理想の母親
咎める声の主を一瞥したウルハはクユリに視線を戻した。
「陛下が水を恐れるようになった理由を知っていますね」
「ウルハ、やめないか!」
ウルハがクユリに問えば、咎めるように皇帝が声を上げる。
皇帝は「やめろ」と前に出てウルハに手を伸ばしたが、その手をウルハが弾いて拒絶した。
「陛下は黙っていてください。知りたいと仰ったのは陛下、そしてクユリです」
何かを悟ったらしい皇帝と、理想の母親像について話そうとするウルハ。クユリは二人を交互に見やり、話を聞く体制を整えてウルハを見上げる。
「知っています。後宮の女性に殺されかけたのですよね?」
妃の主導で池に沈められ、危うく命を奪われるところだったのをウルハが助けたのだ。それが原因で皇帝は水が怖くて、盥に乗せられ川に流されても自ら降りることが出来なかった。
「多くの女が手を下しましたが、その中に私の母がいました」
「ウルハ様の……お母様が?」
ウルハは一つ頷くと皇帝を一瞥する。クユリも釣られて視線を向けたが、皇帝はとても辛そうに俯いて拳を握りしめていた。
「あれは命令されたからであって、決して彼女が私を憎んでいたからではない」
「その通りですが、あの女は己の命大事さに、恩ある人の子を手にかけようとした。あの時私が止めなければ、間違いなく陛下は溺死していました。私は幼くして女の本質を見せつけられたのです」
後宮のとある池で行われた、度を過ぎた虐めだ。
男子を産んだ側仕えの子供を弄び、鬱憤を晴らす妃と、命令に従う下の女達。楽し気に声を上げる女の一人がウルハの母親であったと知り、クユリは薄ら寒いものを感じて組んでいた腕を解いた。
「どんな輩であっても女は女、忠義も何もあったものではない。ですがクユリ、あなたは違った。虐げられ貶められても全てを受け入れて、恨むどころか誰のせいにもせず、しっかりと芯を持って生きている。私の母があなたのようであればあの日の悲劇は起きなかった。クユリ、あなたは権力者に命令されても恩ある子供の頭を押しつけて、池に沈めたりは決してしないでしょう?」
そんなのは当然だ。問われるまでもなく、そんなことをする訳がない。
しかし、する人間がいることは容易く想像ができた。
ミレイ妃の戯れで生卵の的にされた記憶は新しい。皆が喜んでクユリに生卵をぶつけていた。クユリもいずれは池に沈められ、苦しむ様を観賞の道具にされたかもしれない。
成すがままを受け入れるクユリでも、流石に死ぬような目に合えば抵抗するが、妃に命令された女達が手を緩めるかと言えば否だ。何故なら、逆らえば次の標的が自分になるから。女の集団心理を間近で知る者なら、妃に逆らうのは簡単ではない。
ウルハの母親もその他大勢の、普通の女だったというだけだ。しかしウルハはそれが許せなかったようだ。皇帝が水を恐れたように、ウルハは母親のしたことがトラウマになっているのかもしれない。
「クユリ、あなたは私の理想です。私の母があなたのような女性であったならよかったと心から思います。陛下のお命が危ぶまれる中、目覚めぬ幼い陛下を前にあの女は、恩ある陛下の母に己の悲惨な状況を並べ立て許しを乞うた。私はそれが許せなかった。あの女は自分の為に再び陛下に手をかける日が来ると悟りました。だから私は――」
「ウルハっ、それ以上は言うな!」
皇帝がウルハの胸ぐらを掴んで罵声を浴びせるが、ウルハは薄く笑って暴挙を受け入れていた。
「あの女を処分したのです」
「違う、あれは事故だ!」
「そのように見せかけたのですよ。クユリ、私の母は酩酊し、陛下を沈めた池に落ちて溺死しました」
黙らせようとする皇帝を無視して、ウルハは恐ろしいことを口にする。
皇帝を沈めたのと同じ池で、酒に酔ったウルハの母親は命を落としたのだと。
後宮の人の足がつくようなただの池に落ちて、溺れ死んだのだと、薄く笑って告げる姿は恐ろしく異様だ。
「酔っても眠れない彼女に睡眠薬を飲ませ、陛下を沈めたあの池に誘い、突き落としたのは私です。池の泥に足を取られ立ち上がれず、やがて動かなくなりました。私はその全てを黙って見ておりました。下弦の月が浮かぶ、生暖かい風が頬を撫でる夜でした」
ウルハが言葉にする度に、クユリの脳裏にその光景が浮かんでくる。
下弦の月が闇を仄かに照らす。池の淵に立つ子供が静かに見下ろすのは、うつ伏せになって浮かんでいる母親の姿。
「クユリ、私はあなたに今のままでいて欲しいのです。あなたにはあの女のようになって欲しくない。僅かにも可能性があるなら、芽は摘み取ります。陛下がクユリを下賜できないなら、私がロギ家の娘を頂戴する。もとより愛など信じない私に幻想を求めても無駄ですよ。全てはあなたに変わって欲しくないという、私自身の為にしたことです」
もともとの根源はウルハが心に巣くわせる闇にあるのだ。
クユリは想像しなかった過去の惨劇に言葉を失ってしまう。幼い頃から共にいる皇帝は、ウルハの闇に気付いていたのだろう。口を封じれなかったことに消沈し、ウルハの胸ぐらを掴んだまま項垂れていた。
「そなたのせいではない。母も理解して彼女を恨んではいなかった。彼女が飲めない酒を飲んで酔ったのは後悔していたからだ。薬も眠れぬからと彼女自身が望んだのだ」
「当時の私も幼かったとはいえ、魑魅魍魎に囲まれ育ったのです。酔った女に薬を与え、池の前に連れて行けばどうなるか。想像できましたよ」
何もかも分かってやったのだと告げるウルハに、皇帝も反論できる言葉を失ってしまう。
「それからクユリ。あなたの額に口付けた理由ですが、それは私にも分かりかねます。恐らくは、打たれても身軽にかわし、己に正直で、意外に抜け目のないあなたといると楽しいからでしょう。何しろあなたは私の理想ですから。これからは”母上”と呼んで差し上げましょうか」
最後を冗談なのか本気なのか分からない言葉で締めたウルハは、自身の胸ぐらを掴む皇帝の手を引き剥がしてから、扉に向かうとゆっくり押し開いた。
「さて、私は謹慎中の身です。長く休んでいませんでしたのでゆっくりする予定ですが、陛下とクユリには仕事が山のようにあります。早々に戻って仕事を始めて頂いても宜しいでしょうか?」
動揺するクユリと、牙を抜かれたような皇帝。そしていつもと変わらないウルハだが、変わらないようでいて、開かれた扉が拒絶を表しているようだ。
思わぬ告白を聞いて、声が出せなくなっていたクユリの背を皇帝が押す。
「行こう」
「でもっ――」
言わせてしまったのはクユリだ。
皇帝は止めたが、ウルハは恐ろしい出来事を言葉に乗せた。
それをさせたのはクユリだった。
「いいから行こう」
背を押されてクユリは部屋を出るが、去り際に「それから――」とウルハがクユリを呼び止めた。
振り返るといつもと変わらない、掴みどころのない笑みを浮かべたウルハがいる。
「今後生まれるであろう皇女を、私と妻の間に生まれる男子に頂戴し、また女子が生まれた時は次代の皇帝に嫁がせる約束をしています。クユリ、しっかり役目をはたして下さい。多くの子を産んでくれることを期待していますよ」
まだこの世に生まれてもいない子供たちの将来まで決められている。怯えるクユリを皇帝が抱きかかえて連れ出した。




