裏切り者
起伏した位置から弓で射て、漏れた騎馬隊を熱した油で侵攻を阻む。逃れた敵に火を点けると、油に濡れた地面諸共焼け焦げた。それをも掻い潜り溢れる敵は真っ二つに切り捨てる。
ギ国の軍勢はリンのもたらした情報以上に多く、執拗で撤退の意思を見せなかった。そのお陰で皇帝も慈悲を見せず徹底的にやり尽くす。
皇帝自ら先陣を切った戦いは、とても悲惨なものとして語り継がれることになった。
勝ちはしたが味方にも相応の被害が出た。皇帝自身はほぼ無傷だが、上から弓を射ていたリンは飛び火を受け火傷を負ってしまった。
戦場で出会った幼いリンを駒として扱ったのは皇帝自身だが、一生残る傷をつけてしまったことにやりきれない思いを感じる。
それはリンに向けてだけではなく、残酷な手段で殺してしまった名前も知らない人間たちに対してもだ。
前に戦った時と違ってギ国は撤退をしなかった。
馬を失っても剣を手に挑んで来た兵たちを容赦なく切り捨てる。
血を浴び、切った肉の感触が消えないうちから、殺した人間にも家族がいたのか、愛する人がいたのだろうかとの考えが浮かんだが、皇帝は手を止めずに戦い続けた。
侵攻してきた騎馬隊を全滅させ、このままギ国に攻め入るべきとの声が上がったが、自国の被害を理由にして攻め入ることはしなかった。今後は賠償の話し合いに入る。殺さないぎりぎりの塩梅を計って糧を奪うのだ。
レイカン国に攻め入ろうなどと、二度と思わせないために徹底的に、他の国々への見せしめも含め、皇帝の指示の下で行われる。
「戦いの先に残るものとはいったい何なのだろうね」
油の臭いのする焦げた大地に立ち、ふと漏れた弱気な声に応える者はいない。
皇帝は片付けだけは済んでいる周囲を見渡した。
戦いが終わればすぐに都に戻るつもりだったが、酷くはないとはいえ火傷をしたリンを置いて行くのも心配で、また、ここにきて一月が過ぎてしまい、どのような顔をしてクユリに会えばいいのか分からなかったのもある。
このように酷いやり方で多くの人を殺す皇帝を、味方にも被害を出す皇帝を、クユリはどんな気持ちで待ってくれているのだろうか。クユリが仲良くしているリンにまで怪我をさせて、子供に何てことをさせるのだと怒って見限られてしまうのではないかとの考えが過る。
それにロギ家の娘が後宮入りして心細い思いをしているかもしれない。
今回はロギ家の力をかなり使ってしまったし、皇帝もすぐに都に戻ることが出来なかった。一度受け入れ、後宮に根付いた妃を追い出すのは難しいことだ。
ままならないなと溜息を吐いた皇帝だったが、人の気配に振り返ると、いる筈のない人の姿に目を見張る。
「ウルハ……そなた、どうしてここに?」
ウルハにはロギ家の娘を任せていた。
そのウルハが、ロギ家の娘を早々に後宮入りさせている筈のウルハが目の前にいる。何かあったのかと焦り駆け寄ろうとした皇帝の目の前で、ウルハが汚れた地面に両膝をついた。
「申し訳ございません」
普段は紙をめくるだけだが、皇帝と同じように武器を持ちなれた両の手が地面に付けられる。
ウルハの態度は幼馴染や友人に対するいつもの辛辣なものではなく、皇帝に対するもので、驚いた皇帝は駆け寄るとウルハの肩を揺すった。
「クユリに何かあったのか!?」
思いつくのはこの程度だ。
ウルハもクユリを認めている。そのクユリをロギ家から妃を迎えるのに邪魔になったからと邪険に扱うことは考え難い。しかしウルハは皇帝の為なら息を吸うのと同じように、容易く鬼になれる男であることを皇帝は知っている。
無理矢理顔を上げさせると、ウルハの目は下を向いてあくまでも臣下を貫いていた。
「ウルハ、答えよ!」
唾を飛ばす皇帝に、ウルハの視線がようやく上がる。
身を正し、焦げた地面に正座した状態で、ついていた手を膝に乗せたウルハは無表情で口を開いた。
「ロギ家より妃としてお迎えする予定のスラン様ですが」
「スラン……彼女がどうした?」
スランはロギ家の当主と正妻の間に生まれた娘だ。皇帝よりも八歳年下だが、妃になる娘は十五や十六が当たり前なので年齢差は関係ない。若ければ若いほど子供が産めると重宝されている節もある。
ロギ家は皇帝の妃に文句のつけようがない娘を用意していた。ファン家の後見があるとはいえ、後宮の中でクユリの立場も危うくなるかもしれない。もとは彼女を実家に帰すつもりでいたが、今回の戦に対するロギ家の貢献具合からいうとそれも無理になったが。
「彼女がどうかしたのか?」
皇帝がもう一度問うと、ウルハはやはり無表情のまま答える。
「私と一夜の過ちを犯しました」
「――は?」
一夜の過ちとな?
皇帝が眉間に皺を寄せ僅かに首を傾げると、ウルハの口角がゆっくりと上がっていく。
「陛下が迎えるべき妃を、臣下である私が食ったということですね」
「は? ……いや、ウルハ。何を言って――」
「若く美しいおぼこい娘です。私の擦れた心を癒してくれる彼女に心奪われ、犯してはならない過ちを。陛下、御処断を。腰の御刀で裏切り者の首をお取りください」
ウルハは笑って首を皇帝に差し出した。