が手で検分する暇はない。
「今のところは」
「今のところ――」
唖然と繰り返すと、ウルハは立ち上がってクユリを見下ろした。
「陛下が再び動かれるようになるまで権限は私にあります。クユリ、あなたに後宮を出る許可を差し上げます。リンと、陛下が信頼をおく武人を一人つけますから、二人が許可する所なら自由に行って構いません」
皇帝の側に行ってよいとの許可を頂戴し、クユリはリンと紹介された大きな男に伴われ、正式に後宮を出ることが叶う。
目指す先は皇帝の寝所だ。
リンよりも大きな武人が役に立ち、誰に咎められることなくいくつもの門を潜って、迷路のように複雑な建物の中を歩いて皇帝の寝所に辿りついた。
ひときわ高い位置に設えられた寝台の傍らには侍医がいて、皇帝の手首に指を当て脈を診ていた。リンがクユリの身分や顛末を説明すると場所を譲られる。
寝台を覗くと皇帝は意識がない。額には汗が滲んで、毒の影響で発熱しているようだ。息も荒く呼吸がし難そうで苦しそうだった。
「どんな状態なんですか?」
「水差しに毒が混入されておりました。幸いにも気付いて飲み込まずに吐き出されましたが、粘膜から吸収された分はどうしようもありません。臓器に負担がかからぬよう処置をしております。今後は投薬で何処まで回復されるかによります」
「毒の特定は?」
「毒を盛った人間を捕らえれば可能でしょう」
ウルハは毒を探しているのだ。毒の特定ができれば治療の算段もたち回復も早くなる。毒は後遺症を含め馬鹿にできないものだ。命を取り留めたとしても生涯を寝たきりで過ごすことになりかねない。
いったい誰が――まっとうな人間なら人に毒を盛ったりしないが、綺麗ごとが通じる世界でないのは百も承知だ。クユリは怒りや悲しみなど、様々に入り交じった感情を抱えて皇帝の手を握った。
皇帝は意識のないまま、堅く瞼を閉じて荒い息をし、額に汗を滲ませる。クユリに出来るのは側にいて額の汗を拭い、声をかけ、定期的に薬湯を飲ませることだけだった。
後宮からは怪しいものは出ず、ウルハは一度も姿を現さない。毒を盛った輩を特定する為に奔走しているのだ。
皇帝が意識を取り戻すことはなく二日の時が過ぎる。
時間の経過とともに体内に取り込まれた毒は消えるものだが、薬湯を飲ませても状態は一向に回復せず、肌の色は黒ずんで、臓器の損傷も疑われていた。毒の特定の為に毒見が残った水を調査していたが、一人命を落としたと伝えられる。
「匂いから青梅から抽出した毒が使われた可能性があります」
毒見が命を落としたと聞いた日、クユリは侍医から説明を受けて眉間を寄せた。
「青梅を食べたって死にませんよ?」
青梅は毒が含まれると知られているが、盥に山盛りの量を一度に食べなければ問題ない。
「濾過を繰り返して抽出したのやも知れませんが、毒が抜けぬ様子からして青梅だけではないでしょう」
「複合型ですか?」
そうだと頷かれ、とすれば、毒の特定がかなり困難であることになる。
「薬も効いていませんよね。何か他に方法はありませんか?」
豊富な知識を持つクユリだが、毒の特定ができなければ対処の仕方を探れない。専門である侍医も同じだが、そこはやはり皇帝の健康を守るレイカン国一の医者である。実体験のないクユリとは格が違った。
「ギ国の北の果てにシュロクと言う名の木が赤い実を付けます。その実を数年かけ乾燥させたものが、呼吸器の腫れや肝臓に効くとされています」
「ギ国ですか……」
幾度となく殺し合いをした国だ。つい最近も侵攻を受け退けた国だが、レイカン国の一部にはなっておらず、国境も当然開かれていない。しかもギ国の北の果てなんて、ここから最も遠い場所ではないか。
「ウルハ様がギ国にやっている密偵に命じて探させています。運が良ければ手に入れて戻って来るでしょう」
「運が良ければ――」
ギ国の大まかな地図がクユリの頭に浮かび、その後に北、そして図鑑で見たシュロクという馴染みのない樹木に移る。
とても珍しい木であるとされ、実る赤い実は成人男性のこぶし大であるが、乾燥させるとクルミほどの大きさになって――最後に浮かんだのは手のひらサイズのからくり箱だった。
「あっ!」
突然上がった声に、驚いた一同の目がクユリに集中した。