盗み聞き
けたたましい音を立てて扉が開かれ、長持に隠れるクユリは身を縮めて息を殺した。
「やはり準備万端ではないか!」
怒りに満ちた皇帝の声。
クユリは更に身を縮めると、声を出してしまわないよう口をぎゅっと結んだ。
「ほら見ろ、妻を迎える準備を整えているではないか。一目で心を奪われたなど嘘だ。幼い頃から共にいる私を欺けると思っていたのか!?」
声を荒らげる皇帝は怒りに満ちている。
しかし皇帝の怒りはウルハに出し抜かれたことではなく、自分の為にウルハが犠牲になることに向いていた。
皇帝も気付くよな……と、クユリは落ち着きを取り戻す。
狭い長持ちの中で、楽な態勢を探して身をくねらせると再び息を殺した。
「そなたは何を考えているのだ!」
「陛下の御代がいかに健やかであるか、それだけに御座います」
皇帝の叱責する声は強いが、受けるウルハは落ち着き払っている。
ウルハにとって叱られるようなことではない、皇帝の為にやるべきことをしたまでなのだろう。と言うよりも、ウルハがやりたいからそうしたのだ。
けれど皇帝も、そしてクユリもだが、ウルハのしたことを喜んで受け入れることはできない。
「私の望みはあなた様を生かすことだけで御座います。私にとって陛下、あなた様だけが全てなのです」
「それならば何故クユリを排除しないのだ。ギ国侵攻の知らせがあった当初は、ロギ家から妃を迎えるのが最善であったのは確かだ。それを拒絶したのは私だが、昔のそなたであれば、妃としてのクユリを排除したであろう?」
「排除しなかったのは、クユリが陛下にとって必要だからですよ」
澄まして答えるウルハに、皇帝は「違う」と再び声を荒らげる。
「そなたがクユリを好ましく思っているからだ!」
「確かに好ましく思っていますが、陛下の想像とは異なりますね」
「その感情の意味を、そなたが理解していないだけだとは思わないのか?」
「女に対してですか。馬鹿らしい」
「ばっ、馬鹿らしい!?」
嘲るように『馬鹿らしい』と漏らしたウルハに皇帝は驚いたが、クユリは『馬鹿らしい』こそがウルハの本質なのだと思った。
ウルハは男尊女卑の典型的な思考の持ち主で、クユリを認めているのは奇跡に近い。
女であるクユリを認めるに至ったのは、ウルハの周囲には彼の御眼鏡に適う人間が少な過ぎたせいだろう。
ウルハは自分ができるせいで、他者に求めるものが高すぎる。
無能な輩を育てるのが面倒なのもあるかもしれないが、ウルハ自身が他人を信じることができないせいもあるのではないだろうか。
特殊な世界で育ったのは皇帝だけではなくウルハも同様だ。
周りは敵だらけ、信じたら裏切られる。しかし疑心暗鬼ばかりだと心が弱ってしまう。それを避けるために、ウルハは人を信じないのではとクユリは考えた。
ならば何故クユリは受け入れられたのかと言えば、様々なことを総合してだろう。
クユリには自立して生きたいという芯があった。
この世界で女が自立するのは困難だが、男尊女卑に逆らった考えを持たず受け入れ、知識は求めても権力に興味がない。幼い頃を見て知っていたのもあるだろう。皇帝に怪我をさせられても文句も言わず、クユリの親ですら娘の顔に傷ができたと騒ぎ立てることもなく。
普通の親なら、見かけが特殊で厄介な娘を嫁にやるよい機会だと、謝罪に来た皇帝に飛びついてもおかしくないのに、クユリの両親は人と異なる娘を厄介払いするような考えを持っていなかったのだ。
子供が多くいたこともあり、毛色が変わったのがいても、ただそれだけだったのかもしれない。
当時の皇帝は立場が弱かったにしろ、クユリの家からすれば皇帝の子供に変わりはない。皇家と繋がれる機会を掴むどころか野心の『や』の字もないことが、ウルハのどこかにある琴線に触れた可能性もある。
何よりも、女であるのに邪魔にならなかった、と言うのが一番ではなかろうか。
ウルハの知る女というものは、愚かでどうしようもない、自分の意見を押し通すことしか知らない、面倒で煩いだけの人種だ。集団になれば、人の道に外れたことも容易くやってしまう。
たとえ幼い頃の記憶だとしても、皇帝がそうであったように、ウルハの女性に対する認識がそうである可能性は否めない。
色々考えていると手元に光が差す。何事かと顔を上げると、長持の蓋が持ち上げられ、無表情のウルハが冷たい視線を向けていた。
「何をしているのです?」
「そ、それは……」
言い訳が思いつかない。
いや、ウルハのことが気になってと正直に言えばいいだけのことだが、隠れて盗み聞きをしていた身としては言い訳にしかならないような……無表情で見下ろす視線が恐ろしい。
助けを求めるように視線を彷徨わせると、さっきまで声を荒らげていた皇帝は驚きに目を見開いていた。
「リンはどうしました?」
「リン様はお帰りに……」
「よい判断です。あなたの身代わりは必要ですからね」
どうやらクユリが長持に隠れていたことで、ウルハには何が起きたのか予想がついてしまったようだ。
奥方様の使う高級家具に隠れてしまったのをまずは詫びようと、クユリはウルハに向き直る。するとウルハが「丁度よかった」と言ってクユリの手を引いた。
「ウルハ?」
皇帝が疑問の声を出すが、ウルハはそれを無視してクユリと体を密着させる。
「陛下、馬鹿らしいの意味を教えて差し上げましょう」
ウルハの指がクユリの頤を捕らえると、どこかで経験したなと思う隙も与えずに。
ちゅっ……
と、クユリの唇はウルハの唇によって塞がれてしまった。